07. 戸惑う者たち
深い闇の底から浮上するように目を覚ましたフィーネは、ぼんやりとした意識のまま上体を起こし、力なく辺りを見回した。
重厚な遮光カーテンの隙間からは、うっすらと白み始めた朝焼けの光が射し込んでいる。どうやら、いつもより少し早く目が覚めてしまったらしい。
(……ええと……私、どうしたのだったかしら……)
頭の奥がひどく重く、鉛でも詰められたかのように瞼が開けにくい。そればかりか、目元の皮膚が突っ張るように痛む。まるで、一晩中泣き疲れた後のような――そこまで考えて、フィーネははっと息を飲んだ。
「私……確か昨日、アヴィ様に……」
押し寄せた記憶の濁流に、再び心臓を直接抉られるような痛みが走る。
昨夜、女子寮のベッドで涙が涸れるまで泣き明かしたというのに、思い出しただけでまた熱いものが瞳から溢れ、視界を滲ませていく。
「……あれは……本当に、現実なの……?」
悪い夢を、見ていただけではないのだろうか。今日改めて学園へ行き、彼の前に立てば、以前のような優しいアヴィが「どうしたんだい、そんなに青い顔をして」と微笑みかけてくれるのではないだろうか。
到底叶いそうもない淡い期待に縋り付くように、フィーネは己の華奢な身体を抱きしめるようにギュッと腕を回した。その時だった。
シャラ……
静まり返った寝室に、金属の擦れる繊細な音が小さく響いた。フィーネは緩慢な動作で、自身の左手を目の前へと持ち上げた。
「……これ……」
彼女の白い手首で、綺麗に並んだ美しい石たちが朝日に照らされてキラリと光を放った。
それは、二人の婚約が正式に内定したあの日に、アヴィから贈られた大切なブレスレットだった。華奢な金の鎖に、アヴィの瞳と同じ鮮やかな『碧色の石』と、フィーネの瞳と同じ深い『紫色の石』が交互に並んでいるだけのシンプルな作り。だが、派手な宝飾品を好まないフィーネの好みを完全に熟知していた彼からの、最高の贈り物だった。
『いつも身に着けていてくれると嬉しいな。私の代わりに、君を守れるように』
そう言って、照れたように、けれどこの上なく愛おしそうに微笑んだ彼の仕草が、今でも鮮明に思い出せる。
(……あまりに手に馴染みすぎていて、着けていることすら忘れていたわ……)
震える指先で、そっと碧色の宝石に触れる。これは彼の色彩だ。間違いなく、あの幸せな日々に彼が自らフィーネの手首に飾ってくれたもの。
「……妄想なんかじゃ……ない……」
周囲の人間がどれほど否定しようとも、アヴィと自分は確かに深く想い合い、未来を誓い合った婚約者同士だったのだ。フィーネはブレスレットを愛おしそうに胸に抱きしめた。
そんな彼女のささやかな抵抗を破るように、不意に寝室のドアが遠慮がちにノックされた。
「おはようございます、お嬢様。お加減はいかがですか……って、まあ! どうなさったのですか、そのお顔は!」
昨日のフィーネの異常な様子を気にかけていたのだろう。心配そうに部屋に入って来た専属侍女のジーラは、ベッドの上で呆然としているフィーネの顔を見るなり、驚愕のあまり持っていたトレイを落としそうになりながら声を上げた。
「……そんなに酷い顔かしら?」
「酷いどころではありません! 目は充血されていますし、瞼が信じられないほど腫れ上がっています! すぐに厨房から氷を持って参りますわ!」
バタバタと慌ただしく部屋を出ていくジーラの背中を見送りながら、フィーネは力のないため息を吐いた。
どうやら、今日の状態で学園に登校するのは不可能のようだ。この痛々しい顔で教室に現れれば、周囲に不要な心配をかけるだけだろう。特に友人のシンシア辺りが「どこのどなたがフィーネを泣かせたの!?」と大騒ぎしそうだ。
