36. 彼女の許へ
疾風のごとく駆ける馬の上で、アヴィはただ前方だけを凝視していた。隣を並走するウィリアムも、固い表情で前を見据えている。互いに口を開く余裕すらなく、二騎はひたすらに街道を駆け抜けていく。
目指すは、レイム帝国との国境――
風を切り裂き進むアヴィの脳裏には、出立の間際にウィリアムから手渡された、一枚の手紙の文面が幾度も、幾度も木霊していた。
『――アヴィ様。この手紙を読まれる頃、私はもう、貴方とは分かたれた道を歩んでいることでしょう』
一人で部屋に籠って手紙を認めている、寂しさと悲しみを湛えた彼女の表情が、瞼の裏に浮かぶ。自分が記憶を失っていたこの数ヶ月、彼女はどれほど心細い思いをしていたのだろうか。
『叶うなら、せめて最後に直接お会いして、言葉を交わしたかった。それでも、これでよかったのかもしれません。お会いしたらきっと……またすぐに、心が揺らいでしまいますから』
揺らいでくれればよかった、などと無責任なことを思ってしまう自分は、身勝手で酷い男なのだろう。それでも――自分から離れていく覚悟など、永遠に決めないでほしかった。
『八歳のあの日から、私はずっと貴方のことをお慕い申し上げておりました。アヴィ様の妃となる未来を疑ったこともなく、ただ貴方の愛情に包まれて過ごしてきました。共に過ごしたあの日々は、紛れもなく私にとって、人生で一番幸せな時間でした』
自分だってそうだ、フィーネと過ごした時間なら全て覚えている。彼女の笑顔も、泣き顔も、少し怒った顔も……その一瞬一瞬が、自分にとって何物にも代えがたい宝物だった。これから先もそれが続いていくと、何の疑いもなく信じていた。
『もし許されるなら、いつまでだってお待ちしていたかった。思い出してもらえなかったとしても……この命尽きるその時まで。ですが私は……公爵家の娘です。自分の心だけを優先するわけには参りません』
知っている。彼女はそういう人だ。か弱そうに見えて、誰よりも強い芯を持っている。自分に課せられた貴族としての責任を、投げ出すことなんて絶対にできないのだと……痛いほど分かっている。
『この手紙を読んでいらっしゃるということは、アヴィ様は記憶を取り戻されたのですね。本当に、心から嬉しく思います。
そんな貴方を信じて待ち続けることができなかった私を、どうかお許しください。そして、この手紙を最後に、私のことはどうか、お忘れください。
貴方を一番近くでお支えすることはもうできませんが、それでも私は――フィーネは、アヴィ様のお幸せをずっとずっと……心からお祈りしております』
締めくくられた手紙の最後の文字は、ぽつりと、何かに濡れたように滲んでいた。
フィーネの切なる想い、そして願いが、胸に痛かった。無意識のうちに、馬の手綱を握る手に血が滲むほどの力が籠もる。
(忘れろ……か。そんなこと、できるはずがないというのに……酷なことを言うんだね、君は)
俯くアヴィの口元に、自嘲気味な笑みが浮かぶ。分かっている、彼女に他意がないことも……彼女が自分の今後を案じてそう言ってくれていることも。それが分からないほど、自分と彼女が積み上げてきた歳月は希薄なものではない。それでも――
アヴィは一度、溢れんばかりの感情を宥めるように瞳を閉じ、深く息を吐いた。再び開かれた炎のごとき瞳には、もはや一片の迷いもない。
(……ねえ、フィー。それでも、君も分かっていないよ。私の中にある君への想いが、一体どれほど大きいのか。忘れることなど、できるはずがないんだ)
魔女の呪いによって記憶を奪われていた間も、彼女の姿を見るたびに魂の奥底が叫んでいた。君の隣にいるのは自分でありたい、君を守るのは自分でありたいのだ、と。
◆◆◆
思い出すのは、初めてフィーネを目撃した、遠い幼い日の記憶。
七歳になった頃、供を数人だけ連れてお忍びで訪れた、グランドール領の賑やかな町中でのことだった。アヴィは大通りの片隅で、何やら揉め事が起きている場面に出くわした。
