08. 歪められた思い出
あの日以来、フィーネは学園内でアヴィと顔を合わせないよう、細心の注意を払って息を潜めるように過ごしていた。
またあの冷酷で軽蔑に満ちた視線を向けられることは、フィーネにとって身を切られるよりも痛く、辛いことだったからだ。幸いにも二人の所属するクラスは別であるため、フィーネさえその姿を追いかけなければ、彼と鉢合わせるのを避けることは容易だった。
アヴィに会えない事もまた、フィーネにとっては耐えがたい苦しみだったのだが。
そして、歪んでしまった世界が彼女に突きつける問題は、それだけに留まらなかった。
「グランドール嬢」
「……何でしょうか。ファネージュ様」
中庭に続く回廊で呼び止められ、フィーネは心の中で小さく溜息を吐きながら、完璧な淑女の笑みを顔に貼り付けた。
ここ数日間で、なぜか男子生徒から声をかけられる頻度が異常なほどに増えていた。アヴィとの婚約が『最初からなかったこと』になった結果、彼女は世間において「まだ誰の組織にも属さず、婚約者も内定していない、最も価値ある公爵家令嬢」として認識されているのだ。
今日声をかけてきたのは、ファネージュ侯爵家の次男であるユアンだった。
「よろしければ、明日の研究課題をご一緒に――」
「身に余る光栄ですが、明日はあいにく先約がございます。別の友人と約束しておりますので、申し訳ありません」
有無を言わせぬ洗練された拒絶の笑みを返し、相手が次の言葉を紡ぐ前に、フィーネはそそくさとその場を後にした。
数歩後ろで、その「先約の友人」であるはずのシンシアが、肩を震わせて笑いを噛み殺している。
「シンシア……」
「ふふ、ごめんなさい。でも、あんまり貴女がつれないから。ユアン様といえば、学内でも指折りの人気を誇る方よ? 少しはお相手をして差し上げてもバチは当たらないんじゃないかしら」
まだ婚約者もいないのだから自由に選べるでしょう、と言外に匂わせる親友の言葉に、フィーネの心はまた暗く沈んだ。
確かにユアンは容姿端麗で人当たりが良く、女生徒からの支持も厚い。さらにファネージュ侯爵家は代々強力な魔力を有し、宮廷魔導師を多数輩出している名門であり、現師団長は彼の父親だ。
ユアン自身も魔法の成績は学年トップクラスで、将来を約束された超優良物件と言える。
……とはいえ。
「……私には、そんなつもりはないもの」
アヴィとの婚約がなかった事になっているからといって、はいそうですかと簡単に他の男性へ心を切り替えられるはずがなかった。
「そんなことばかり言って。私たちがどれほど家柄に恵まれていようと、卒業すればどこかの貴族家に嫁がなければならないのは決定事項なのよ?」
「そう……よね……」
「え、何? 違うの?」
「……いいえ。そうなるんでしょうね、やっぱり」
どこか他人事のような、実感の湧かない声音でフィーネは呟いた。
アヴィとの婚約がなくなった以上、この先自分を待っているのは、家格の釣り合う見知らぬ男性のもとへ嫁ぎ、公爵家の外交カードとして生きる未来だ。現在のグランドール公爵家には年の離れた弟のロベルトがいるため、フィーネが婿を取って家を継ぐ必要性もない。
自分の存在価値そのものが、また世界の隅へと追いやられていくような感覚に、フィーネは胸を締め付けられた。
◇◇◇
そうして一週間を乗り切った週末、フィーネは再び実家である公爵邸に戻ってきていた。先日の娘の様子を心配した公爵夫妻が強制的に呼び戻したのだ。
「……ただいま戻りました」
「ああ、お帰り。フィーネ」
「お帰りなさい」
屋敷に入ると心配そうな表情をした両親がフィーネを出迎えた。しかし、暗い表情の彼女を見て眉を寄せる。
「フィーネ? どうした? 少し痩せたのではないか?」
「……いえ、たいした事はありません。少し体調が優れないだけです」
誤魔化すように微笑んで首を振ると、フィーネは荷物を傍らに控えていた執事に預ける。
「すみません、少し部屋で休ませていただきますね」
それだけ言って、何か言いたそうな両親を残し、フィーネは逃げるように自室へと足を向けた。
半ば駆け込むように自室の重い扉を閉めると同時に深いため息を吐き出した。
無意識のうちに室内を見回し、室内の調度品に歩み寄る。お気に入りであるアンティーク調の木製チェストの前に立ち、最上段の引き出しをそっと引いた。
(もしかして……これらも全て、消え去っているのではないかしら……)
そんな根源的な恐怖に指先を震わせながら中を覗き込む。しかし、最悪の予想は外れたようだった。
「……あった……」
安堵のあまり涙が零れそうになる。そこには、これまでの記念日や誕生日に、アヴィが彼女に贈ってくれた大切なプレゼントの数々が、当時の輝きのまま収められていたのだ。ドレスなどの大きな品は別格として、指輪やブローチといったアクセサリー、彼からの直筆の手紙はすべてここに保管してあった。
婚約後、初めての誕生日に贈られた、緻密な銀細工が施されたオルゴールの小物入れ。その翌年にもらった一粒石のブローチ、そして昨年の記念日に贈られた美しいネックレス。さらに、彼が毎回添えてくれた大輪の花束から、フィーネが丁寧に押し花にして作った栞たち。
二人が積み重ねてきたたくさんの思い出が、そこには厳然と残っていた。
フィーネは傍らに綺麗に束ねられていた封筒の中から、一通を取り出した。
