06. 世界が変わった日②
静まり返った図書館の踊り場で、フィーネは長い間、言葉を失って立ち尽くしていた。
アヴィの足音が完全に聞こえなくなった瞬間、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、膝からガクガクと力が抜けた。淑女としてはあるまじきことと知りながらも、床にへたり込み、冷たい石床に両手をつく。
「……何が、何が起こっているというの……?」
震える唇から漏れたのは、惨めなほどにか細い声だった。
(アヴィ様の婚約者が……私ではなく、別の女性……?)
その事実を脳が認識した途端、アメジストの瞳から溢れ出た涙が視界を遮った。
ほんの数日前、優しく慈しむような眼差しを向けてくれていたアヴィの姿がフィーネの胸を過る。あの優しさも、あの微笑みも、全て、自分が狂って見ていた夢だったとでも言うのだろうか。
「……そんなはず、ない……っ」
ゆるゆると小さく頭を振り、必死で胸の痛みに耐える。そうして現実を否定しなければ、今にも心が粉々に砕け散ってしまいそうだった。
「これは……そう、きっと悪い夢だわ」
必死に自分に言い聞かせようとするフィーネ。しかし、先ほどのアヴィの冷ややかな言葉の残響が容赦なく追い打ちをかける。
『誰の許しを得て、私の名をそのように気安く呼んでいる』
『ただの同級生だろう。それ以上でも、それ以下でもない』
あんな風に拒絶するアヴィの顔を、彼女は知らなかった。
「……どう、してっ……!」
ぽろぽろと大粒の涙が床に落ちていく。たった数日、離れていた間に、世界のすべてが反転してしまったかのような絶望。なぜ彼があんな嘘を言うのか、なぜ世界が自分を拒むのか、理由が一つも分からず、感情がぐちゃぐちゃにかき乱される。
それでも――フィーネは涙を拭うと、自身の両頬をパチンと強めに叩いた。
(駄目よ、フィーネ……。ここは学園の敷地内。私は、グランドール公爵家の誇りある令嬢なのだから……)
どんなに理不尽な絶望の底にあっても、決して取り乱した姿を他者に見せてはならない。それは幼い頃から厳しく叩き込まれてきた、貴族令嬢としての曲げられない戒律だった。
フィーネは決壊しそうな涙を強引に押し留め、痛いほどに拳を握りしめて立ち上がる。
その時、授業の開始を告げる予鈴の鐘が、高く校舎に鳴り響いた。
(いけない……教室に、戻らないと……)
未来の王妃として完璧であるために、遅刻などという不名誉は絶対に許されない。これが悪夢の中であろうと現実であろうと、身体に染みついた模範生としての習慣は、彼女の足を自然と教室へと動かした。
◇◇◇
青白い顔のまま、今にも折れそうな足取りでどうにか教室の扉を開けたフィーネは、クラスメイトたちの好奇の視線を浴びながら自席へと向かった。
「ごきげんよう、フィーネ。……どうかしたの? 酷く顔色が悪いようだけれど……」
席に着くなり、隣の席の友人であるシンシア・ダレイアス公爵令嬢が心配そうに声をかけてきた。水色の美しい髪を揺らし、覗き込んでくる彼女に、フィーネは最後の希望を繋ぎ止めるように、掠れた声で尋ねた。
「シンシア……あのね、一つ聞いてもいい? アヴィ……いえ、第一王子殿下のご婚約者って、どなただったかしら……?」
フィーネの奇妙な問いかけに、シンシアは不思議そうに目を丸くし、しかし極めて当然のこととして残酷な真実を口にした。
「急にどうしたの? 殿下の婚約者と言えば、周知の事実でしょう。スレイヤー男爵家のご令嬢――サラ・スレイヤー様よ」
「……っ」
息が詰まった。またその名前だ。アヴィだけでなく、親友であるはずのシンシアまでもが、彼の婚約者は自分ではなく、サラという女性だと言う。
「でも、それがどうかしたの?」
「……ううん、なんでもないの。少し、勘違いをしていただけよ……」
フィーネは力なく首を振ると、机の上に視線を落とし、そのまま石のように動かなくなった。
◇◇◇
一方その頃、フィーネを冷たく突き放して自身の教室へと向かっていたアヴィは、廊下で教官室から戻ってきた従者のウィリアムと合流していた。
「殿下? ――何か、不都合なことでもございましたか?」
普段の冷静沈着な主からは考えられないほど、眉間に深い皺を寄せ、あからさまに不機嫌なオーラを放っているアヴィを見て、ウィリアムは鋭く藍色の瞳を細めた。アヴィはフンと鼻を鳴らし、憮然とした様子で呟く。
「……少々、妙な娘に絡まれただけだ」
「妙な娘……? 暗殺の類ですか、あるいは不埒な輩ですか」
