05. 世界が変わった日①
長いようで短かった三連休が終わり、学園の生徒たちが億劫そうに登校してくる連休明けの朝。
華やかな喧騒が戻った校舎の中で、フィーネ・グランドールは周囲の様子に目もくれず、ある人物を探して足早に廊下を歩いていた。探しているのはもちろん、自身の大切な婚約者であり、この国の第一王子であるアヴィ・シルベスター殿下だ。
二人は学年こそ同じだが専門科目の違いもあり、クラスが分かれているため、自ら行動しなければ朝のこの時間に顔を合わせることは難しい。
普段なら彼に会える高揚感で満たされているはずの胸は、今、冷たい鉛を飲まされたかのような重苦しい不安に支配されていた。フィーネの頭の奥をぐるぐると巡っているのは、今朝、公爵邸を出発する直前に交わした「家族との異常な会話」の記憶だった。
◇◇◇
数時間前――グランドール公爵邸のエントランス。
父であるジェラルド・グランドール公爵と、母のリリアナ、そしてまだ幼い弟のロベルトに見送られ、学園に向かう馬車へ乗り込もうとフィーネが身支度を整えていた時のことだ。
「ねえさま、もう行ってしまうのですか? もっと一緒にいたかったです」
「ごめんなさいね、ロベルト。本当は私も、もっとあなたとお話したかったのだけれど」
寂しそうに自身のドレスの裾を握りしめる愛らしい弟の姿に、フィーネは眉を下げてその柔らかな白金の髪を優しく撫でた。すると、いつもは厳格な父親であるジェラルドが、モノクルの奥の目を細めて名残惜しそうに口を開いた。
「フィーネ、また次の休暇にはすぐに帰ってくるのだろう?」
「ええ……。そうですね、アヴィ様との先約がなければ、ぜひそうさせていただきますわ」
婚約者である彼の顔を思い浮かべながら、フィーネは至極当然のこととして微笑みを返した。しかし、その言葉を発した瞬間、見送りの家族たちの表情が凍りついたのを彼女は見逃さなかった。
「……アヴィ……『様』、だと?」
「フィーネ、あなた……まさか、第一王子殿下の御名をそのように気安く呼んでいるの?」
母のリリアナが、まるで取り返しのつかない不敬でも目撃したかのように青ざめ、責めるような眼差しを娘に向けた。フィーネは何故突然そのような態度を取られたのか理解できず、当惑して首を傾げた。
「え……? ええ、さようですが……お父様、お母様、一体どうなさったのですか?」
「……まさか、学園でもそのようにお呼びしているのではあるまいな!?」
「え、あの、はい……」
「なんということだ! 今すぐ『殿下』とお呼びしなさい! 王族の方をそのように気安く呼ぶなど、あるまじきことだぞ!」
「で、ですが、今までもずっとアヴィ様とお呼びして……お父様だって微笑ましく見ていてくださったではございませんか!」
突然の激しい剣幕に、フィーネの心臓がドクンと嫌な音を立てた。困惑のまま抗議する娘を見て、ジェラルドは頭を抱え、愕然とした表情を浮かべた。
「どうしてしまったんだ、フィーネ。お前は物分りが良く、身の程を弁えた娘だったはずだろう」
「で、ですから、アヴィ様は婚約者ですし――」
婚約者同士で名前を呼び合うなど普通であり、それこそ常識だ。そうフィーネは言おうとしたのだが、娘の発言に両親は青褪めた。
「な、なんという事を!」
「フィーネ? 貴女、本当におかしいわ。お医者様を呼んだ方が……」
「お、お父様たちこそ、一体何を……っ」
半ば狂人を見るかのような目で自分を見つめる両親に、フィーネは呼吸の仕方を忘れるほどの混乱に陥る。
この休暇中だって、学園でのアヴィとの話をしていたのだ。ジェラルドも「自分が帰って来いと言ったせいで、殿下からお前を取り上げてしまったようで申し訳ないな」なんて笑って冗談すら言っていたのに。
そこへ、荷物の積み込みを終えた彼女の専属侍女であるジーラが、不審そうにエントランスへ顔を出した。
「フィーネお嬢様? そろそろ出立いたしませんと、学園の始業時刻に遅れてしまいますが……」
「あ、ええ……」
ジーラの声でかろうじて我に返ったフィーネは、震える声を必死に抑えて両親に向き直った。
