35. 苛烈な炎
アヴィたちが寮の玄関ホールを出て中庭へ足を踏み入れたその瞬間、彼らの行く手を阻むように、一人の少女が切羽詰まったような表情で立ちはだかった。
「アヴィ様っ……!」
狂気と焦燥の入り混じった悲痛な瞳でそう言ってアヴィを見つめるのは、つい数刻前まで彼の最愛の婚約者の座に納まっていた娘――サラ・スレイヤー男爵令嬢だった。
薄桃色の髪も、紅色の瞳も、何一つフィーネとは似ても似つかない。なぜこのような娘を、自分は疑いもせず信じ切っていたのか。
アヴィは自分自身に対する怒りと嫌悪で吐き気がした。
「……何の用だ」
アヴィは苛立ちを隠すこともなく、低い声で告げる。彼にとって、一分一秒がフィーネの運命を左右するこの状況で、こんな忌々しい娘の相手をしている余裕など欠片もない。
その冷徹な視線と言葉を受けて、サラの視界は、絶望で激しく歪んでいた。
(……嘘、嘘よ……! アヴィ様との繋がりが、私たちを繋いでいた記憶の楔が、本当に跡形もなく消え去っているというの……!?)
数分前、自室の姿見の前で髪を整えていたサラの頭に、冷ややかな魔女の声が響いた。
『――あらあら。哀れなこと。あの王子とのお人形遊びはこれでおしまいのようよ?』
「ロベリア様……? どういうことですか?」
何を言われたのか、サラはすぐには理解できなかった。
野外演習以来、アヴィがどこかよそよそしくなっていたことには気づいていた。試験や公務を言い訳に、何日もまともに会ってさえくれず、構ってもらえない。夜会の日により深く、魔女が彼の記憶を塗りつぶしたはずなのに、なぜ――そう思っていた。
だが、まもなくあのフィーネはレイム帝国の王太子に嫁ぐ。そうすれば、今度こそ何を心配する必要もなく、アヴィは自分だけのものになる。
そう思っていた矢先での、突然の魔女からの絶望の宣告だった。
『あの王子、自力で呪いを引きちぎったみたいね。……言ったでしょう? 王子自身の、あの小娘への執着は異常だって。』
「そんなっ……そんなの嘘! 私を愛していると、何度も言ってくださったのに……! 貴女だって、完全に記憶を書き換えたと、仰っていたじゃないですか!」
『ふふ、私が完璧に施した呪縛を、あの王子は己の強靭な意志と――あの小娘が遺した光の残滓のおかげで無理やり引きちぎったのよ。せっかく用意してあげた、最高の絶望のシナリオを壊されたのは、反吐が出るほど不愉快だけれど……。まあいいわ。さあ、どうするの? このままあの小娘を追いかけさせて、お前はまた、誰からも顧みられないあの暗闇へ逆戻りかしら?』
回想の中の、嘲笑うような魔女の言葉を振り切るように、サラは大きく首を振ると、目の前のアヴィを見据えて金切り声で叫んだ。
「……行かないでください! せっかく手に入れた私と貴方の幸せを、またあの女に邪魔されるくらいなら――!」
「っ……!」
そのサラの身勝手な言葉が、アヴィの逆鱗に触れた。記憶が戻ってから、彼の中で募り続けていた苛立ちが、一気に破裂せんばかりに膨れ上がる。
「……誰と……誰の幸せ、だと……?」
甘く優しい普段のアヴィの声とは全く違う、低く怒りに満ちた声。そのあまりの威圧感にサラは一瞬動きを止めた。
「……誰が、邪魔をした、だと?」
荒れ狂う彼の心の中を表すかのように、アヴィの周囲で膨大な彼の魔力が揺らめく。
「――それは、こちらの台詞だ! 私とフィーの幸せを、貴様が踏み躙ったのだろう!」
「なっ……!」
「フィーを……私の大切な婚約者を苦しめた罪、その身で贖ってもらう!」
アヴィが右手を前に突き出すと同時に、彼の周囲の大気が爆発的に駆動した。王族の血脈に眠る最高純度の火の魔力が超高密度に凝縮され、眩いばかりの紅蓮の炎球と化してサラへと襲いかかる。
サラは反射的に、両手を前に翳した。彼女の前に、光をも飲み込む漆黒の闇の障壁が出現し、アヴィの炎を受け止める。凄まじい爆風が周囲の木々を揺らした。
「……どういうことだ。学術科のはずの貴様が、なぜそんな魔法を……。それに、この禍々しい冷気……」
アヴィが眉を顰めた瞬間、その背後から剣を構えたまま駆け寄ったウィリアムが小声で彼に告げる。
「……殿下、お気をつけください。スレイヤー男爵が引き取ったサラは、隣国リトルディアの元公女で、高魔力の持ち主です。おそらくは、魔女の闇の魔力の残滓を借りることで、闇の魔法を展開しているものと思われます」
