03. 嵐の前の静けさ
翌朝、アヴィは朝霧の残る学園の敷地からウィリアムと共に迎えの馬車に乗り込み、王城へと戻っていた。
国王夫妻が緊急の議会に出席中であることを知らされたアヴィは、ひとまず自身の執務室へと足を運ぶ。息をつく間もなく始まる激務を前に、ウィリアムが淹れてくれた紅茶で喉を潤していると、不意に静かな室内へ小気味よいノックの音が響いた。
「どうぞ」
アヴィが短く応じると、カチャリという小さな音とともに扉が開かれる。
そこからひょっこりと顔を覗かせたのは、アヴィと同じ輝く金髪を綺麗に靡かせた、愛らしい少女だった。
「やあ、レイア。元気にしていたかい?」
「アヴィ兄様!」
アヴィがソファーから立ち上がりながら声をかけると、レイアと呼ばれた少女はパァッと満面の笑みを浮かべ、小走りに駆け寄ってその細い腕で思いきり兄の腰へと抱き付いた。
アヴィは降参したように苦笑しながらもその衝撃を受け止め、愛おしそうに彼女の柔らかな髪を撫でる。
彼女の名はレイア・シルベスター。12歳。アヴィの年の離れた実妹である。アヴィと同じ明るい金髪は癖ひとつなく、上質な絹のように滑らかにその背中へと流れている。
王宮の誰もが甘やかす、シルベスター王国の愛すべき至宝だった。
「まったく、レイアは相変わらず兄上にべったりだね。少しは淑女としての節度を覚えたらどうだい」
呆れたような、しかしどこか楽しげな声と共に、ゆっくりとした足取りでもう一人の少年が室内に入ってきた。アヴィは彼へ温かい視線を向ける。
「カイルも戻っていたんだね」
彼の名はカイル・シルベスター。14歳。アヴィの実弟である。
父親・兄・妹が眩い金髪であるのに対し、彼は母親譲りの涼やかな水色の髪を肩まで伸ばしていた。瞳の色はアヴィと同じ深みのある碧眼だ。
普段からあまり感情を露わにせず、ぶっきらぼうな口調になりがちだが、実は誰よりも家族想いで面倒見が良いということを、家族なら誰もが知っていた。
生まれつき高い魔力を有しており、魔法研究が趣味という早熟な少年で、最近では大人の魔導師たちに混ざって宮廷魔導師団の詰め所にも頻繁に通っている。
「お帰り、兄上」
カイルのぶっきらぼうな歓迎の言葉に、アヴィにしがみついたままだったレイアも顔を上げ、アヴィと、その背後に控えるウィリアムへと無邪気な笑顔を向けた。
「お帰りなさいませ、兄様! それにウィリアムも!」
「ああ、ただいま。二人とも変わりはなかったかい?」
「ご無沙汰しております、カイル殿下、レイア姫殿下」
弟妹の愛らしい姿につられて相好を崩すアヴィと、いつも通り生真面目に深く頭を下げるウィリアム。そんな二人の様子を交互に見つめながら、レイアは小首を傾げた。
「今回は、しばらくお城にいられるの?」
「ああ、この三連休の間はね」
「嬉しい! じゃあ、フィー姉様も一緒にいらっしゃる?」
「フィーネかい? 残念ながら、彼女は今週末は公爵邸へ帰省しているから、今回は来られないんだ」
アヴィの答えを聞いた瞬間、レイアは分かりやすく耳を垂らした子犬のようにがっかりとした表情を浮かべた。
「残念……。フィー姉様と一緒に遊びたかったのに」
「はは、そうだね。また次に会った時、レイアが寂しがっていたと伝えておくよ」
そんな微笑ましい会話を交わしていると、静かに室内へ入ってきた侍女が、美しい所作で一礼して昼食の時間を告げた。
「殿下方、姫様。昼食の準備が調いましたので、どうぞ食堂へお越しくださいませ」
「ああ、分かった。父上と母上は……すでに席に?」
「はい。国王陛下、王妃陛下共にお揃いでございます」
「そうか、ありがとう。すぐに向かうよ」
アヴィが頷くと、侍女はもう一度深く頭を下げて退出していった。アヴィは去っていく彼女の背中を見届けたあと、傍らに控えていたウィリアムを振り返る。
「ウィリアム、食事が終わったらすぐに執務室で国王代理の仕事を始める。必要になりそうな書類の準備をしておいてくれ」
