37. 二人の未来①
レイム帝国との国境を間近に控えた荒涼たる街道で、アヴィとウィリアムの視界に、ついに一台の馬車がその姿を現した。
夕陽の光を浴びて進むその頑丈な馬車。目を凝らせば、車体の隅に刻まれた見紛うはずもないグランドール公爵家の紋章が視認できた。
「見えた、あれだ……!」
「はい! 間違いありません、グランドール公爵家の馬車です!」
アヴィが叫ぶように声を上げると、ウィリアムもまた感極まったように大きく頷いた。二人は躊躇うことなく鞭を当て、愛馬をさらに加速させる。蹄の音が激しく地を穿ち、みるみるうちに馬車との距離が縮まっていく。
「フィーネ――ッ!!」
喉がちぎれんばかりに、アヴィはその名を叫んだ。かつて魔女の術中にあった時、冷酷に突き放したはずの名が、今は狂おしいほどの愛おしさを伴って胸を焦がす。
「止まってくれ! フィー――!!」
◇◇◇
ガタゴトと規則正しく揺れる馬車の中で、フィーネはただ、何の感情も宿らない虚ろな瞳で窓の外を流れる景色を見つめていた。
向かいの席では、実の両親である公爵夫妻がそんな愛娘の様子を痛ましいほどに心配そうな面持ちで見つめていたが、今のフィーネにはそれすらも意識の端に引っかからなかった。
馬車が目指すのは、レイム帝国との国境。国境の砦で、使者に引き渡されれば、その後は王都に到着次第すぐにでも、レイム帝国王太子であるランドルフとの婚儀が執り行われる手筈になっていた。
今朝、まだ夜が明けぬうちから大勢の侍女たちに囲まれ、彼女はただ人形のようにされるがままになって身支度を調えられた。
普段は緩やかに結い上げられ、ふんわりとした優美さを引き立てる彼女の白金の髪。プロの技術によって完璧に施された化粧は、少女らしい愛らしさを残しつつも、どこか憂いを帯びた大人びた艶やかさを醸し出している。身に纏った淡い青色の美しいAラインドレスは、夕暮れの光の中で、まるで神秘的な湖から現れた女神のような気高さを放っていた。
(……これで、本当に終わりなのね)
フィーネは心の中で、これまでに起きた残酷な出来事をただただ静かに逡巡していた。
レイム帝国への輿入れを承諾してからは、狂いそうになる頭で、なんとかアヴィの存在を記憶から消し去ろうと血のにじむような努力を続けてきた。完全に忘れ去ることは不可能だとしても、せめて、新たな夫となるランドルフという男を少しでも受け入れられるようにならねばと、自分に言い聞かせ続けてきたのだ。
ランドルフ王太子とは、これまでにも何度か面識があった。アヴィの正式な婚約者として、隣国との重要な社交の場には必ず出席していたからだ。
ダークブラウンの短い髪に、意志の強い切れ長の瞳。武勇に優れるという噂通り、アヴィのしなやかで細身な体躯とは対照的に、がっしりとした大柄な体格をした青年だった。記憶の中にある彼は、やや無愛想で言葉少なではあったものの、フィーネに対しては常に一定の敬意と優しさを持って接してくれた。決して、人として嫌うような要素など何一つない相手だった。
だが――そうやって理性を働かせ、新しい未来を受け入れようとすればするほど、反比例するようにアヴィの記憶が鮮烈に脳裏に蘇ってしまうのだ。
いつだって自分を優しく見守ってくれていたあの深い碧色の瞳。陽光のように眩しいあの金色の髪。どんな自分も受け入れ慈しんでくれたあの温かな微笑み……。
そのような熱情を胸に抱いたまま、アヴィではない別の男性と生涯を共にする覚悟など、決められるはずがなかった。
(……それでも……仕方がないのよ)
アヴィに宛てた最後の手紙にも書いたではないか。自分は公爵家の娘なのだ。己の我儘で、一生独身を貫くなんてできるはずがない。貴族の家に生まれた者として、課せられた責任くらいはきちんと理解している。
それに、このままいけばいずれはアヴィだって、自分以外の誰かを正妃として迎える日が来る。それが、あのスレイヤー男爵令嬢なのか、あるいはもっと高貴な別の女性なのかは分からない。けれど、アヴィの隣に自分以外の女性が寄り添い、彼がその人を愛おしそうに見つめる姿を想像しただけで、胸の奥が張り裂けそうになり、再び大粒の涙が溢れそうになる。
(だめ、せっかく侍女たちが綺麗にしてくれたお化粧が崩れてしまうわ……)
フィーネはぐっと奥歯を噛み締め、必死に涙を堪えた。もうすぐ国境の砦が見える。到着してしまえば、物理的にも政治的にも、二度と後戻りはできない。
(……さようなら。アヴィさ――)
「――ネ!!」
突如、ガタゴトと激しく響く馬車の走行音を割って、ひどく掠れた人間の叫び声が鼓膜に届いた。
フィーネはハッと顔を上げた。どうやら気のせいではなかったらしく、向かいの席の両親も「おや?」とした表情でキョロキョロと辺りを見回している。
(今の、声……。幻聴? でも、あれは……)
ずっとずっと聞きたかった人の声だったような気がした。
フィーネは震える指先で、馬車の窓枠を押し上げた。冷たい夕風が室内に吹き込むのと同時に――。
「止まってくれ! フィー――!!」
今度は遮るもののない明瞭さで、その絶叫が鼓膜を激しく震わせた。
幻聴などではない。夢にまで見た、命をかけてでももう一度会いたかった、最愛の人の声だった。
