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忘れられた公爵令嬢  作者: 結城 洋乃
第二部

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38/41

38. 二人の未来②

 夕暮れの風が吹き抜ける街道で、二人が互いの存在を確かめ合うように強く抱きしめ合っていた、まさにその時――。


 カッカッ、と街道の向こうから複数の重々しい蹄の音が響き渡った。


「……なんだ、何事かと思えばアヴィじゃないか」


 豪胆で低い声が、静まり返った場に響く。姿を現したのは、数騎の護衛を従え、威厳に満ちた佇まいで馬に跨る男――レイム帝国の王太子、ランドルフだった。


「……ランディ兄さん」


 アヴィは顔を上げると、フィーネを庇うように一歩前に出た。その碧い瞳に警戒の色を宿し、ランドルフを射抜くように見据える。


「砦の連中が、グランドール家の馬車が急に停車して動かなくなったと言っていたから、様子を見に来たのだが――なぜお前がここにいる?」


 ランドルフの視線が、アヴィと、その背後で身を縮めるフィーネへと向けられる。


「そこにいるのは俺の花嫁のはずだが」

「――違います」


 アヴィはきっぱりとした強い口調で、遮るように言い放った。


「フィーネは、私の婚約者です。たとえランディ兄さんであっても、絶対に譲ることはできません」

「……婚約者、だと?」


 ランドルフは聞き捨てならないとばかりに眉を上げた。


「何を言っている、お前の婚約者はサラ・スレイヤー嬢だったろう。フィーネ嬢はローゼンベルク侯爵家の者との婚約を打診されていると聞いて、だから俺は――」

「違う! フィーネはずっと昔から私の……私だけの唯一の婚約者だ!」


 いつも品行方正なアヴィの、珍しいほどの強い口調に、ランドルフは目を丸くした。こんな感情的な彼を見るのは初めてかもしれない。


(――いや、待てよ。本当にそうだったか?)


 ふと、ランドルフの脳裏に、アヴィの嫉妬に満ちた瞳が過った。


(あれは……アヴィの婚約者に紹介された時か)


 フィーネに会ったあの夜会で、その後にアヴィから婚約者を紹介された。帝国の王太子である自分に対して、紹介しないわけにはいかないとしても、俺に奪われないかと気が気でなさそうな弟分の様子が、妙に可愛らしく見えて、笑ってしまった。そんな人間らしい感情を見せるアヴィは初めてだった。


(……ああ。この少女が、アヴィを変えたのだな)


 王族は……特にその頂点に立つ国王は孤独だ。誰にも頼れない。頼りすぎてはいけない。だから、自分と同じ、その孤独の中を生きることになる彼に、一種の親近感を感じていたのだ。

 何事にも執着を見せなかったアヴィが、ようやく見つけた『唯一』。それなら、自分も彼の兄貴分として、その彼の大切な想いを見守ってやりたい、そう思ったのだ。


(あの時の、少女は――)


 薄桃色の髪が一瞬チラついた後、それが揺らいだ。そして、鮮明に蘇ったのは白金の髪と紫水晶の瞳。


「……うっ……ぐ!」


 ランドルフは思わず片手で頭を押さえる。


「殿下!?」


 後ろに控えていた騎士が、様子のおかしい彼に声をかけるが、ランドルフはそれを震える手で制した。


「……案ずるな。それより、グランドール家の馬車も大事ないようだし、そなたたちは先に戻れ」

「は? しかし……」


 護衛対象であるランドルフを残して引くわけにはいかない、と困惑の表情を浮かべる騎士たち。だが、そんな彼らを強い視線でもって黙らせると、ランドルフは再び手で撤退を指示した。

 騎士たちは戸惑いながらも、主君の指示に従って踵を返した。ある程度彼らが離れた所で、ランドルフはアヴィ達に向き直る。


「ランディ兄さん……?」

「……まったく、いったい何が起きていたんだ?」

「兄さん、もしかして記憶が……?」


 アヴィが恐る恐るという様子で問いかけると、ランドルフが静かに頷いた。


「思い出したよ。お前があの夜会で俺に紹介した婚約者は……確かにフィーネ嬢だったな」

「っ……!」

「大事な弟分のお前が、ようやく見つけた感情を向けられる相手――そう分かったから、俺は自分の想いに蓋をしようと、そう決めたはずだったのに」


 フッと自嘲気味な笑みを浮かべ、ランドルフはフィーネに視線を向ける。


「……すまなかったな、フィーネ嬢。つらい思いをさせてしまったようだ」

「……ランドルフ、殿下……」


 軽く頭を下げたランドルフに、フィーネは瞠目した。


「アヴィ、今回のことは、また場を改めて話し合おう。今は俺もお前も……普通の状態ではなさそうだからな」

「兄さん……」

「側妃の件は、白紙だ。俺の方で両親にはうまく伝えておくさ」


 そう言って、ランドルフは馬の手綱を引き、踵を返す。どこまでも鷹揚に、器の違いを見せつけるような言葉。だが、その奥には、弟分であるアヴィへの、配慮と気遣いが満ちていた。


