19. 満月の深淵
模擬夜会が終わり、世界が深い夜の闇に沈む頃、奇しくも天上に君臨する月は、一切の欠けもない完全な円を描いていた。ひと月半ほど前、ある「女」が復讐の始まりを告げたあの夜と同じ、禍々しいほどに白い輝きを放つ満月である。
女子寮の一室で、サラ・スレイヤーは窓辺に立ち、その冷たい月光を浴びていた。
「……今日のアヴィ様……一体、どうしたのかしら」
脳裏に蘇るのは、先ほどの夜会でのアヴィの行動だ。ただの同級生であるはずのフィーネに対する、ルベールの馴れ馴れしく、強引な振る舞い。それに彼は理性を失ったかのような激昂を見せ、ルベールの手を捻り上げるという暴挙に出た。
(……あんなの、私のアヴィ様じゃないわ。あの執着を向けられるべきなのは、今の世界では私であるはずなのに)
サラは悔しさに震える指先で、自身の胸元を強くかき抱いた。ようやく掴んだ自分とアヴィの幸せな関係が、水面に映る朧げな月のように、たった一筋の波紋であっけなく掻き消されてしまうのではないか――そんな漠然とした恐怖が、彼女の心を冷たく支配していた。
その時、彼女の瞳がルビーに近い妖しい煌めきを宿し、変質した。
『ふふ……。随分と情けない顔をしていること』
サラの脳内に、普段は大人しくしているもう一人の人格――魔女の声が響く。それは鈴を転がしたような、けれど骨の髄まで凍りつくほど冷ややかな、大人びた女性の声だった。
「……ロベリア様……」
『あの小娘の存在が、そんなに気になるのかしら?』
「……アヴィ様の記憶は、完全に書き換えてあるのですよね?」
『ええ、当然でしょう。私が失敗をしたとでも?』
サラの探るような質問に、魔女が少し苛立ちを含ませた声で答えると、サラは怯えたように首を振った。
「い、いえ。……でも、それなら、どうして」
『そうねぇ……』
魔女は少し考えるように言葉を途切れさせた。思い出すのは二曲目のダンスの始まる直前。アヴィにかけた闇の魔法に、何かが干渉したのを感じた。
『……あの小娘の中に揺らめいていた、忌々しい魔力も一因ではあるでしょうね』
「魔力……? でもあの人は魔法が使えない無能と呼ばれていて……」
魔女の言葉にサラが首を傾げた。だが、その発言にこそ魔女が一瞬不可解そうに眉をピクリと上げ――次いでフッと笑った。
『何があったのかは知らないけれど、なかなか面白いことになっているようじゃない』
原初の魔女と呼ばれる自分が唯一危惧を覚える、闇の魔力の対極に位置する魔力。それを周囲の人間たちは気付いていないというのか。
(まあ、確かに何か厳重な制約をかけているようだったものね――)
かつて自分が生きていた頃、同じ魔力をその身に宿していた女の姿が一瞬だけ脳裏を過ぎる。
(その真面目さも、あの女のよう……)
そんな感傷的な思いが魔女の中で僅かに湧き起こる。だが、今の自分にはそんなことは関係ない。
『……まあ、いいわ。それよりも、あの王子の方も多少は問題ね』
「アヴィ様が?」
『あの小娘の力だけでは、記憶を取り戻すことなどできはしないわ。だけど――王子自身のあの小娘への執着が、こちらの想定以上であることは間違いない』
記憶を失えば、普通はそれ以上関わろうとはしない。だが、あの王子は違う。記憶だけではない、本能の――魂の部分があの娘を求めている。
『既にあれだけの行動を起こすほど、理性と本能が衝突しているなら、放っておくのは危ないかもしれないわね』
「そんな……――」
『ふん、別に大した問題ではないわ』
言うが早いか、魔女は自身の力を解放する。
強い闇の魔力が発動した瞬間、サラとしての意識は完全に深淵へと沈み、代わりに「魔女」としての意志が完全に肉体を支配する。それに連動するかのように、緩やかにその髪の色が、血のような赤色に染まっていった。
「フフ、……あんな王子、どうなっても構わないけれど――こちらの思い通りにいかないのは少しだけ癪だものね」
そう呟くと、魔女はニヤリと口の端を上げて笑う。彼女がそっと掌を天へ掲げると、ボッと音を立てて、光さえ吸い込むような禍々しい黒い炎が揺らめいた。
(せっかく私が用意してあげた『お楽しみ』は、まだまだこれからよ?)