上質な羊皮紙の表面には、アヴィの几帳面で気品ある筆跡で、『愛するフィーネへ』と明確に記されている。裏返せば、流麗な文字で『アヴィより』と彼のサインもあった。
「これを見ていただけば……信じてもらえるかしら……?」
暗闇の中に小さな希望の灯火を見出したフィーネは、胸を高鳴らせた。しかし、残酷な世界の法則は、彼女のささやかな救いすらも容赦なく踏みにじる。
「お嬢様? どうかなさったのですか?」
執事室から預かってきた荷物を整理していた専属侍女のジーラが、フィーネのただならぬ様子に気づいて声をかけてきた。
フィーネは弾かれたように振り返り、縋るような思いで手紙の一通を差し出した。
「ジーラ! お願い、これを見てちょうだい!」
「……手紙、ですか?」
ジーラは怪訝そうに首を傾げながら、その封筒を受け取った。
「そうよ、手紙よ。アヴィ様からいただいた、大切な……」
「殿下から……?」
ジーラは不審の念を隠せない様子で封筒を裏返し、差出人の名前を確認しようとした。だが、その瞬間、彼女の細い眉が怪訝そうに深く顰められた。
「お嬢様? これは一体、どなたから頂いた悪戯ですか?」
「え……? 悪戯だなんて、そこにアヴィ様の直筆で名前が書いてあるでしょう?」
「いえ……何も書いてありませんが。無地の封筒ですよ?」
「そんなはずは――」
焦燥に駆られたフィーネがジーラの手元を覗き込むと、信じられないことに、フィーネの目には今もはっきりと見えている『アヴィより』という文字が、ジーラの視線の先では完全に消失しているようだった。
「なら、中の便箋は!? 中の手紙を読めば、彼の筆跡で分かるはずよ!」
半ば錯乱しかけながら、封筒の中身を取り出させる。しかし、便箋を広げたジーラの表情は、冷ややかな困惑に染まるだけだった。
「……お嬢様、落ち着いてください。これはただの、白紙の便箋ですわ」
「白紙……? そんな、嘘よ……!」
ジーラの手から便箋をひったくるようにして見つめるが、フィーネの瞳には、かつて彼が綴ってくれた甘く切ない愛の言葉が克明に浮かび上がっている。だが、ジーラにはそれが一切見えていない。
ブレスレットの時と同じだ。アヴィに直接繋がる物品の『真実の姿』は、どうやら周囲の人には見えないか、もしくは変化して見えるらしい。
これでは、どれほど思い出の品を集めてアヴィの前に持っていったところで、意味をなさない。それどころか「無地の便箋を持って婚約者だと主張する正気のない女」あるいは「サラの私物を盗み出した泥棒」として、決定的な破滅を迎えるだけだ。
「……どうしたらいいの……?」
フィーネは手元に残された手紙を見つめ、絶望の淵で呆然と呟いた。
そもそも――この文字が見えている自分の頭の方が、本当はおかしくなってしまったのだろうか。ジーラの言う通り、ここにあるのはただの白い紙で、全ては自分の孤独が生み出した醜い妄想の幻なのだろうか。
世界が狂っているのか、自分が狂っているのか。その境界線すらも、今のフィーネには見定められなくなっていた。
◇◇◇
その日の夜。夕食の時間を告げるメイドに連れられ、フィーネは公爵邸の厳かな食堂へと足を運んでいた。
重苦しい沈黙が流れる中、スープを口に運ぶフィーネの様子を、母のリリアナが痛ましそうに見つめる。
「フィーネ……体調は本当に大丈夫なの? 顔色が優れないようだけれど」
「……はい。大丈夫ですわ、お母様」
静かに微笑んでみせる娘に、今度は父のジェラルドが気まずそうに、しかし意を決したように口を開いた。
「フィーネ、その……先日の、お前の言動についてなのだが……」
「……第一王子殿下のこと、でしょうか」
「う、うむ……」
両親の困惑と心配が入り混じった視線を受け、フィーネはスープ皿を見つめて視線を彷徨わせた。ここで話を合わせて「私の勘違いでした」と言えば、きっと両親は安心するだろう。だが、アヴィとの絆を自ら否定するような嘘を吐くことだけは、どうしても躊躇われた。
「……私の答えは、今も変わりません。アヴィ様と私は、確かに深く想い合い、婚約を結んでいたはずなのです」
「フィーネ! まだそのような夢物語を言っているのか……!」
「どうしてそんなことになってしまったの、我が娘ながら信じられないわ……」
ジェラルドは苦渋に満ちた声を上げ、リリアナは悲痛な面持ちで夫に縋った。
最愛の両親から「気が触れた哀れな娘」を見るような眼差しを向けられ、フィーネは泣き出しそうになるのを必死に堪え、テーブルの下でドレスの裾を強く握りしめた。
「フィーネ、よく聞きなさい。第一王子殿下の婚約者は、スレイヤー男爵家のサラ嬢だ。これは国王陛下公認の事実であり、決してお前ではないのだよ」
「……それは、聞きましたわ」
「ならば、なぜ……」
「それでも、殿下は――!」
思わず声を荒げかけ、フィーネはハッとして自身の口を手で押さえた。食堂の給仕たちが一斉に息を飲む気配がする。
「……申し訳ありません。取り乱しました」
「フィーネ……」
「……お願いです。もうしばらく、私に時間をください。まだ……気持ちの整理がついていないのです」
消え入りそうな声で懇願する娘の姿に、グランドール公爵夫妻はただ悲しげに顔を見合わせるしかなかった。
世界から孤立し、暗闇に取り残されたフィーネの心は、凍てつく夜の寒さの中で音を立ててひび割れていくようだった。




