04. 魔女の来訪
王城の謁見の間は、耳が痛むほどの静寂と重苦しい沈黙に包まれていた。
立ち並ぶのは、国を守護する精鋭騎士団と、幾重にも防御陣を展開する魔導師団の面々。誰もが額に脂汗を浮かべ、武器を握る手に固く力を込めている。彼らが警戒の視線を注ぐ先――謁見の間の豪奢な扉の向こうからは、熟練の魔導士でなくとも分かるような「侵入者」の悍ましく強大な魔力が、じわじわと近付いてきていた。
アヴィは壇上から、その張り詰めた陣形を見下ろしていた。
事態の発覚直後、第一の手としてレイアやカイルをはじめとする王族関係者を、城内で最も堅牢な地下室へと避難させた。臣下たちは口々に「アヴィ殿下も避難を」と懇願してきたが、それらをすべて退けたのは他でもないアヴィ自身だ。
相手の正体も、真の目的すら掴めていないこの非常事態において、両陛下が不在の今、この国の最高権力者である自分が影に隠れるわけにはいかない。万が一の交渉、あるいは殿としての指揮――自らがここに留まることこそが、混迷を極める城内の士気を繋ぎ止める唯一の楔だった。
もちろん、手ぶらで待ち構えているわけではない。城門から警備を固め、要所には幾重もの重厚な防衛線を敷いた。しかし、先ほど報告に戻ったクリスの蒼白な顔色と、彼がもたらした壊滅的な戦況を思えば、それらが時間を稼ぐことすら叶わないことくらい、誰の目にも明らかだった。誰一人として「ここで止められる」という甘い期待など抱いていない。
――カツン、と。
重厚な大理石の扉が、何の抵抗もなく静かに開かれた。
その瞬間、空間そのものが歪むほどの凄まじい重圧が謁見の間を吹き抜けた。あまりの圧迫感に、最前線の騎士数名が呻き声を上げて膝をつく。渦巻く圧迫感の中心から、ゆっくりと「それ」は姿を現した。
「……あら。随分と物々しいお出迎えだこと」
現れた人物は、夜の闇を溶かし込んだような漆黒のローブで全身を覆っており、目深に被ったフードのせいでその素顔はほとんど窺い知ることができない。唯一、暗がりの隙間から覗く血のように紅い両の双眸だけが、妖しい光を放っていた。
ただ、それほど高くない小柄な身長、そして鈴を転がしたような、しかし酷く冷ややかな高い声の調子から、それが「若い女性」であることは明らかだった。
「……そなたは何者だ。いかなる目的があって王城へ不法に侵入した」
アヴィが全身の警戒を露わにし、剣の柄を握り締めながら鋭く問う。すると、ローブの女はくすくすと肩を揺らし、まるで子供を茶化すように軽薄に答えた。
「そんなに怖い顔をしないで頂戴、王子様。私は、そうね……しいて名乗るならば、『原初の魔女の魂を持つ者』……かしら?」
フードで見えはしないが、その口元が邪悪に釣り上がっているのが容易に想像できた。その信じがたい回答に、周囲を囲む騎士たちの間に動揺が走る。
「原初の魔女の、魂だと……?」
「ええ。私はあの方と同じ存在。当時の記憶も、その絶大な力も全て引き継いで目覚めたのよ。……もちろん、かつて貴方たちの薄汚い祖先――シルベスターから受けた、反吐が出るような屈辱の記憶もね」
女の声から突如として軽薄さが消え、骨まで凍りつくような怨嗟の籠もった視線がアヴィを真っ直ぐに刺し貫いた。
「私の――私たちの目的はただ一つ。シルベスター王家への、完璧なる復讐よ」
「なっ……! 侵入者を拘束せよ!!」
彼女の明確な宣戦布告に対し、アヴィの叫びと同調するように、周囲を取り囲んでいた数十の近衛騎士と魔導師が一斉に武器を構え、魔力を練り上げた。
「あらあら、物騒ねぇ。でも安心なさい? 私は別に、ここで貴方たちと泥臭い殺し合いをするつもりなんてないわ」
「何……?」
「魔法でこの国ごと塵に換えてあげてもいいのだけれど。一から奴隷を集めて国を作り直すのも面倒でしょう? だから、もっと簡単で――もっと面白い方法で。この国をまるごと貰い受けてあげようと思ってね」
ニヤリ、と残酷な笑みを浮かべ、魔女の力を引き継いだと称する女は、その紅い瞳でアヴィの視線を完全に捕らえた。
「っ!?」
ぞわりとした悍ましい感覚がアヴィの背筋を激しく這い登った。全身の細胞が「逃げろ」と警鐘を鳴らしているというのに、その妖しい紅い瞳に見つめられた瞬間、蛇に睨まれた蛙のように身体が完全に硬直してしまい、指一本動かすことができない。
「な、にを……」
「面白いことよ? 最高に愉快で、とーっても……お・も・し・ろ・い・こ・と!」
「殿下!」
狂気的にクスクスと笑う女とアヴィの間に、凄まじい速度でウィリアムが割り込んだ。主を庇うようにその身体を盾にし、魔女の視線を遮る。すると、魔女はその紅色の瞳に露骨な不機嫌さを滲ませた。
「……何かしら、貴方。私の邪魔をしないで頂戴」
「黙れ、化け物が! 殿下にこれ以上の無礼は許さん!」
ウィリアムは抜剣した刃を魔女の喉元へと向け、鋭い声で吐き捨てた。しかし、魔女は怯えるどころか、憐れむような溜息を吐く。
「……貴方、本当に気に入らないわね。その生意気な眼光も、主を護ろうとする健気な態度も、全てが不愉快」
「殿下に手を出す者がどうなるか、その身に教えてやる!」
「くだらない。大した力も持たない人間風情が、一体私に何ができると言うの」
ゴミを見るような目で言い放つと、魔女は片手を天へと掲げた。
――ボッ!!
