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忘れられた公爵令嬢  作者: 結城 洋乃
第一部

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02. 穏やかな日常

 雲一つなく澄み渡った空を、夕暮れが彩り始める頃。


 王都の中心部に位置する王立高等学園では、授業を終えた生徒達が思い思いに時を過ごしていた。ある者は剣術や魔法の鍛錬に勤しみ、ある者は教室や中庭で読書に耽り、またある者はカフェテリアで級友とのおしゃべりに興じている。


 この学園は16歳から18歳までの貴族子女が共に学び、実社会に出る前の人的ネットワークを構築するために、国が運営している教育機関である。全寮制という規律のなかにも自由さはあり、所定の手続きを踏めば週末の外泊も許可されていた。

 クラス編成こそ身分に関わらず平等に行われるが、専門科目は個人の適性と志望に合わせて選択できる。騎士を目指す者は剣術を、宮廷魔導師を志す者は高等魔法を、そして文官や領地経営を目指す者は高度な学術を――それぞれが自らの未来を見据えて牙を研ぐ場所、それがこの学園だった。


 そんな学園の、賑やかな喧騒から少し離れた敷地の奥深くには、3階建てのクラシカルなレンガ造りの図書館がひっそりと佇んでいる。

 1階は学生たちが気軽に手に取る一般誌や古典文学、2階は重厚な歴史書や魔導書といった学術系の専門書。そして最上階である3階には、政治経済の論文から過去数百年に及ぶ国政の判例集まで、国の根幹に関わる専門書が厳重に保管されていた。

 当然、上階へ進むほど利用者の姿はまばらになり、この静寂に包まれた3階は、今や「とある人物」の事実上の専用部屋のようになっていた。


 そこへ、扉の軋む音を響かせて、一人の細身の体躯の少年が入ってくる。西向きの窓から差し込む夕日を反射して、彼の短めの明るい金髪がキラキラと眩しく煌めく。彼は慣れた様子でいくつかの書棚の前を歩きながら、目当ての書物を探していく。

 やがて一つの棚の前で足を止めると、慣れた手つきで厚みのある一冊を引き抜いた。そのまま後ろの書棚に軽く背を預け、流れるような動作でページをめくり始める。その姿は、まるで一枚の美しい絵画のようだった。


 そうして静寂の中で30分ほどが経過した頃、再び静かな室内に扉の軋む音が微かに響いた。


「……アヴィ様? いらっしゃいますか?」


 少し遅れて聞こえてきたのは、どこか遠慮がちな、愛らしい少女の声だった。

 紙面に向けていた少年の端正な顔が、ふっと上がる。声の主が誰であるかを瞬時に察した彼の唇から、自然と柔らかな笑みが零れた。読んでいた本を静かに閉じると、彼は書棚の迷路をすり抜けて入り口へと繋がる通路へと顔を出す。

 そこに佇んでいた愛らしい少女の姿を視界に捉えると、その澄んだ碧色の瞳を優しげに細めた。


「やあ、フィー。どうしたんだい?」


 包み込むような優しい声と、一点の曇りもない穏やかな笑顔。そのいつもと変わらない彼の佇まいに触れ、それまで不安げに眉を寄せていた少女も、張り詰めていた緊張を解くようにほっと表情を綻ばせた。


 少年の名はアヴィ・シルベスター。17歳。

 このシルベスター王国の第一王子であり、現・第一王位継承権者その人である。

 学力、剣術、魔法のどれをとっても突出して優秀でありながら、決して驕ることのない柔和な物腰は生徒たちの間で絶大な信頼を集めていた。当然のように最高学年である今年は生徒会長も務めている。

 学園卒業後は国王補佐として本格的に国政の中枢に携わることが決まっており、現在も学業の傍らで国王の政務の一部を手伝っているのだ。今日もその一環として、過去の法改正の事例調査を行うためにこの場所を訪れていた。


 そして、彼を訪ねてきた少女の名はフィーネ・グランドール。

 国内屈指の名門であるグランドール公爵家の長女であり、アヴィとは同い年だった。二人は8歳の時に正式に婚約を結び、それ以来、互いの存在を特別なものとして育んできた。

 この国では珍しい、陽光に透けるような美しい白金の髪は学園内でもひときわ目を惹き、ふんわりと柔らかいウェーブのかかったロングヘアは女生徒たちの憧れの的だ。アメジストのように神秘的で深い紫色の瞳もまた、彼女の儚げな魅力をより一層引き立てていた。

 性格は控えめで思慮深いが、その頭脳は学年でもトップクラス。まさに完璧な公爵令嬢に見える彼女だが、唯一の「欠点」は、魔法に関しての才能が皆無であること――というより、一切の魔法が使えないということだった。


 この世界には魔力が存在しており、大抵の人が多かれ少なかれ魔力を保有している。だが、この魔力を「魔法」という形に変えて外部に発現させるには、生まれ持った才能が絶対条件となる。実際、魔法を行使できるのは全人口のおよそ三割程度に過ぎず、その多くが貴族だった。

