20. 野外演習の始まり
模擬夜会の波乱から一夜明け。王立高等学園の大講堂は、月末に控えた大型行事である、一泊二日の野外総合演習の結団式に臨む最終学年の生徒たちで埋め尽くされていた。
壇上に立った教官が、よく通る声で朗々と語りかける。
「――諸君。この野外総合演習の目的は、単に魔獣を討伐する技術を競うことではない。我らがシルベスター王国の始祖、ゲイン・シルベスターが成し遂げた、あの偉大な革命の精神を学ぶことにこそある」
教官の言葉に、大講堂内が厳かな静寂に包まれる。
「遥か原初の時代、世界は圧倒的な魔力を持つ魔女たちに支配され、我ら人間は虐げられていた。だが始祖ゲインは、魔法を使える者も、使えない者も、身分や力の有無に関わらず皆をまとめ上げ、圧倒的な知略と魔法や剣術などの総合的な力によって革命を成し遂げたのだ。専門分野に関係なく、皆がそれぞれの持つ力を合わせて困難に立ち向かう――それこそが、この国を支える礎である。諸君らも、この野外総合演習において己の得意分野を活かして役割を全うし、仲間と協力して物事を成し遂げることの大切さを体感してほしい」
(――よくできた建国の理念だ)
整列した生徒の先頭で、ゲインの子孫でもあるアヴィは、いつもと変わらぬ穏やかで優美な微笑みを浮かべながら、教官の言葉を静かに聞いていた。
しかし、その数歩後ろに控えるウィリアムは、アヴィの背中を見つめながら、違和感を禁じ得なかった。
昨日の夜会、そして馬車の中で、アヴィは理性と本能の衝突による頭痛に苛まれ、「何かが間違っている」と血を吐くような苦悩を口にしていたはずだった。フィーネに対する、理性を失った激昂と、狂おしいほどの独占欲。それらが、今朝のアヴィからは欠片一つ残さず綺麗に消失している。
現在の主の微笑みは、まるで精巧に作られた人形のように非の打ち所がない。だからこそ不気味だった。人間らしい葛藤やノイズがすべて機械的に削ぎ落とされ、ただ「サラを愛する完璧な王子」という役割だけを演じる冷酷な仮面が、かつてないほど強固に貼り付いているように感じられる。
(……おかしい。昨日の苦悩されていた殿下とも、最初に記憶を改竄された時の殿下ともご様子が違う……)
最初に記憶を改竄された時は、フィーネの記憶をサラにすり替えただけだった。だからこそ、サラに対する態度には、フィーネに向けていたものと同様の愛情と慈しみが溢れていた。
だが、今のアヴィは違う。明らかに役割を演じているだけだ。
ウィリアムはそっと自身の腰に携えた短剣の柄に触れた。そこに嵌る藍色の魔石だけが、歪んだ世界の真実を彼に囁き続けている。
(……間違いない。昨日、部屋に戻った後に何かあったんだ)
アヴィの苦悩に気付いた魔女の手によって、さらに深い「上書き」が行われたのかもしれない。記憶のすり替えだけでは足りず、主の感情にも何か制約をかけたのかも――。
ウィリアムは拳をきつく握りしめ、冷徹な仮面の奥にある闇の深さに、静かに唇を噛んだ。
◇◇◇
結団式が終わり、生徒たちが大講堂から退場していく中、フィーネは人波の向こうに見慣れた金髪を捉え、自然と歩みを緩めた。
アヴィの隣には、嬉々とした笑みを浮かべ、彼にすり寄るサラ・スレイヤーの姿がある。
すれ違いざま、アヴィの碧色の瞳がゆっくりとフィーネに向けられた。
(あっ……)
フィーネは思わず、身を強張らせて身構えた。昨日のルベールへの過剰な反応が思い出され、また、彼の精神に刺激を与えてしまうのでは、と。
だが――アヴィの碧眼は、澄み切った水面のように、ただの一筋の波紋すら描かなかった。
「……グランドール嬢。通路で立ち止まると、後続の生徒の邪魔になってしまうよ」