「……いつもなら……」
ふと、過去に風邪をこじらせて学園を休んだ時のことを思い出す。
あの時は、体調不良で欠席したフィーネを心配するあまり、アヴィは放課後になるやいなや、周囲の制止も聞かずに女子寮の面会室までお見舞いに駆けつけてくれた。
フィーネの負担にならないようなお菓子と、心を癒す花束を抱え、心から痛ましそうな表情を浮かべて。そうして、彼女が退屈しないようにと、その日の学園での出来事を可笑しそうに話して聞かせてくれたのだ。
胸を締め付ける思い出に浸っていると、ジーラが氷とタオル、そして水を張った銀の桶を抱えて戻ってきた。
「お嬢様、とにかく横になってください」
促されるままに再びベッドへ身を横たえると、ジーラが氷水で冷やしたタオルをきつく絞り、フィーネの目元へと優しく載せた。じわりと熱を持った瞼に冷気が染み渡り、心地よさに小さく息を吐く。
「……ありがとう、ジーラ」
「一体、何があったのですか? 昨日からご様子がおかしかったようですが……」
タオルの向こうから聞こえるジーラの声は、純粋な心配に満ちていた。
フィーネは一瞬、真実を言うべきかどうか迷った。だが、ここまで取り乱した姿を見られている以上、体調不良だけで誤魔化し切るのは限界があると悟り、思い切って問いを投げかけた。
「ねえ、ジーラ……。アヴィ……いえ、第一王子殿下の婚約者は、誰かしら?」
心臓がトクトクと早く脈打つ。タオルの下でゴクリと息を飲み、ジーラの答えを待った。だが――やはり、現実は残酷だった。
「……殿下の、ですか? 唐突にどうされたのです。確か、スレイヤー男爵家のご令嬢――サラ・スレイヤー様だったと記憶しておりますが……それが何か?」
なぜそんな当たり前のことを聞くのか、と言わんばかりの声音。返ってきたその答えは、やはり昨日シンシアから告げられたものと完全に一致していた。
アヴィがくれたブレスレットに勇気をもらったはずなのに、現実の壁はどこまでも厚い。世界は確かに、自分の知らないところで変わってしまっている。
「お嬢様? 一体何があったのです?」
「……皆は覚えていないかもしれないけれど。私、アヴィ様と正式に婚約していたはずなのよ」
目元を覆っていたタオルを外し、首を傾げるジーラをまっすぐに見つめて、フィーネは自分の中の絶対に譲れない真実を告げた。しかし、ジーラの反応は冷ややかな困惑だった。
「……は? お、お嬢様? 朝から何をおっしゃって……」
「ええ。きっと私の頭がおかしくなったと思うのでしょうね。……だけど、妄想ではないの。私はちゃんと覚えているわ。現に、このブレスレットだって……」
「ブレスレット……ですか?」
フィーネは自身の左手を持ち上げ、朝日にきらめく金の鎖をジーラの目の前に示した。
「これは、婚約が決まった時にアヴィ様から直接いただいた物よ。見て、彼と私の瞳と同じ、碧と紫の石が付いているでしょう?」
これで分かってくれるはずだ。そう期待を込めてジーラの顔を見たフィーネだったが、ジーラは主の手首にあるそれを見て、いよいよ本格的に怯えたような表情を浮かべた。
「お嬢様、何を……おっしゃっているのですか? 確かに碧色は殿下のお色と言えなくはないですが……もう一つの石は、どう見ても鮮やかな『紅色』ですよ? お嬢様のお色とは全く違いますし、どちらかと言えば、サラ様の瞳の色に……」
「紅……? これが……?」
ジーラの言葉に、フィーネは今度こそ絶句し、アメジストの瞳を限界まで見開いた。