「ありがとう、ランディ兄さん」

「……アヴィ、一つだけ言っておく」


 ピタリと馬の足を止め、後ろを向いたままのランドルフの声が降ってくる。


「フィーネ嬢を娶るなら、必ず、彼女を幸せにしろ。俺が……この選択を後悔しないように」

「……はい。心に刻みます」


 ランドルフからの真摯な想いを受け取り、アヴィは重々しく頷いた。遠ざかっていく帝国の騎士たちの蹄の音が、やがて街道の果てへと消えていく。


 ――再び、街道に静寂が戻った。

 アヴィは深く息を吐くと、傍らのフィーネの手を握り直し、ゆっくりと振り返った。そこには、馬車の傍らで完全に置いてきぼりを食らい、何が起きたのか分からず呆然と立ち尽くしているグランドール公爵夫妻の姿があった。


 アヴィはフィーネをエスコートするようにそっと手を引くと、彼らの前に進み出た。


「グランドール公爵、そして公爵夫人」

「で、殿下……。これはいったい、どういう状況なのですか……? なぜレイム帝国との国境であるこのような場所に、貴方様が……。それに先ほどのレイム帝国の王太子殿下のご発言は……」


 あまりの怒涛の展開に戸惑いを隠せない様子の公爵に対し、アヴィは迷いのない視線を向けると、深く頭を下げた。


「この度は、私の不甲斐なさと力不足のせいで、お二人の最愛の娘であるフィーネ嬢に、あまりにもつらい思いをさせてしまった。誠に、申し訳ありません」

「殿下、頭をお上げください! いったい、どういうことなのです?」

「……まだ、お二人の記憶は戻っておられないのかもしれません。無理もないことです。信じ難い話でしょうが――我々は全員、原初の魔女の強力な闇の魔法によって、記憶と認識を操作されていたのです」

「なっ……魔女、ですと……!?」


 愕然とする公爵夫妻に対し、アヴィは強い意志を込めた瞳で毅然と言い放った。


「私はサラ・スレイヤー男爵令嬢などという女性と婚約した覚えは断じてない。私が幼い頃に一目惚れし、生涯をかけて守ると誓い、心から愛して婚約を結んだ相手は――後にも先にも、私の傍らにいる彼女、フィーネ・グランドールだけだ」


 そう言って、アヴィは愛おしそうにフィーネの肩を抱き寄せ、自身の身体へと引き寄せた。


「フィーネが、殿下の婚約者……?」

「では、この子がこれまでずっと必死に訴えていたことは……」

「ええ、すべてが真実です。狂っていたのは彼女ではなく、魔女の術中に嵌まっていた我々の方だったのです」


 アヴィの口から語られた信じられない事実に、公爵夫妻は愕然とした表情で娘へと視線を向けた。これまでの半年間、娘がどれほど悲痛な面持ちで自分たちに真実を訴えていたか、そしてそれを「哀れな妄想」として切り捨てていた自分たちの行いが脳裏を過り、公爵夫妻の顔から血の気が引いていく。


「そんな……まさか、私たちが、実の娘の言葉を……」

「公爵も不思議に思われていたでしょう?なぜフィーネに婚約者を選定していなかったのか――『親として恥ずかしい限りだ』と仰っていましたね。でもそれは当然です。既に彼女には、私という婚約者がいたのですから」

「っ……!」


 グランドール公爵は激しく息を呑んだ。アヴィのその一言によって、この半年間、公爵家の中で発生していた数々の違和感の点と点が、凄まじい勢いで一本の線となって繋がっていくのを感じたのだ。

 なぜ自分は娘の婚姻をあそこまで放置していたのか。他家から山ほど届いていた釣書を、この歳になるまで全て棚上げにしていたのか。そのすべてのロジックが、今、証明された。


「……私も記憶を取り戻したのは、つい先刻のことです。フィーネが残してくれた光の魔力のブレスレットによって目覚めました。そして、彼女が国境へ向かったと聞き、その足のまま、馬を飛ばしてここまで追いかけてきたのです」