「……とめて」
無意識のうちに、フィーネの唇から掠れた声が漏れ出た。彼女は窓から身を乗り出しそうになりながら、声を張り上げた。
「馬車を――! お願い、馬車を止めて!!」
◇◇◇
前方の馬車が次第に速度を落とし、完全に停止するのを確認して、アヴィとウィリアムもまた愛馬の手綱を引き、速度を緩めた。
馬車が完全に静止した瞬間だった。御者が御者台から飛び降りて扉を開けるよりも早く、内側から勢いよく扉が開け放たれた。中から飛び出してきたのは、淡い青色のドレスの裾を揺らした、一人の美しい女性――フィーネだった。
その姿を目にした瞬間、アヴィは馬が完全に止まるのも待たずにあぶみから足を外し、地面へと飛び降りた。足にかかる衝撃など微塵も感じないまま、彼はただ無我夢中で彼女の元へと駆け出した。
「フィー!!」
彼女の目の前、あと数歩で手が届くという距離で立ち止まる。求めて止まなかったあの美しい紫水晶の瞳が、信じられないものを見つめるかのように、大きく見開かれ、真っ直ぐにアヴィを捉えていた。
魔女の呪いによって引き裂かれ、まともに言葉を交わさなくなってからは半年ほどしか経っていないはずだった。それなのに、アヴィにとってはもっとずっと永い闇の中に閉じ込められていたかのような錯覚さえ覚える。
夕陽を浴びて神々しいほどに美しくドレスアップされた彼女の姿を視界に収め、胸が締め付けられるような愛おしさと泣き出しそうなほどの安堵感に包まれながら、アヴィは噛み締めるように、その名を紡いだ。
「……フィー」
「ア……殿、下……?」
フィーネはいつもの癖でその名を呼びかけて、ハッと息を呑み、怯えたように慌てて敬称を口にした。
『誰の許しを得て、私の名をそのように気安く呼んでいる』
魔女の呪いによってすべてが変わったあの日、学園で、馴れ馴れしい、と軽蔑の眼差しを向けられたあの時の光景が、フィーネの心を過ったためだ。
そんな彼女の、微かに震える怯えた表情とその声。それが何よりも、自分が彼女に与えてしまった傷の深さを物語っており、アヴィの胸に鋭い刃となって突き刺さった。アヴィの顔が、耐え難い苦痛に歪む。
「フィー……」
「あ、あの……殿下。その、呼び名は……」
「すまない……っ! 本当に、本当にすまなかった……!!」
戸惑いながら距離を置こうとするフィーネの言葉を強引に遮り、アヴィは深く、深く頭を下げた。
「誰よりも君を愛していたのに、魔女の呪いなどに操られて、何度も酷い言葉と態度で君を傷つけてしまった。本当に……本当に、すまないっ……」
アヴィの言葉に、フィーネが目を見開く。
アヴィはゆっくりと顔を上げると、残り数歩の距離を詰め、泥に汚れるのも構わずに街道の土の上へと跪いた。そして、フィーネの白く震える両手を、自身の両手で壊れ物を扱うように包み込む。
「……こんなにも君を苦しめ、悲しませた私が、今更許して欲しいなどと言える立場ではないことは痛いほど分かっている……。だが、それでも……私には君を手放すなんて考えられないんだ。君が私以外の男の妻となり、他の男の隣で微笑むのを見ながら生きていくなんて、とてもできない……。フィーは、私の『唯一』だから」
彼女の手の甲に自身の額を押し当て、祈るように告げられたアヴィの悲痛なまでの愛の言葉。アヴィの両手は尋常ではないほどに震えており、彼がどれほどの焦燥と恐怖を抱えてここまで走ってきたのかを、何よりも雄弁に物語っていた。
その苦しげな声に、溢れるほどの想いに、フィーネの心が震えた。
「……アヴィ、様……」
それは、遮るもののない、半年間の闇を払う確かな響きだった。かつてと変わらぬ最愛の人の名が、彼女の唇から自然と零れ落ちる。
その最愛の声を聞いたアヴィは、弾かれたように顔を上げ、瞠目した。次の瞬間、堰を切ったようにその瞳から涙が溢れ出した。
「……ありがとう、フィー。もう一度、私をそう呼んでくれて……」
「……本当に、もう一度、貴方のお名前を呼んでも、よいのですか……?」
震える声で、潤んだ瞳で、フィーネは跪くアヴィを見つめ返した。アヴィの深い碧の瞳が、真っ直ぐに彼女の視線を受け止める。
その瞳の奥にあるのは、呪いに侵されていた時の冷徹な光などではなく、かつて自分を甘やかすように包み込んでくれた、あの温かで情熱的な光そのものだった。
「私は……これからも貴方のお側にいて、よろしいのですか……?」
「……もう二度と、君を悲しませたりしない。誓うよ」
アヴィの力強い言葉が引き金となり、フィーネの瞳からも止めどなく涙があふれ出した。
どちらからともなく激しく手を伸ばし、二人は互いの身体を壊すほどの強さで抱きしめ合った。アヴィは彼女の細い腰を抱きすくめ、その白金の髪に顔を埋めてその体温を確かめる。フィーネもまた、アヴィの背中に腕を回し、彼の服を強く握りしめた。
「アヴィ様……! アヴィ様……っ!」
「フィー、愛している。すまない、本当に愛している……!」
夕暮れの風が二人の間を吹き抜ける中、アヴィの胸ポケットに入ったブレスレットの碧と紫の石が、互いに共鳴し合うかのように、かつてないほど暖かく、優しい光を放っていた。