「――その手を離しなさい!」
ざわめく群衆を割って、幼いながらも凛とした声が響き渡った。そのあまりにも澄んだ声色に、アヴィは一瞬、自分の中の時間が停止したかのような錯覚さえ覚えた。
声の主へ視線を向ければ、そこには自分と同い年ほどに見える、小さな少女の姿があった。深く被った帽子のせいで髪の色などは見えなかったが、決して腕に覚えがあるようには見えない。むしろ、日当たりの良い部屋で静かに物語の本でも読んでいる方が似合うような、華奢で儚げな容貌だった。
それなのに、彼女は怯むことなくその場に立っていた。自分と同じくらいの年齢の、身なりの貧しい子どもたちをその小さな背に庇うようにして。
『アヴィよ。そなたは将来、この国を背負って立つ者だ。強く、また、正しくあらねばならない』
厳格な父王から、幼少期より幾度となく言い聞かされてきた言葉が脳裏を過る。アヴィはそんな父に憧れつつも、どこか物事に熱くなれない冷めた自分を昔から自覚していた。
それでも、生まれ持った生真面目さから、手を抜くことはできず、課せられた学問も、厳しい剣術の稽古も、膨大な魔力の制御も、すべてをそつなくこなしてきた。
しかし、そこには誰かのために尽くしたいという強い意志や、心から渇望する熱などなかった。
(……自分はまだ学んでいるだけで、何も行動を起こせてはいない。それに比べて、目の前のあの子は――)
「なんだぁ? ガキのくせに偉そうに……」
男たちが少女を威嚇するように見下ろした。
「この子たちが、何をしたというのですか……!」
見れば、少女の小さな足は小刻みに震えていた。恐怖に身を竦ませそうになりながらも、彼女はその強い意志を宿した紫水晶の瞳を、決して男たちから逸らそうとはしなかった。
「……助けてあげて」
気付けば、アヴィの口から傍らの執事に対する呟きが零れ落ちていた。
守りたいと思った。恐怖に震えながらも矢面に立ち、自分より弱い者を必死に庇おうとする、あの気高い少女を。
失いたくないと思った。誰かのためになら自ら危険に飛び込み、傷を負うことすら辞さないような、危うさを持つ少女を。
この時はまだ、その感情の正体を自覚してはいなかったけれど。それでも、怖さに足を震わせながらも弱き者を庇う、名も知らぬ少女の気高き瞳は――自分の中でずっと失われない鮮烈な光として、胸の奥に強く焼き付いて離れなかった。
そんな彼女と運命的な再会を果たしたのは、母が主催した、自身の婚約者選びのための茶会だった。
最初は彼女があの少女だとは気づかなかった。ただ、公爵家の令嬢として完璧な礼儀作法を見せる、白金の美しい髪が印象的な少女だった。
形式的な挨拶の場では印象の薄かった彼女だったが、その後、茶会を抜け出して訪れた庭園で、アヴィは偶然彼女の姿を見かけた。
彼女はなぜか、アヴィの幼い妹であるレイアと一緒にいた。ドレスに付いた果汁のシミを見て泣きじゃくるレイアを、彼女は優しく宥めながら、手慣れた様子でシミを落としてあげていたのだ。
その時の彼女の表情はどこまでも優しく、柔らかかった。形式ばった挨拶をしていた時とはまるで違っていた。
そんな彼女の表情を、もっと見てみたいと望んでしまった。
「妹が、世話になったようだね」
レイアが去った後、気付けば、声をかけていた。彼女は突然第一王子である自分が現れたことに、目を丸くしていた。
先ほどのレイアが自分の妹だったことを話し、お礼に庭を案内したいと申し出た自分に対して、「畏れ多い」とあっさり辞退してしまう彼女に、正直驚いた。
この茶会に集まった令嬢たちは皆、自分の婚約者の座を狙っていると思っていたからだ。
ますます彼女に興味を惹かれたアヴィは、ならばと、今度は自分の正式なお願いということにして、やや強引に庭園のエスコートを承諾させた。