 フィーネは幼少期からどれほど血の滲むような練習を重ねても、ただの一度も火を灯すことも、小石一つ動かすことすらできなかった。そのため、彼女にはその才能が無いというのが、本人および世間の認識であり、その点において彼女は「無能な令嬢」と揶揄されていた。

 だがその一方で、王族は代々極めて高い魔力を有し、強力な魔法を操る家系として知られている。その例に漏れず、目の前にいるアヴィもまた、「当代随一の火属性魔法の使い手」と若くして称されるほどの天才だった。


 フィーネは細い指先を胸の前できゅっと握り締め、少し言い難そうにアヴィを見上げた。


「あの、私も……こちらにいさせていただいてもよろしいでしょうか?」


 普段の彼女であれば、アヴィの公務や調べ物の邪魔になるような我が儘は絶対に口にしない。しかし今日ばかりは何か事情があるのか、どこか思い詰めたような潤んだ瞳でアヴィをじっと見つめている。小動物のように庇護欲を激しくそそるその姿に、アヴィは一瞬、息を呑んで言葉を失ってしまった。


「…………それは、もちろん構わないけれど。私はこれから少し固い調べ物をしなければならないから、君を退屈させてしまうよ?」


 数拍ののち、内心のあまりの愛おしさにフリーズしていた思考をどうにか再起動させたアヴィは、乱れそうになる鼓動を隠して平静を装い、彼女を気遣うように言葉を返した。


 すると、フィーネは小さく首を横に振る。


「構いません。お傍にいられるだけで……私が、安心できるのです。……その、やはりご迷惑でしたでしょうか……?」

「まさか。そんなわけがないだろう。なら、気が済むまでここにいるといい」


(愛する婚約者にこんなに可愛いことを言われて、拒める男がこの世にいるならぜひお目にかかりたいものだ)


 心底そう思いながら、アヴィは愛おしさを堪えきれずに手を伸ばし、自分よりも頭一つ分低い位置にある彼女の頭をぽんぽんと優しく撫でた。

 フィーネはそれだけで救われたように微笑むと、部屋の入り口付近に設けられた自習スペースの椅子に腰掛け、持参した本を開いて静かに待ち始めた。


◇◇◇


 フィーネが訪れてから、およそ一時間が経過した頃。アヴィはようやく複雑な資料の精査を終え、ペンを置くと、凝り固まった肩を回しながら彼女の待つ自習スペースへと戻った。


「フィー、すまない。ようやく調べ物が終わっ――」


 声をかけようとしたアヴィは、しかし途中で言葉を飲み込んだ。視線の先、机に広げられた本の上に突っ伏したフィーネが、すやすやと小さな寝息を立てていたからだ。どうやら静かな空間で待ちくたびれて、眠気に負けてしまったらしい。


 アヴィは思わずくすりと目元を緩めると、彼女を起こさないよう細心の注意を払って足音を消し、隣の椅子に腰を下ろした。


「……いつも待たせてばかりですまない、フィー」


 夕暮れの残光に照らされた彼女の横顔があまりにも無防備で美しく、アヴィはそっと手を伸ばした。白金の絹糸のような髪を指先でそっと梳き、愛おしさを込めてその毛先に薄く唇を寄せる。


「……ん……、アヴィ……さま……」


 その時、フィーネの小さな唇から、微かな寝言となって彼の名前が零れ落ちた。アヴィはわずかに目を見開き、次の瞬間、堪えきれないといった風に破顔した。


 どうやら彼女は、夢の中でも自分を呼んでくれているらしい。そんな些細な、けれど奇跡のような出来事に、胸の奥が温かい幸福感で満たされていく。自分はどれほどこの少女に溺れているのだろうか。


 このまま世界が止まってしまえばいいのにとさえ思ったが、窓の外はすでに夜の帳が下りようとしていた。アヴィは名残惜しさを覚えながらも、彼女の肩を優しく揺すった。


「フィー、朝……いや、夕方だよ」

「……ん……あ、アヴィ……様……?」


 長い睫毛が震え、アメジストの瞳がゆっくりと開く。


「おはよう、フィー」

「……あ! 私、申し訳ありません、眠ってしまっていましたか……!?」


 ハッと意識を覚醒させたフィーネは、自分の失態を悟って頬をみるみる林檎のように真っ赤に染め、慌てて姿勢を正した。そんな彼女の様子が微笑ましくて、アヴィは低く笑った。