自分の目には、どう見ても「紫色」に見える石。しかし、ジーラにはそれがサラ・スレイヤーを象徴するような「紅色」に見えているというのだ。モノの色彩認識まで狂わされているのか、それともこれ自体が見る者によって色を変えるのか。
「一体……世界はどうなってしまっているの……?」
底知れない恐怖に全身を震わせ、結局その日、フィーネは学園を欠席せざるを得なかった。
◇◇◇
一方その頃、男子寮の一室では、第一王子の従者であるウィリアムが早朝から自室で悶々と頭を悩ませていた。
昨日あの後、アヴィの機嫌を伺いながら、それとなく「グランドール公爵令嬢」との過去の出来事について話を振ってみたのだが、アヴィは全く取り付く島もなかった。それどころか、何度も食い下がるウィリアムに対し、最後には「ウィリアム、最近疲れているのか? 少し休んだ方がいい」と、真剣にこちらの精神状態を心配される始末だった。
何しろアヴィだけでなく、周囲のクラスメイトも、王城の侍女たちも、誰一人として「アヴィの婚約者がフィーネだった」という事実を覚えていないのだ。代わりに皆の口から滑らかに飛び出すのは、昨日まで影も形もなかった「サラ・スレイヤー」という男爵令嬢の名。
(……狂っているのは、俺の方なのだろうか……)
机に両肘を突き、組んだ手の上に頭を乗せて深い吐息を漏らす。
自分の記憶の中では、アヴィの唯一無二の相手はフィーネ以外にあり得ない。アヴィが彼女に向ける溺愛の眼差しを、最も近くで見てきたのは自分だ。それなのに、世界中の人間がそれを忘却しているなんて、そんな不条理があり得るだろうか。
いっそ、最初から自分の脳が狂っていて、全てが強烈な記憶違いだったと考えた方が、よほど精神的には楽かもしれない――。
(――いや、そんなはずはない)
ウィリアムは即座にその弱気を脳内で一蹴した。
フィーネの存在とは別に、あの日王城を襲撃した「魔女を騙る女」について周囲に尋ねてみたが、アヴィを含め、誰もあの日謁見の間に不審な女が現れたことすら覚えていなかった。あの悍ましい闇の魔力、そして女の狂気的な高笑い――あれほどの事象が全て自分一人の夢だったなど、絶対にあり得ない。
そもそもおかしかったのだ。あれだけの事件があったというのに、翌日の朝から普通にアヴィとともに学園に戻ってきていたという現実が。事件の事後処理も、帰着された陛下や王妃陛下への報告も、あのアヴィの言葉を聞くまで、自分自身、その記憶が曖昧になっていた。
(間違いない。やはりあの魔女の闇の魔法――いや、呪いによって、世界規模で人々の記憶と認識が操作されているんだ)
よりにもよって、アヴィにとって最も大切なフィーネとの記憶を、他の不審な娘とすり替えるなど、なんと陰湿で非道な真似をするのだろうか。
「……絶対に許さん……」
ウィリアムはギリ、と奥歯を噛み締め、机の上の拳を強く握りしめた。その時、ふと彼の脳裏を過ったのは、昨日アヴィが吐き捨てた言葉だった。
『大したことではない。ただ、あの厳格で知られるグランドール公爵の娘が、あのような常識のない行動をとるとは……』
アヴィは確かに、フィーネから「アヴィ様」と親しげに名前を呼ばれて困惑した、と言っていた。周囲の人間全員の記憶が書き換わっている中で、フィーネだけがアヴィを以前と同じ呼び名で呼んだということは――。
「フィーネ様は……記憶を失っていない、のか……?」
ぽつりと呟いたその言葉は、ウィリアムの胸に一条の希望の光を灯した。
◇◇◇
その後、いつも通りアヴィの数歩後ろに付き従って学園へ向かったウィリアムは、主の護衛をこなしながら、鋭い視線でフィーネの姿を探し求めていた。