「月が満ちる今夜なら、もっと深く書き換えてあげられるかしら? 王子の頭の中を、心地よい闇で、一滴も残さず塗りつぶしてあげましょう」
魔女が掌の黒炎を握りつぶすと、窓の外の闇が呼応するように深く、濃くなった。
◇◇◇
同じ頃、男子寮の自室に戻ったアヴィは、明かりも点けずに、闇に包まれた部屋のベッドの端に腰掛けていた。夜会の正装のタイを緩めることすら忘れ、ただ両手で激しく脈打つこめかみを押さえている。脳髄を直接針で突き刺されるような、恐ろしい頭痛が彼を襲っていた。
(……あの一瞬、私はどうしてしまったんだ)
目を閉じれば、ルベールの手を捻り上げた感触が、手のひらに生々しく残っている。
そこまで苛立つほどのことではなかった。さして話したことがあるわけでもない、ただの同級生の令嬢のためになど。この国の王子として、困っている者を助けるのは当然の義務だとしても、もっと穏便なやり方はあったはずだ。
不意に思い出すのは、ダンス前にフィーネの手を取った瞬間に脳裏を駆け抜けた、あの狂おしいほどの懐かしさを湛えた映像群。内容自体はやはり思い出せないが、とても大切なことだったような気がする。
どれだけ記憶の引き出しをひっくり返しても、彼女との思い出などどこにも存在しないというのに。
(私はサラを愛している。彼女を守り、この手で幸せにすると誓った。……それなのに、なぜだ。なぜ私の心は、別の令嬢にこれほど激しく揺さぶられている?)
暗闇の中で、アヴィは己の髪を片手で激しくかき上げた。サラ以外の女性を求め、あの場で抑えきれないほどの苛立ちを爆発させた自分。その制御不能な醜い衝動と、サラに対する裏切りのような不誠実さに、激しい自己嫌悪が彼を蝕む。
「私は……狂ってしまったのか……?」
どれほど考えても、答えなど出るはずがなかった。そこにあるのは、不自然にくり抜かれた「空白」の違和感だけ。押し寄せる思考の濁流と激しい頭痛に耐えかね、アヴィは逃げるようにベッドへと倒れ込んだ。限界を迎えた精神は、吸い込まれるように、泥のように重い眠りの底へと沈んでいく。
――そして、その無防備な意識の隙間に、再びあの悪夢が這い寄ってきた。
夢の中で、アヴィは誰かの手を掴もうとしている。白金の髪、アメジストの瞳をした、あの愛おしい少女の手を。
(……待ってくれ、行かないでくれ……!)
そこへ猛烈な勢いの黒い炎が空間に割り込むように現れ、アヴィと彼女の間を阻んだ。
「っ、なんだ、これは……!」
こちらを振り返ることもなく、目の前にいた彼女の姿が、炎に塗り潰されて黒く歪んでいく。
「やめろ、やめてくれ……!」
悲痛な表情で彼女を救おうと手を伸ばすアヴィの前に、黒いローブの女が姿を現した。その瞳は血のように紅く染まっている。知り合いではない、だがどこか既視感のある風貌にアヴィは警戒を込めながら問いかける。
「そなたは……」
「フフ、逃がさないわ。さあ、もう一度忘れてしまいなさい!」
「何を……、ぅあ、あああ……っ!」
夢の隙間から、魔女のあざ笑うような高い声が突き刺さる。夜会の最中、理性を失いかけた未熟な自分を責めるアヴィの心に、呪いという名の楔がさらに深く打ち込まれていくのだった。
◇◇◇
翌朝、彼が目を覚ました時、その瞳からは夜会で見せたような「熱い執着」は影を潜め、代わりに「完璧な王子」としての冷たく穏やかな仮面が一段と強固に貼り付いていた。