それは、一点のノイズも、苛立ちも、苦痛の翳りすらもない、完璧に穏やかで冷淡な「第一王子」としての言葉だった。
フィーネは息を呑み、静かに一礼して身を引く。昨夜は直接触れた瞬間に表情を歪め、激しい衝動に葛藤していたはずの彼が――今朝は、ただの一瞬の躊躇いもなく、そつなく、冷ややかに、彼女を一瞥しただけでそのままサラとともに通り過ぎていく。
「……フィーネ様」
アヴィたちの後ろに付いていたウィリアムが、そっとフィーネに近付き、周囲に聞こえない声で耳打ちする。
「……今朝から殿下のご様子が変です。昨日の夜に、また魔女が何か仕掛けたのかもしれません」
「っ、そんな……!」
底知れない暗闇に突き落とされたような焦燥感が、彼女を支配する。このままでは、アヴィの魂は本当に闇に呑み込まれ、二度と戻ってこなくなってしまうかもしれない。
フィーネは袖口の奥のブレスレットを、ギュッと千切れんばかりに強く握りしめた。
(……落ち着くのよ、フィーネ。大丈夫、アヴィ様は決して……呪いに屈したりしないわ。どれほど突き放されても、私は二度と、あの方を疑ったりしないと決めたのだから)
目を閉じ、自分の荒れ狂う心を鎮めるようにそう言い聞かせる。そのまま小さく深呼吸をしてゆっくりと顔を上げた。
フィーネが落ち着きを取り戻したことを察したウィリアムは一つ頷くと口を開いた。
「……今は様子を見ましょう。何かあればすぐにご連絡いたします」
「分かりましたわ。私はしばらくの間、過去の文献をあたっておきます」
去っていくアヴィの冷酷な背中を見つめながら、フィーネの紫水晶の瞳には、絶望を叩き伏せるような、悲壮で、かつてないほど強固な決意の光が宿っていた。
◇◇◇
それからの半月間、フィーネは放課後は毎日、学園の図書館の奥深くへと籠もった。
ウィリアムから聞いた「原初の魔女ロベリア」の特性や呪いに関する魔導書や古代語の文献を、貪るように調べる日々。魔法が使えない自分であっても、アヴィを呪いから解放する術を見つけるために、できることを全てやりたかった。
同時に、月末の野外演習で班員たちの足を引っ張らないよう、広大な演習森林の地形図、生息する魔獣の習性や弱点に関する書籍を、文字通り頭の中に完璧に叩き込むことも忘れない。戦闘面において役に立てない自分にとって、戦術を広げるための知識こそが一番の武器だと知っていたからだ。
そんなある日の放課後。
「ねえ、フィーネ、今度の野外総合演習の件だけど――」
図書館の入り口で、親友のシンシアが待っていましたとばかりに駆け寄ってきた。
「今回の演習、班編成に厳しい縛りがあるのは知っているでしょう? 」
演習では、四人一組で班を作り、課題に取り組むことになっている。班員には、剣術・魔法・学術の専門科目履修者を少なくとも一人ずつ組み込まなければならない、というのがルールだ。
そんな知識を頭の中でなぞり、フィーネは頷いた。
「ええ、もちろん知っているわ」
「誰と組むかが重要でしょう? それで考えたのだけど、学術分野からはフィーネ、魔法分野からは私と……もう一人、魔導師団長の息子であるユアン・ファネージュ様はどうかなって」
「……どうしてファネージュ様なの?」
ユアンといえば、先日誘いをかけてきた男子生徒だ。あの時もシンシアは受ければいいのに、と笑っていたけれど――
「あら、決まっているわ。事前に申し込まれたからよ」
「……シンシア。面白がっているでしょう」
「ふふ、もちろんよ」
悪びれもせずに笑うシンシアに、フィーネはため息を吐いた。
「まあいいじゃない。それでね、あとは剣術分野の班員を誰にするか、なのだけど」