サラ・スレイヤーとやらの動向も読めない今、ウィリアムがアヴィの側を長時間離れるわけにはいかない。アヴィの影として従いながら、注意深く周囲の女生徒たちに視線を走らせるという制約の多い行動を取らざるを得なかった。
(……いらっしゃらないな。やはり、昨日の今日だ……)
馬車乗り場から校舎へと続く広場を見渡すが、プラチナブロンドの美しい髪は見当たらない。昨日、あれほど溺愛されていたアヴィから、突然氷のように冷たく突き放されたのだ。その精神的衝撃を考えれば、怯えて近付いて来られないのも無理はなかった。
(困ったな……。あの方の状況を確かめたいのだが……)
ウィリアムが内心で焦燥の混じったため息を吐いた、その時だった。
「アヴィ様――っ!」
背後から響いた甲高い声に、ウィリアムの心臓が跳ね上がった。一瞬、フィーネかと思ったが、その声質はフィーネの凛とした鈴の鳴るような響きとはあまりに違う、甘ったるく軽薄なものだった。
ウィリアムは瞬時に感情を押し殺し、冷徹な視線で声の主を振り返る。
「やあ、サラ。おはよう」
ウィリアムが警戒の声を上げるよりも早く、アヴィがこれ以上ないほど穏やかで甘い微笑みを浮かべて挨拶を返した。
かつてフィーネだけに向けられていたあの極上の笑顔が、別の女に向けられている。ウィリアムは胸の中で激しい舌打ちをしながらも、完璧な無表情を保ってアヴィの後ろへと控えた。
(……この女が、サラ・スレイヤー……)
現れたのは、波打つピンクブロンドの髪を靡かせた、小柄で幼い顔立ちの少女だった。しかし、その瞳にはどこか歪んだ光が宿っているように見える。アヴィの徹底された甘やかしぶりからして、この娘こそが例の「偽りの婚約者」に違いない。
(殿下を公衆の面前で気安く名前で呼ぶなど……なんて身の程知らずで不敬な女だ)
すっかり未来の王妃気取りでアヴィの腕に自身の腕を絡め、当然のような顔をして隣を歩き始める少女。その様子を後ろから見つめながら、ウィリアムは袖の中でギリッと拳を握りしめた。
今、自分が「この女は偽物だ!」と声を上げたところで、世界そのものが書き換わっている現状では、狂人として捕縛されるのがオチだ。それよりは、決して怪しまれないように従順な従者を演じ、この女の正体と魔女との繋がりを探る方が賢明だ。
(一体何者なんだ、お前は……。何を目的として、殿下の隣を盗んだ……!)
ウィリアムの藍色の瞳が、サラの背中に向けて鋭く光っていた。
◇◇◇
フィーネが学園を欠席した、その日の夕方。
いつもなら、彼女が少しでも体調を崩せばどんな公務を放り出してでも駆けつけてくれたアヴィだったが、夜の帳が下りても女子寮に現れることはついになかった。
「……本当に、アヴィ様は私のことをお忘れになってしまったのね……」
静まり返った自室の窓辺で、フィーネは夜風に吹かれながら、悲しげにぽつりと呟いた。
本当は、心のどこかでまだ少しだけ、奇跡を期待していたのだ。昨日の事は全部夢で、アヴィが自分の事を思い出してくれている事を。他の誰が忘れても、アヴィだけは、思い出してくれるのではないかと。
だが、待てど暮らせど彼がいつものように見舞いに現れないという残酷な事実が、彼女に「現実」を突きつける。
脳裏に蘇るのは、昨日の図書館での彼の冷酷な眼差し。自分のことを「ただの同級生だ」と言い切り、名前を呼んだ自分を、身の程を弁えない馴れ馴れしい女だと蔑んでいたあの氷の碧眼。
「……アヴィ様……」
一体彼に、この世界に、何が起きてしまったというのだろう。私にはもう、彼を諦め、このまま狂った世界に押し潰されることしかできないのだろうか。
フィーネは窓の外、黒布のような夜空に浮かぶ、少し欠けた孤独な月を見上げて、静かに絶望の目を伏せた。