ともに歩きながら、様々な話をした。身近な話から始まり、やがては歴史、領地経営、魔法の概念の話まで――彼女はまたしてもアヴィを驚かせた。同い年の令嬢とは思えないほど、彼女は博識だったのだ。王子として最高峰の教育を受けてきた自分と、対等以上に言葉を交わせる同世代の人間など、周囲には一人もいなかった。
これほどまでに話しやすく、隣にいて胸が躍る相手は初めてだった。そんな彼女はこの茶会で、最も自分にとって印象的な存在になっていた。
それでも、当時のアヴィにはまだ恋や愛というものの実感が希薄だった。生まれながらにして何でもそつなくこなせ、すべてが手に入る環境にいた彼には、何かに執着したり、何かを心から欲したりするようなことがなかった。
ただ、あえて誰かを婚約者に決めないといけないとしたら、相手には彼女しか浮かばなかった。
茶会の翌日、アヴィは両親とともに婚約の打診のため、公爵家を訪問した。しかし、そこで待っていたのは、予想だにしない言葉だった。
「――申し訳ありません、殿下。私は貴方の婚約者になることはできません」
毅然とした拒絶の言葉に、一瞬、アヴィの思考は完全に停止した。
自分の中に、「王子の申し出を断る貴族などいるはずがない」という傲りがあったのは事実だ。だが、彼女の真っ直ぐな瞳の前では、どんな反論の言葉も喉に詰まった。
いつも通りの冷めた自分であれば、「相手が嫌なら仕方ない」と、無感情に引き下がっていただろう。だが、この時は少し違った。
(……もし、ここで自分が引き下がったら、彼女はどうなるんだろう)
漠然とそんなことを考え、想像していた。自分と婚約しなかった彼女の未来を。公爵家の令嬢たる彼女だ、求婚の話など他にいくらでも舞い込んでいるだろう。近い将来、その中の誰かと彼女は正式に婚約してしまうかもしれない。彼女が、別の誰かのものになってしまうかもしれない。
そう考えた途端、身体中が熱くなって、口が勝手に動いていた。
「……理由を聞いても?」
感情をできるだけ排除し、静かに問いかけるアヴィに、フィーネは心苦しそうに口を開いた。
「……我がグランドール家には、今や私以外に子がおりません。私はこの家の跡取りとして、婿を取らなければならないのです」
アヴィ個人に対する拒絶ではなく、公爵家の将来を慮っての辞退だったことに、アヴィは心底安堵した。それが理由なら、いくらでも解決策はあるからだ。
アヴィは早速心の中で算段を立てると、まずはフィーネを安心させるように微笑んだ。
「事情は分かったよ。だけど、今すぐに答えを出すのは待ってほしい。……まずは私のことを、知ってくれないかい?」
そうして始まったフィーネとの交流。
手紙のやりとり、二人での茶会、王都や郊外への外出、グランドール領の孤児院への訪問……。彼女と過ごす日々は優しく穏やかで、何より温かかった。
だが、自分が何よりも衝撃を受けたのはそれからしばらく経った後。
王城の庭園で、高位貴族の子女を集めてささやかな茶会が開かれていた時のことだ。
アヴィが休憩がてら庭園に向かって歩いていると、何やら不穏な会話が聞こえてきた。
「なんて下品な装いなのかしら」
「本当、親の出自が知れると言うものですわ」
その悪意に満ちた言葉に僅かに眉を顰め、アヴィは辺りを見回す。すると、建物の陰になっている場所で、どこかの貴族家の勝ち気な令嬢たちが一人の少女を取り囲み、その母親の出自――没落した子爵家の血を引くことを、陰湿にからかい、見下した発言をしているのが目に入った。
(……醜い真似を……)
取り囲まれていたのは、まだ幼く気弱だった、ダレイアス公爵家のシンシアだった。
周囲の者たちが関わり合いを恐れて見て見ぬふりをする中、彼女はただ俯き、今にも泣き出しそうに震えていた。
アヴィが止めに入ろうとした――その時。
「――そこまでにしてください」
その場を支配した、凛とした声。
迷いなく割って入った、小さな背中。
視界を美しい白金が埋め尽くしていったその瞬間、アヴィの脳内で、遠い記憶のパズルが一気に噛み合った。