にっこりと、また妙にいい笑顔を浮かべてシンシアがフィーネを見た。何となくその笑顔に裏があるような気がして、フィーネが訝しんでいると、シンシアが後ろを振り返って手招くように手を振った。
すると、廊下の向こうから一人の男子生徒が、決意を秘めた表情で歩み寄ってきた。ワインレッドの短髪に、切れ長の瞳。サイモン公爵家の次男であり、剣術クラスの最高峰と目されるルベールだった。
ルベールはフィーネの前に立つと、右拳を左胸に当てる、騎士としての最も格式高い敬礼を捧げた。
「サイモン様……? 頭をお上げください」
「いや、このままで聞いてほしい。……先日の夜会では、俺の独善的な独占欲から無作法な真似をして、申し訳なかった」
ルベールは頭を下げたまま、絞り出すような声で続けた。
「殿下からお叱りを受け、自分がどれほど傲慢で、貴女の気持ちを蔑ろにしていたかを痛感した。……こんな俺だが、もしよければ、俺を貴女たちの班の『剣術枠』として入れてもらえないだろうか」
その必死な懇願に、フィーネは目を瞬かせた。
「俺の剣は、大切な者を守るために振るいたいと思っている。今回の野外演習では、剣を携える者として、命に代えても貴女の盾となり、守り抜くと誓う。どうか、俺に名誉挽回の機会をいただけないだろうか」
かつての独りよがりな熱ではなく、騎士としての真摯な覚悟を瞳に宿して見上げてくるルベール。
フィーネは、彼が自身の未熟さを認め、それを乗り越えようとしていることを察し、そっと優しく微笑んだ。
「サイモン様。私は気にしておりません。それに、あれは私の方にも非があったと思っております。ですから、どうぞもうご自身を責めないでください。私も、魔法も剣術も使えない身ですが、学術の知識で必ず皆様の力になります。今回の演習、どうぞよろしくお願いいたしますわ」
「……ああ! こちらこそ、よろしく頼む、フィーネ嬢!」
ルベールの顔に、心からの安堵と、新たな決意の光がみなぎった。
こうして、各分野のトップランナーが揃った、フィーネ班が結成された。
◇◇◇
その頃、生徒会室の机で書類を整理していたアヴィのもとへ、サラが甘えるような足取りで近寄ってきた。
「もうすぐ野外総合演習ですね、アヴィ様」
「うん? ああ、そうだね、サラ」
「勿論私とアヴィ様は同じ班ですよね」
サラの言葉に、アヴィは穏やかに頷く。
「ああ。それは勿論だよ」
「ウィリアム様も一緒だとして、あと一人はどうしましょう?」
サラが楽しげに問いかける。
かつてのアヴィであれば、このような時、真っ先に「白金の髪の少女」を同じ班に誘い、彼女を自分の目の届く場所で守るためにあらゆる手回しをしていたはずだった。
だが、今のアヴィの瞳には、一瞬の翳りも、思考の淀みすらも生じない。
「剣術クラスの友人に声をかけておくよ。実戦経験の豊富な者が一人いると、演習の効率が良いからね」
「分かりました、魔獣との戦いはちょっと不安ですけど……アヴィ様がいれば安心ですね」
「ああ、サラのことは必ず私が守るよ」
何一つ迷うことなく、完璧に「合理的で穏やかな第一王子」として微笑むアヴィ。
そのやり取りを背後で見ていたウィリアムは、アヴィに『微塵の躊躇いも、ノイズすら走らなかった』という現実に、ただ背筋が凍りつくのを感じていた。
(……あの日、夜会でフィーネ様とサイモン殿を見て、あれほど激昂されていた殿下が……今や、その存在を思い浮かべることすら完全に封じられているというのか……!)
魔女が満月の夜に施した「上書き」の呪縛は、ウィリアムの想像を遥かに超えて、アヴィの魂を完璧な冷たい檻へと閉じ込めてしまっていた。