「はい、承知いたしました」
ウィリアムは右手を左胸に当てる騎士の礼を執ると、アヴィを見送り、城の従者たちが利用する食堂へと足を向けた。
◇◇◇
アヴィたちが王族専用の格式高い食堂に入ると、長テーブルの上座にはすでに国王夫妻が腰を下ろしていた。
「父上、母上。ただいま戻りました。ご無沙汰しております」
「うむ、アヴィか。よく戻ったな」
「お帰りなさい、アヴィ。せっかく戻ってきてくれたのに、すぐに出迎えられなくてごめんなさいね」
鷹揚に威厳ある笑みを浮かべる国王と、久方ぶりに愛息の顔を見て嬉しそうに目を細める王妃。
アヴィたちがそれぞれの席に着くと、タイミングを見計らったように色鮮やかな料理が順番に運ばれてきた。アヴィは淑やかにカトラリーを動かしながら、国王夫妻から求められるままに学園での近況や生徒会での動向について丁寧に答えていく。
会話が一段落したところで、王妃が思い出したように上品にナプキンで口元を拭った。
「ところで、フィーネ嬢は元気にしていらっしゃるかしら? せっかくの休日なのですもの、一緒に連れて来ればよかったのに」
「ええ、彼女も恙なく過ごしておりますよ。ただ、この連休はご家族との先約があるそうで、今朝早くに公爵邸へ戻ったのです」
「そうなのね……。残念だわ」
「母上、そのお言葉はつい先ほど、レイアが兄上の部屋で全く同じように口にしていましたよ」
カイルが手元のスープをスプーンで掬いながら淡々と口を挟むと、王妃は「あら」と小さく目を丸くした。
「そうなの? カイル」
「ええ。それはもう、この世の終わりのようなつまらなそうな顔をして兄上に迫っていました」
「だって! フィー姉様、とっても優しくて大好きなんだもの!」
「ふふ、では次の休暇には、必ず彼女を城へ招待すると約束するよ」
くすくすと言葉を交わす家族の様子を見つめながら、アヴィは胸の奥で温かな充足感を覚えていた。自分が命に代えても守りたいと願う大切な女性が、こうして自身の家族からも実の娘や姉のように受け入れられ、愛されている――その事実が、たまらなく嬉しかった。
そうして和やかな昼食を終え、いよいよ国王夫妻が隣国への外交へ向けて出立する時間がやってきた。
城の正面玄関には、豪華な装飾が施された王家の馬車が横付けされている。
「それでは、行ってくる。アヴィ、短い間だが留守中の政務を頼むぞ」
「あまり無理はしないでね。明後日の夜には帰着する予定なのだから」
馬車に乗り込んだ国王夫妻が、窓から見送りの子供たちへと声をかける。
「はい。万事滞りなく進めておきます。行ってらっしゃいませ、父上、母上」
「お父様、お母様。どうか道中お気を付けて」
アヴィたちが並んで深く一礼すると、御者の合図とともに四頭立ての馬車がゆっくりと滑り出した。アヴィはその背中を見送りながら、自らの肩にかかる責任の重さを確かめるように小さく息を吐いた。
◇◇◇
これまでも何度か国王代理として政務を経験していたこともあり、連休の一日目、二日目は特に何事もなく平穏に過ぎていった。アヴィはいつも通り怜悧かつ迅速に山積みの書類を決済し、ウィリアムもまた完璧なサポートで主を支え続けた。
そうして迎えた連休の最終日。
両親が帰還するまでの数時間、最後の仕上げとして執務室でペンを走らせていたアヴィだったが――その静寂は、あまりにも唐突に、無慈悲に破られることとなった。
「殿下――っ!」
バァン!! と、静まり返った執務室の重厚な扉が激しく押し開かれた。
切羽詰まった、悲鳴にも似た大声を上げて半ば飛び込むように部屋へ滑り込んできた人物に、アヴィは鋭く眉を寄せる。
「どうした、クリス。そなたがそれほど慌てるなど、一体何事が……」
「ご無礼を、お許しください……っ! しかし、一刻の猶予もない緊急事態なのです!」
クリスと呼ばれた初老の男は、息を切らせて慌てて姿勢を正すと、目深に被っていた特徴的なとんがり帽子をひったくるように外した。