あの町中で、小さな足を震わせながらも、自分より弱い子どもたちを必死に庇っていた少女。あの声、あのどこまでも気高く美しい紫水晶の瞳――そのすべてが、今毅然として立つフィーネと、鮮烈に重なり合った。
「……フィーネ……? 君が……あの時の……」
彼女があの記憶の中の少女であったことに、自分の中の何かが歓喜の声を上げていた。もう二度と会えないと思っていた、自分が唯一憧憬の念を抱いていた存在が、今自分が一番気になっている少女と同一人物だったなんて、もはや運命としか言いようがない。
思えば最初から、フィーネと彼女はどこか似ていた。いつだって他者に優しくて、自分のことは後回しで。利害や打算なんてなく、ただ弱い者を助けようとする、その心根が好ましかった。
そして、そんな彼女の瞳に自分を映してほしいと望んでしまった。他の男など見ないで、自分だけを見てほしいと。
……そう、自分は生まれて初めて、彼女という存在に、執着していた。心の底から彼女が欲しいと、そう望んでいた。
◆◆◆
アヴィはひたすらに歯を食いしばり、無言のまま愛馬の脇腹を強く蹴ってさらに拍車をかけた。前方だけを見つめ、ひたすらにフィーネの乗る馬車の影を探す。
その胸の中に渦巻くのは、不甲斐ない自分への激しい苛立ちと、気が狂いそうなほどの焦燥感だ。
……万が一、間に合わなかったら。
もう二度と、彼女をこの手に抱く事ができない。
もう二度と、あの声で自分の名を呼ばれることはない。
いかに自分が第一王子であろうとも、一度他国へ嫁いでしまった娘を、力ずくで離縁させて連れ戻すことなどできはしない。
――そうなれば自分は、彼女が他の男の妻として生きる姿を、指をくわえて見ていることしかできなくなる。
自分以外の男の手を取り、笑いかけるフィーネ。
自分以外の男との赤ん坊を腕に抱き、慈愛に満ちた母の顔をして微笑むフィーネ。
自分のことを、ただの隣国の次期国王として、他人のように見つめるフィーネ――
「……っ!」
想像しただけで、息が詰まる。嫉妬と絶望で気が変になりそうだった。
(――嫌だ! そんなこと、耐えられるはずがない……!!)
やり場のない思いに、ギリッと奥歯を噛みしめる。たった数時間、その未来を想像して悩んでいるだけでこんなにも苦しいというのに、フィーネは一体どれほどの深い苦しみと葛藤を経て、あの決断に至ったのだろうか。
最愛の女性に、たった一人でそんな決断をさせてしまった情けない自分を殺したくなる。
力が入り過ぎたせいで唇が切れ、薄っすらと鉄の味が口内に広がる。だが、こんな痛みなど、彼女の受けた心の傷に比べれば、痛みのうちにも入りはしない。
記憶が鮮明になるにつれ、呪われていた期間の忌々しい光景もすべて蘇ってきた。学園の裏庭にある、あの思い出の湖での出来事もだ。
サラの思惑通りに操られ、フィーネとの大切な思い出の場所で、よりによってフィーネの目の前で、別の女に口づけをした愚かな自分。
あの瞬間の彼女の傷ついた表情を、溢れ出た大粒の涙を思い出すと、胸が抉られるようだった。
手綱を握る手を、感情を抑えつけるようにギュッと握りしめる。
(――それでも。罵ってくれても、詰ってくれても構わないから。だからどうか……もう一度だけ、君を取り戻す機会を与えてくれないか)
誰よりも、何よりも愛していた。
一年後の婚儀を待ちきれないほどに、彼女が他の男と親しげに話しているのを見るだけで不愉快になるほどに、彼女が愛しくて仕方がなかった。いつだって彼女を守るのも、彼女を笑顔にするのも、自分でありたかった。
地平線の向こう、微かに砂煙が見えた。アヴィの瞳に、炎のような光が宿る。
「フィーネ……!」
(国境など越えさせない。君を失ってしまったら、私は――!!)
アヴィはただ、最愛の彼女をこの手に取り戻すことだけを願い、嵐のごとき速度で馬を疾走させた。