「……元公女……引き取った……そうか。学園では魔力がないように偽装していたというわけか」
ウィリアムからもたらされた断片的な情報と自身が持つ近隣諸国や王国内貴族の情報を基に、アヴィの聡明な脳内で、高速に目の前の娘の正体が……自身が把握していなかった事情が、組み立てられていった。
だからといって、手を緩めるつもりは一切ない。
容赦ない炎にじわじわと押し込まれ、サラが顔を顰める中、彼女の瞳の奥の奥、仄暗いルビー色の光だけは、不気味なほど冷ややかに凪いでいた。
サラの中に居座る『魔女ロベリアの精神』は、この不完全な依代である小娘がどうなろうと知ったことではないと、ただ冷笑を浮かべて成り行きを眺めている。
(私の描いた極上の余興は台無しにされた。けれど……この小娘の心が恐怖と絶望で完全に壊れてくれるなら、それはそれで好都合だわ。お前の自我が消え、この器を私が完全に掌握できれば――もう回りくどい精神干渉など必要ない。私がこの手で直接、あの王子も、あの光の魔力を持つ小娘も、忌々しいシルベスターの国ごと、力ずくで滅ぼしてやるまでよ)
ほくそ笑む魔女の思いも知らず、サラはアヴィを繋ぎ止めることに、アヴィは目の前の障害を排除することに、それぞれすべての執念を注ぎ込んでいた。
「――魔女の魂を持つ者、と言っていたか。今の貴様がどちらであれ、五体満足でいられると思わないことだ。原初の時代のように、封印などという生ぬるい手段で終わらせるつもりはない」
そう言ってアヴィがさらに一歩前に出た。その全身から立ち上る魔力は、先ほどとは比にならないほど膨れ上がっている。
「その魂を含めた全存在を、塵一つ残さずこの世界から消滅させてやる」
そう言い放ったアヴィの顔には、一切の慈悲を削ぎ落とした、凄絶な笑みが浮かんでいた。
彼の脳裏には、あの日からのフィーネとのすれ違いの日々が去来していた。
何も知らずに駆け寄ってきた彼女を、他人のような冷たい目で突き放した日のこと。
ウィリアムに彼女の涙を拭う役目を奪われた日のこと。
夜会でルベールに彼女のエスコート役を許した日のこと。
(――私は、他の男が彼女の細い腰を抱き、すぐ目の前で踊るのを、ただ愚かにも眺めていることしかできなかった)
そして、シリウスの手によって馬車へと連れ去られる彼女を、指をくわえて見ていることしかできなかった、前期試験が終わった日のこと。
彼女が寮に戻るまでの数時間、胸を掻きむしるような焦燥感の正体すら分からずにいた、自分のあまりの情けなさ。
思い出すだけでも腸が煮えくりかえる思いがした。
「私からフィーを奪おうとしたこと――地獄の底で、永遠に後悔するといい」
「……っ、何よ、フィー、フィーって……! 私のこと、愛しているって言ったのに!」
アヴィから放たれる圧倒的な神速の殺気に、サラが悔しさに顔を歪めて叫ぶ。
縋るように叫んだその言葉は、サラの魂の底からの悲鳴だった。呪いによる偽りの愛だと分かっていても、アヴィから向けられていた温かさだけが、大人たちの都合で振り回されてきたサラにとって、人生で初めて得られた居場所だったのだ。
アヴィを完全に失い、再び誰からも必要とされないあの冷たい孤独へ叩き落とされるという底知れない恐怖が、サラを半狂乱に突き動かしていた。
しかし、その悲痛な叫びですら、今のアヴィにとっては怒りを加速させるものにすぎない。呪いに操られていた間の自身の行動を盾にし、今なお都合よく縋りつこうとするサラの浅ましさに、アヴィの胸中で激しい憤怒が燃え盛る。
「――貴様とくだらない押し問答をする気はない!!」
アヴィの碧眼から完全に温度が消え去り、再び右手に魔力を込める。周囲の空気がジリジリと歪み、吸い込むだけで内臓が焼け付くような、凄絶な熱の圧力が中庭を支配した。
普段は完璧にセーブしていた、王族の血脈に眠る絶大な魔力。それを、アヴィは一切の手加減も躊躇いもなく、目の前の敵を確実に消滅させるためだけに冷徹に解放したのだ。
(嘘……嘘でしょう、アヴィ様……)
圧倒的な力の差を目の当たりにして、サラが絶望的な恐怖に包まれる中、その意識の奥底にいる原初の魔女は、戦慄するどころか、数百年ぶりに出会う極上の余興に、歪んだ歓喜を抱いていた。
(ふふ……やるじゃない。ただの人間が、あの小娘への執着だけで私の呪縛を引きちぎり、これほどの熱量を顕現させるなんて。本当に、面白いわね……!)