自分が離れていた隙に主に近づいた不審者がいるのかと、ウィリアムの手が即座に警戒の構えを取る。しかし、アヴィは煩わしそうに手を振った。
「大したことではない。ただ、あの厳格で知られるグランドール公爵の娘が、あのような常識のない行動をとるとは……」
「………………殿下。今、なんと?」
アヴィの言葉に、ウィリアムは耳を疑った。聞き慣れない呼び方に数拍反応が遅れたが、今、アヴィの口から出た呼び名に該当するのは、どう考えてもフィーネしかいない。あのアヴィが、フィーネの事をまるで他人のように扱ったのだ。
「うん? どうした、ウィリアム」
「……いえ、今、フィーネ様の事をおっしゃいませんでしたか?」
「なんだ、ウィリアムはあの娘と知り合いか?」
意外そうにアヴィが言う。だが、ウィリアムの受けた衝撃は大きかった。あのアヴィが、フィーネの事を溺愛していたアヴィが、何を言っているのか、と。
「殿下……!? どうなさったのですか!?」
「は、はぁ? 別にどうもしていないが……?」
「そんなはずがないでしょう! 殿下がフィーネ様をお忘れになるなど!」
掴みかかるようなウィリアムの剣幕に、身を引きながらアヴィは困惑の表情を浮かべる。
「な、なぜ私がグランドール公爵令嬢を知っている必要があるんだ。私にはサラがいるだろう?」
「……サラ?」
「そうだ。婚約者であるサラがいるのに、他の女性に興味を持つはずがないじゃないか」
そう告げるアヴィのその碧眼を見つめた瞬間、ウィリアムの顔から完全に血の気が引いた。
主の目は、曇りのない本気だった。演技でも冗談でもなく、心底から「サラという令嬢が自分の婚約者だ」と思い込んでいる。
(いつだ……一体いつ、殿下はこんな状態に……!? というか、サラって誰だ!?)
パニックに陥りかけるウィリアムの脳裏に、突如として、忌まわしい昨日の記憶が鮮烈に蘇った。
王城の謁見の間。嵐のような闇の魔力の中で、血のような紅い髪を靡かせながら狂気的に高笑いしていた、あの魔女を騙る女の姿が。
『面白いことよ。最高に愉快で、とーっても……お・も・し・ろ・い・こ・と!』
『忘れてしまいなさい、何もかも!』
――人を嘲笑うかのような、反吐が出るほど不快な声。
あの時、最後に魔女が解き放った大規模な闇の魔法。あれがもたらした「面白いこと」の正体とは、まさか――。
(殿下の中のフィーネ様の記憶を書き換え……世界そのものの認識を、改竄したというのか……!?)
じっとりと嫌な汗が、ウィリアムの背筋を流れ落ちていった。そして彼は気づく。自分だけが、何故かその「改竄」の影響を受けずに、本当の記憶を保っているということに。
◇◇◇
その日の夕方。
放課後の重苦しい時間の果てに、フィーネが女子寮の自室へと戻ると、部屋で帰りを待っていたジーラがいつも通り深々と頭を下げて出迎えた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。お茶のご用意を――」
「……ええ、ただいま。お茶はいいわ。鞄を預かってもらえる?」
フィーネは覇気のない声のまま鞄を手渡した。あからさまに憔悴しきった主の様子に、ジーラは怪訝そうに眉を寄せる。
「お嬢様……? 一体どうなさったのですか? お顔の色が、朝よりもさらに真っ白でございます。今すぐお医者様を――」
「いいの、本当に何でもないから。少し疲れただけよ。今日はもう休むわ」
「あ、お嬢様! まだお夕食も……!」
心配して呼びかけるジーラの声を振り切るように、フィーネは逃げるように寝室へと入り、背後で扉を強く閉めた。
静まり返った暗い寝室の中で、フィーネは泥のようにベッドへと倒れ込む。
たった一夜にして、世界が完全に作り変えられてしまった。
自分以外のすべてがおかしい。両親も、親友のシンシアも、学園の誰も彼もが、「アヴィ様の婚約者はサラという男爵令嬢だ」と口を揃えて言う。そして、他の誰でもないアヴィ自身が、冷徹な目でそれを肯定した。
8歳のあの日、二人で未来を誓い合ったあの約束は……彼から注がれていたあの溢れんばかりの愛は、すべて自分の頭が作り出した哀れな妄想だったというのだろうか。
枕に顔を押し当てると、堪えきれなかった涙が止めどなく溢れ、シーツを濡らした。
「どうして……どうしてなの、アヴィ様……」
届くはずのない御名を、掠れた声で何度も呟く。
世界中が彼女を否定しても、フィーネの胸の奥には、確かに彼と過ごした優しく温かな日々の記憶が、鮮明に、痛いほどに息づいていた。