「起こすのは、可哀そうかと思ったのだけれどね」

「い、いえ! そのような……私が勝手にお邪魔しましたのに、本当に申し訳ありません……」

「気にする必要なんてないよ。こちらこそ、長く待たせてすまなかった。……少し、お茶でも飲んでいこうか」


 アヴィが優しく促しながら部屋の隅にあるテラス席の喫茶スペースを指さすと、フィーネは恥ずかしそうに頷いた。


◇◇◇


 それからしばらくの間、二人は温かい紅茶を口にしながら、今日あった些細な出来事を語り合った。しかし、気がつけば外の景色は完全に深い夜の色に染まっている。

 アヴィは、図書館の入り口で静かに控えていた自身の有能な従者、ウィリアムを伴い、フィーネを女子寮まで送り届けることにした。


「フィーも、三連休は公爵邸に帰省するのかい?」


 月明かりに照らされた学園の敷地内を歩きながら、アヴィが隣のフィーネに問いかける。明日から学園はちょうど定期の三連休に入る予定だった。


「はい。父が私の帰りをとても楽しみにしていると、母からの手紙に書いてありました。明日の朝早くに、迎えの馬車が来る予定です」

「そうか。グランドール公爵は相変わらず、フィーを可愛がっておられるようだね」


 彼女と同じ白金の短髪に厳格なモノクルをかけ、財務省長官として宮廷では冷徹無比な表情を崩さない公爵だが、愛娘の前でだけは甘々な父親に成り下がる姿が容易に想像でき、アヴィは苦笑を漏らす。


 そんなアヴィの横顔を見上げながら、フィーネもまた心配そうに問い返した。


「アヴィ様は、やはり王城に戻られるのですか?」

「ああ。ちょうど明日から父上が隣国へ外遊に行かれるからね。私が国王代理として、いくつかの政務を代行しなければならないんだ」

「休日だというのに、お忙しいのですね……。どうか、ご無理だけはなさらないでくださいませ。アヴィ様のお体が一番大切ですから……」


 自分を気遣ってくれる婚約者の優しさに、アヴィは胸を突かれ、にこりと極上の微笑みを返した。


「ありがとう、フィー。君の言葉があれば、どんな激務も乗り越えられそうだ。これも王家に生まれた者の務めだからね」


 やがて女子寮の重厚な門扉の前まで辿り着くと、フィーネはアヴィと、その一歩後ろに控えるウィリアムに向き直り、ドレスの裾を引いて美しく一礼した。


「ここまで送っていただき、本当にありがとうございました。アヴィ様、そしてウィリアム様も」


 自分の我が儘に付き合わせてしまったと申し訳なさそうに眉を寄せる彼女だが、アヴィにとっては迷惑どころか至福の時間でしかなかった。自分に会いたいと願い、訪ねてきてくれた婚約者を愛おしいと思わないはずがない。


「当然のことをしたまでだよ。フィーは私の、大切な人なのだから」


 アヴィは彼女の傍らに歩み寄ると、その額にそっと不意打ちの口づけを落とした。後ろではウィリアムが手慣れた様子で視線を外し、静かに一礼している。


「それじゃあ、フィー。良い休日を」

「はい……! アヴィ様も、どうかお気を付けて……」


 少しだけ恥ずかしそうに頬を染め、彼が触れた額を愛おしそうに両手で押さえながら、フィーネは微笑んで手を振った。何度も名残惜しそうに振り返りながら、彼女の小柄な背中が女子寮の温かい光の中へと消えていく。


 その姿が完全に見えなくなるまで見届けてから、アヴィは深く息を吐き、ぽつりと呟いた。


「……なあ、ウィリアム」

「はい」


 主の低い声に応じ、一歩下がって影のように控えていたウィリアムが生真面目な声色で答える。


「どうにかして、私たちの婚儀を早めることはできないものかな。正直なところ、学園を卒業するまで私は我慢できる自信がなくなってきたよ」


 先ほどまでの怜悧な第一王子としての顔はどこへやら、今や独占欲と甘い情熱で蕩けそうな表情を浮かべる主を見て、ウィリアムはその藍色の瞳をわずかに見開いた。


「今ですら、彼女に一歩でも近付く男すべてを排除したくなるほど嫉妬しているんだ。次期国王ともあろう者が、情けないことにね」

「……いえ。そのお気持ちは、痛いほど理解しております」


 ウィリアムはすぐに表情を引き締め、深く同意するように頷いた。


 幼い頃から二人を最も近い特等席で見守ってきたウィリアムだからこそ、アヴィの抱く愛情がどれほど深いか、また同時にフィーネ自身もアヴィを一途に見つめているかを知っている。客観的に見ても、これほど互いを想い合う理想的な恋人同士はいない。


 しかし、学園という有象無象が集まる場所において、眩いほどの存在感を放つ二人が常に平穏でいられるわけではなかった。どれほど強固な婚約関係があると周知されていても、権力や彼女の美貌を目当てに不埒な接近を試みる輩は後を絶たない。

 無論何か妙な事をしでかす前にアヴィとウィリアムが手を打ってはいるが、自分の気付かないところで何かあったらと考えるとアヴィは気が気ではなかった。


「卒業まで、あと一年か……」


 長いな、と夜空を見上げて溜息をつくように呟いたアヴィ。


 しかし、この時の彼はまだ知る由もなかった。このわずか数日後、自分たちのすべてを無慈悲に引き裂く「最悪の悪夢」が、すぐ目の前まで迫っているということを――。



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