「それは……何故、そこまでして……」

「理由など、一つしかありません。フィーネをこの手に取り戻すためです。彼女を失うくらいなら、私は王位も、この命すらも必要ない。彼女のいない世界を生きることなど、私には到底耐えられないからです」

「殿下……」


 公爵は王子の剥き出しの執着と愛の深さに圧倒され、ただただ言葉を失うしかなかった。アヴィは一つ深く息を吐くと、切なそうに隣のフィーネへと視線を戻した。


「無論……これほどまでに彼女を傷つけてしまった私を――彼女がもう私の顔など見たくないと、そう思うのであれば、私は苦渋の決断をせざるを得ないだろう。結局は、私の至らなさが招いた事態だったのだから」

「あ、アヴィ様! 今回のことは、決してアヴィ様のせいでは――」

「……ありがとう、フィー。でも、君は優しすぎる。君の苦しんだ半年間を思うと、私はどうしても自分が許せないんだ」


 アヴィは優しく労るような手つきで、フィーネの白く柔らかな頬に残る涙の痕を、そっと親指の腹で拭った。その指先の優しさと温もりが、再びフィーネの涙腺を激しく刺激する。


「……確かに、とても寂しくて、辛い日々でした。誰にも言葉を信じてもらえず、世界で一番大切な人に拒絶された日々……それでも、私は決して、本当の意味で一人ではありませんでしたわ」


 フィーネはそう言って、一歩後ろで静かに控えていたウィリアムを振り返り、慈愛に満ちた微笑みを向けた。


「ウィリアム様が、どんな時も私を信じ、ずっと陰ながら助けてくださいました。アヴィ様のことを諦めないでほしいと、アヴィ様は確かに私を愛していたと……私の心が折れそうな時も、ずっと隣で励まし続けてくださったのです」

「ウィリアムが……そうか、お前が……」


 アヴィが驚きと共に背後の侍従を見やると、ウィリアムは少し照れくさそうに頭を掻きながらも、誇らしげに胸を張った。


「……当然の務めを果たしたまでです」

「ふふ、ですがそれは、アヴィ様がこれまでの歳月の中で、いつだって私にも、そしてウィリアム様にも、真摯に向き合ってきてくださったからでしょう?」


 フィーネはふわりと、夕闇の中に大輪の花が綻ぶような、眩いばかりの笑顔をアヴィに向けた。


「アヴィ様がずっと真っ直ぐに、私たちとの信頼関係を築いてこられたからこそ、私たちは今、こうして再び同じ場所に立ち、共にある未来に向かって歩み出すことができるのですわ」

「フィー……」


 眩しいほどに澄んだ彼女の瞳に、アヴィは目を細めた。


「この悪夢のような半年間があったからこそ……私は以前よりもずっと、アヴィ様が私に向けてくださっていたお気持ちの重さを、確かに、贅沢なほど感じられるようになったように思います。そして――自分自身の本当の気持ちも、はっきりと理解できました」

「……フィーの、本当の気持ち?」


 アヴィが少し不思議そうに首を傾げると、フィーネは繋いだままの彼の手をそっと両手で持ち上げ、自身の胸元へと引き寄せた。


「アヴィ様が大好きで、貴方以外の人とでは、私は絶対に幸せになれないという、強い気持ちです」

「フィー……っ!」


 アヴィの胸の奥で、熱い感情が爆発するように広がっていく。フィーネは潤んだ瞳のまま、確固たる意志を込めて言葉を紡いだ。


「……与えられた立場も、いただいていた想いも、それらすべてが、決して当たり前のものではなかったということ。かけがえのない、大切な奇跡のようなものだったのだということを、私は改めて思い知ったのです」

「……ああ。まったくその通りだ。私も同じだよ、フィー」


 アヴィは彼女の手を強く握り返し、愛おしさが極まったように彼女の額へと自身の額をこつんと当てた。


「君が私の隣にいてくれることが、いつの間にか当たり前になりすぎていた。この幸せな日々がなくなるなんて、考えもしなかった。だけど……それがどれほど脆く、奇跡のように尊いものだったのかを、君を失いそうになって、初めて痛感したんだ」


 夕陽が完全に地平線の向こうへと沈み、世界が美しい夜の帳に包まれ始める。しかし、二人の間に漂う空気は、かつてないほどに温かく、強固な絆で満たされていた。


「――もう離さない。私たちの未来を、今度こそ私のこの手で、永遠に守り抜いてみせる」


 二人は今度こそ、誰の手によっても分かたれることのない幸福な未来へと向かって、強く、強く微笑み合った。



ここまでお読みいただきありがとうございました。

次回、エピローグです!

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