不吉な音と共に彼女の掌の上に現れたのは、周囲の光さえも吸い込むような、禍々しい黒い炎だった。
「黒い炎だと……!?」
「馬鹿な……あれは、やはり闇の魔力か!?」
後方に控えていた宮廷魔導師たちから、悲鳴に似た絶叫が上がる。闇の魔法は、現代の魔法体系においては完全に失われた禁忌の術だ。人の精神を汚染し、心を意のままに操るような、人の道に悖る悪魔の術として、国家がその研究を行うことすら厳格に禁止してきたものだった。
「殿下、ウィリアム! その者の発する魔力に当てられてはなりませぬ! 目を見るな!!」
「無駄よ、遅すぎるわ!」
必死に叫ぶクリスたちを嘲笑うかのように、魔女が掌の黒い炎を爆発させ、無数の炎弾となって周囲へ全方位に放たれた。「水よ、我が呼びかけに応じ障壁となれ!」と魔導師たちが咄嗟に強固な水の壁を作り出して防戦を図るが、闇の魔力で形成された呪いの炎は、現代の魔法防御など紙切れのように容易く貫通していく。
「ぐあああっ!?」
「くっ、馬鹿な……防御魔法が、融かされて……!?」
水の壁を蒸発させて突き抜けた黒い炎が、ウィリアムを含めた魔導師や騎士たちの肩や脇腹を容赦なく掠めていく。黒炎に触れた者たちは、まるで魂を削られたかのようにその場に崩れ落ち、苦悶の声を上げた。
「貴方たちの相手をしている暇はないの。大人しく寝ていなさい」
冷酷に吐き捨てると、魔女はウィリアムの背後にいるアヴィへと再び視線を戻した。
「さあ、王子様。邪魔者も大人しくなったところで……私たちの『お楽しみ』を続けましょう?」
「ふざける、な……っ!? くはっ……!?」
アヴィは金縛りのような呪縛に抗い、自由の利かない身体を無理やり動かして自らの得意とする火属性の魔法を練り上げようとした。しかし、その瞬間――魔女の紅い瞳から放たれた目に見えない魔力の奔流が、アヴィの瞳を通じて直接脳内へと流れ込んできた。
それは津波のようにアヴィの精神の領域へと侵入し、彼の精神そのものを内側から強引に踏み荒らし始める。
「くっ……! あ、あああ……っ! 何を、何をしている……!」
脳髄を直接灼かれるような凄まじい激痛と、内臓をひっくり返されるような強烈な吐き気がアヴィを襲う。必死の抵抗を試みるアヴィだったが、魔女の圧倒的な魔力の前には、彼の強力な魔法も霧散していく。
直感的に理解した。今、この化け物に抵抗しなければ――自分にとって命よりも大切な「何か」を失ってしまう。取り返しのつかない奈落へ突き落とされると。
(……フィー……ネ……!!)
朦朧とする意識の底で、愛しい婚約者の姿が脳裏に浮かんだ。
自分に何かあったら、彼女は一体どれほど深く傷つき、涙を流すだろうか。彼女にそんな悲しい思いをさせるわけにはいかない。守ると、ずっと傍にいると誓ったのに――。
「ふふ、さすがは始祖の血を引く第一王子ね、なかなか骨があるじゃない! でも、これならどうかしら!?」
魔女がさらに魔力を強めると、彼女を中心にまるで嵐のような暴風が吹き荒れ、謁見の間を激しく揺るがした。激しく舞い上がる漆黒のローブの隙間から、血のように鮮烈な紅い長い髪が数束、狂気的に巻き上がる。
魔女の精神干渉の圧力が限界を超えて高まるにつれ、アヴィの脳裏に刻まれていたはずの、フィーネの美しい白金の髪が、神秘的なアメジストの瞳が、自分を呼ぶ愛おしい声が――霞がかかったように、急速に薄れていく。
「うぁ……あ、あああああぁぁ――っ!!」
アヴィは頭を掻きむしりながら絶叫した。自らの記憶という魂の拠り所が強引に書き換えられ、全く見覚えのない「別の誰か」の記憶が濁流となって注ぎ込まれていく。愛しい彼女の存在が消えていく恐怖と、自分の中の最も大切な部分が空虚な偽物で埋め尽くされていく絶望に、アヴィの意識は激しく混濁していった。
「可哀想に。そんなに苦しむ必要なんてないのよ。――さあ、忘れてしまいなさい、何もかも!」
「殿下――っ!!」
ウィリアムの引き裂くような叫び声も虚しく、魔女はアヴィの記憶の改竄を完全に完了させると、その様子を見て満足げに邪悪な高笑いを上げた。
「ふふふ、あはははは! 一人の記憶を書き換えるのは骨が折れるけれど……同じ記憶を、この場にいる全員――いえ、この国中に植え付けるのは簡単なことよ! さあ、愚かな人間ども、お前たちも私を崇めなさい!」
狂気に満ちた高笑いとともに、魔女は両手に爆発的な闇の魔力を込めると、それを王城の天面へと向かって解き放った。どす黒い光の波動がドーム状に広がり、王都へ、そしてシルベスター王国全土へと瞬く間に波及していく。
世界から、決定的な「何か」が、消え去った瞬間だった。