「お父様、お母様。とにかく、私は一度学園へ戻りますわ」
「……ああ。だが、くれぐれも殿下に粗相のないように身を慎むのだぞ」
かつてないほど冷え切った家族の視線に見送られながら、逃げるように馬車へと乗り込んだ。車輪が回り始めても、胸の動悸は一向に収まらない。フィーネは縋るような思いで、対面に座るジーラに声をかけた。
「ねえ、ジーラ……」
「はい、お嬢様。いかがいたしました?」
「アヴィ様の……いえ、第一王子殿下の、本当の婚約者って……」
そこまで言いかけて、フィーネは自ら言葉を飲み込んだ。もし、長年自分に仕えてくれているジーラにまで「何を仰っているのですか」と否定されてしまったら――本当に自分の精神が崩壊してしまう気がしたからだ。
「お嬢様?」と首を傾げるジーラに、フィーネは力なく笑ってみせるしかなかった。
「……いいえ、なんでもないわ。少し寝不足なだけよ」
◇◇◇
――そんな今朝の奇妙なやり取りが、学園に着いてからもフィーネの頭からどうしても離れなかった。
(お父様もお母様も、一体どうしてしまわれたのかしら……まるで、最初から私がアヴィ様の婚約者ではなかったかのような口振りだった……)
得体の知れない恐怖が、冷たい触手のように全身の血の巡りを悪くしていく。
少しでも早くアヴィに会いたい。
彼の声を聴き、あの全てを包み込むような優しい碧色の瞳に見つめられたい。
そうしていつものように「心配ないよ、フィー」と頭を撫でてもらえれば、この胸を蝕む悍ましい霧など、一瞬で消え去ってくれるはずだから。
フィーネは祈るような思いで、彼がいつも利用しているアンティーク調の図書館の最上階へと向かった。
3階の重厚な扉の前に辿り着いたその時、ちょうど中から目当ての人物――見紛うはずのない眩い金髪の少年が、数冊の書籍を抱えて出てくるところだった。
不思議なことに、いつも彼の影のように寄り添っている有能な従者、ウィリアムの姿は見当たらない。
(お一人だなんて珍しいわ。ウィリアム様はどうなさったのかしら……)
わずかな違和感を覚えながらも、彼を見つけた喜びが勝り、フィーネは自然と声を上げていた。
「アヴィ様!」
愛しい御名を呼びながら、弾かれたようにアヴィのもとへと駆け寄る。
「お会いできてよかったです! 今朝から何故か、実家の両親の様子がとてもおかしくて、私……」
息を切らせながら、いつものように話しかけたフィーネ。しかし――次の瞬間、彼女の身体が凍りついた。
いつもならフィーネの声を聞いた瞬間に相好を崩し、優しく碧眼を細めて受け止めてくれるはずの婚約者が、立ち止まるどころか、彼女を一瞥もせずにすれ違い、逆側の階段へと歩を進めていたのだ。
「アヴィ……様……?」
拒絶されたショックに声を震わせ、もう一度その背中に呼びかける。すると、アヴィはピタリと足を止め、ひどく苛立たしげに振り返った。
その表情を見た瞬間、フィーネの心臓は完全に停止した。
「……グランドール公爵令嬢。誰の許しを得て、私の名をそのように気安く呼んでいる」
「……え……?」
今まで一度も聴いたことのない、刃のように鋭く冷徹な声。そして、余所余所しい「公爵令嬢」という他人としての呼び名。
向けられたアヴィの碧色の瞳には、かつてフィーネを溺愛していたあの甘い光など微塵もなく、あるのはただ、不審者を見るような冷淡な光だけだった。
「私の名を親しく呼ぶことが許されているのは、両親と弟妹、私の唯一の婚約者であるサラ、そして親友たるウィリアムのみだ。弁えなさい」
「婚約者……、サラ……?」
フィーネは己の耳を疑った。アヴィの口から他の女性の名前が出たこと自体が信じられない悪夢だったが、彼がその人物を「婚約者」と呼んだ事実に、頭の中が激しく鳴動する。
フィーネはカラカラに渇いていく喉を必死に震わせ、かろうじて問いを絞り出した。
「では……私は……? 私は、あなたの何なのですか……?」
「ただの同級生だろう。それ以上でも、それ以下でもない」
くだらない質問をするなとばかりに吐き捨てると、アヴィは二度と振り返ることなく、冷酷に踵を返して去っていった。