彼の名はクリス・ファネージュ。この王国の最高魔法戦力である「宮廷魔導師団」を統括する師団長その人である。彼が身に纏う格式高いとんがり帽子と漆黒のローブは、選ばれし魔導師団長の制服だった。
「分かっている。そうでもなければ、そなたほどの男が、このような礼を欠く行いをするはずがない。何があったのか説明してくれ」
アヴィは書き終えたばかりの書類を丁寧に決済箱へと収めると、持っていた万年筆を置いて凛とした佇まいで立ち上がった。そのただならぬ気配に、背後に控えるウィリアムの手も自然と剣の柄へと伸びる。
「それが……まだ詳細な正体は不明なのですが、先ほど、王都の結界が『禍々しいとしか表現しようのない強大な魔力』を持つ者の接近を検知いたしました!」
「禍々しい魔力……?」
不審そうにアヴィが碧眼を細める。
「はい……。私を含め、現存するどの魔導師も未だかつて相対したことのない、あまりにも異質で昏い魔力です。この悍ましさは、歴史書にのみ残される――かつて世界を支配した『原初の魔女』ロベリアが操ったとされる、闇の魔力の波長に酷似しているのです!」
「なんだって……!?」
クリスの口から発せられたその忌まわしき名に、執務室内にいた文官や護衛の騎士たちの顔から一斉に血の気が引いた。
原初の魔女、ロベリア。
その名を知らぬ者は、この国には一人として存在しない。
この世界にまだ「国家」という概念が存在していなかった、遥か遠い原初の時代。大陸は、強大な魔法を行使する圧倒的な強者たちによって支配されていた。その混沌とした世界において、頂点に君臨していた最強の存在こそが「原初の魔女」と呼ばれるロベリアの一族である。
彼女たちは魔法を持たない、あるいは持っても微弱な一般の人間たちを「家畜」のように軽んじ、無慈悲に虐げ、残酷な搾取を繰り返していた。
そんな絶望の暗黒時代の中、シルベスター王国の始祖であるゲイン・シルベスターをはじめとする勇敢な人間たちが立ち上がった。魔法を使えない者、わずかな力しか持たない弱者たちを武力と圧倒的な知略によって纏め上げ、絶対的な支配者であった魔女たちに対して命がけの革命を起こしたのだ。
泥沼の戦いの末、始祖ゲインたちはついに魔女たちを打ち倒し、そのあまりにも強大すぎる力を世界の果てへと封じることに成功した。
その後、魔女の恐怖から解放された世界にはシルベスターらの手によっていくつかの国が建国され、それが現在の平和な繁栄へと繋がっている――それが、この国の歴史の始まりだった。
「……クリス、それは確かなのか?」
原初の魔女に類するほどの闇の魔力を持つ存在など、今の時代に存在するはずがない。それが現代の魔法学における絶対的な共通認識だった。
しかし、クリスはアヴィの射抜くような視線に、青ざめた顔のまま小刻みに震えて頷いた。この場にいる誰よりも魔力に対して敏感で、誰よりも強い力を持つ彼だからこそ、その「規格外の怪物」が接近しつつある恐怖を、肌で理解しているのだ。
「間違いございません……! しかし、不可解なのです。今日この時まで、王国内はおろか大陸全体の監視網にもそのような前兆は一切検知されなかったというのに、突然、虚空から湧き出るように現れたのです……」
「『転移魔法』で結界の内部へ直接飛び込んできたと? それとも……その時が来るまで、自身の魔力を完全に隠蔽していたのか?」
「各国の魔導師団とは常時魔力波の同期を取っておりますが、いずこからもこのような異質な魔力の報告はございません。恐らくは後者……完璧な隠蔽を施していたのだと思われます……」
クリスの恐るべき推測に、アヴィは言葉を失った。現代の宮廷魔導師たちの目を欺き通す隠蔽術など、まさに神話の領域だ。
「それで、その者は今どこにいる? 目的は何だ」
「それが……その者は、自身の凶悪な魔力を隠そうともせず撒き散らしながら――まっすぐに、この王城へと向かってきているのです」
その言葉が響いた瞬間、執務室内の空気は完全に氷結した。