サラが本能的な恐怖から一歩後ずさろうとするが、それをアヴィが見逃すはずもない。
「……逃がすものか」
アヴィが低く呟き、指先を軽く振る。刹那、サラの周囲の空間そのものが捻じれるように転移し、彼女を取り囲むように全方位から巨大な紅蓮の烈火の檻がそびえ立った。
「ひっ、熱い、熱いぃぃ!!」
アヴィの容赦ない業火に包まれ、闇の障壁が炭化していく中、サラが涙と恐怖を浮かべて絶叫する。
「嫌、嫌ぁぁ!! やめて、アヴィ様、私を見て! 私は貴方の婚約者よ! 私は……私は価値のない存在なんかじゃない、そんなのじゃないの!!」
絶叫するサラの意識の奥底で、魔女ロベリアは、肉体が受ける熱量も絶望もすべて依代の精神に押し付け、焦るそぶりすら見せず、ただ冷ややかに笑い続けていた。
「……もうそこから逃れる術はない。その傲慢な魂ごと、自らの愚かさを呪いながら焼き尽くされるがいい」
アヴィが冷徹に指を鳴らすと、爆音とともに紅蓮の炎が渦を巻き、闇の障壁ごと、サラの儚い夢を無慈悲にゆっくりと焼き尽くしていく。
「――殿下!!」
その猛火の爆音を割って、中庭に多数の重々しい足音が響き渡った。あらかじめウィリアムが手配し、城から緊急派遣されていた、対魔導師用の特殊防具を身に纏った武装集団がなだれ込んでくる。
「……来たか」
「はっ! 宮廷魔導師団・対魔導師取締部隊長のジークと申します! 殿下、後は我々にお任せを!」
部隊長のジークがアヴィに向けて鋭く敬礼すると、背後に控えていた十数名の精鋭隊員たちが、アヴィの炎の檻を取り囲むように配置に就いた。
「これより魔力中和結界を展開し、その娘の力を無効化のうえ、王城の最深部の地下牢へと連行いたします! 殿下、どうかその炎をお収めください!」
アヴィの胸中には、未だ滾るような激昂が渦巻いており、このままこの手で跡形もなく燃やし尽くしたいという衝動が荒れ狂っていた。
だが、今この瞬間もフィーネを乗せた馬車は国境に向かって走り続けている。これ以上、一秒たりとも無駄な時間をかけている猶予がないことはアヴィにも分かっていた。
「……分かった。ならば、任せる」
アヴィは忌々しげに指を鳴らし、サラを包んでいた猛烈な炎を瞬時に霧散させた。
煤に汚れ、魔力を削られて地べたに頽れるサラを見下ろすことなく、アヴィはすぐさまウィリアムへと視線を向けた。
「ウィリアム、手配させた馬は!」
「すでに裏門に回させてあります! いつでも発てます!」
「行くぞ――待っていてくれ、フィー!」
二人は駆け出した。愛する人を取り戻すため、迫りくるタイムリミットの向こう側へと、嵐のように疾走を始めたのだった。




