34. 蘇る記憶
ウィリアムの痛切な問いかけに、アヴィの碧い瞳が困惑と動揺に激しく揺れた。
「私の、婚約者は……サラ・スレイヤー嬢……だろう……?」
脳の奥から反射的に導き出された名前を口にしながらも、アヴィの胸中には押し止めようのない強烈な違和感が渦巻いていた。
……本当に、そうだっただろうか。自分があれほどまでに愛おしく思い、何があっても守り抜くと誓った大切な女性は――本当に、そんな名前だっただろうか。
主君の瞳の奥に走った微かな亀裂を見逃さず、ウィリアムがさらに一歩踏み込み、その背を押すように声を絞り出す。
「殿下。どうか、心を強く持ってください。偽りの理に屈してはなりません」
「ウィリアム……?」
「真実の想いを、見失わないでください。貴方を信じ、どれほどの孤独の中でも、ただ一人で貴方を待ち続けていた『あの方』のためにも!」
(真実の、想い……)
(私を待ち続けていた、『あの方』……?)
心の中で、ウィリアムの言葉を幾度も反芻する。アヴィは無意識のうちに、自らの手のひらに押し付けられた、華奢なブレスレットを見つめていた。
その瞬間、不思議なことが起きた。先ほどまでサラの瞳と同じ紅色に見えていた石の色が、水面のように歪み、融解していく。剥がれ落ちた偽りの色彩の奥から、じんわりと、けれど圧倒的な存在感を持って、あまりにも懐かしい色彩が浮かび上がってきた。
「紫……アメジスト? この、色は――」
刹那、頭に直接楔を打ち込まれたかのような、凄絶な痛みがアヴィを襲った。
『小さくて、純度の高い魔石がいいんだ。色は……できれば紫と碧がいいな』
『なるほど。――様の瞳のお色と、殿下の瞳のお色ですね』
『ああ。碧の石には私の火の魔力を込めて贈ろうと思って。護身にもなるし、丁度いいだろう?』
それは、遠い昔――まだ自分が幼かった頃、婚約者へ贈る最初のプレゼントについて、信頼する老執事と笑顔で語り合っていた記憶の断片だった。
「うぁ、っ……!?」
「殿下!」
慌てて隣に駆け寄ってくるウィリアムの姿が、急速に歪んで遠ざかる。アヴィは割れそうな頭を両手で強く抱え込み、たまらず床へと膝をついた。
痛みで視界がチカチカと不規則に点滅し、周囲の色が白くぼやけていく。凄まじい耳鳴りが外界の音を完全に遮断し、ウィリアムが自分を呼ぶ声さえも水底から聞こえるかのように遠のいていく。
その真っ白な混沌の中で。
『――アヴィ様――』
不意に、澄んだ懐かしい声が頭の中に響いた。ストン、と心に空いた穴に収まるかのように、その声はアヴィの中に染み込んでいく。冷え切っていた全身の血が、一瞬にして熱を帯びて巡り始めるのを感じた。泣きたくなるほどに愛おしい、あの、声は。
「……あ……? 私は……今まで……何を……」
手が、震えた。堰き止められていた本物の記憶の濁流が、一気に決壊して全身を駆け巡る。
『こちらにいさせていただいてもよろしいでしょうか?』
『お傍にいられるだけで……私が、安心できるのです。』
『アヴィ様も、どうかお気を付けて』
次々と胸に去来する、心細そうに揺れる瞳。
はにかんだような優しい笑顔。
どんな時も真っ直ぐに自分へと注がれていた、純粋な愛情と信頼。
自分にとって、何よりも、誰よりも、大切な――。
「……フィー……?」
愛おしい、何よりも特別なその名前。
けれど、これまで何度も何度も呼んできたはずの彼女の名を口に出した瞬間、自分でも驚くほどの違和感に襲われた。
「……フィーは……どこだ……!?」
震える身体を強引に起こし、辺りを見回す。いつもなら、自分が顔を上げればすぐに、優しい笑みを浮かべてそこに立ってくれていたはずの彼女の姿が、今はない。
嫌な汗が、背中を伝った。
「ウィリアム! 彼女は……フィーはどこにいる!?」
目の前に佇む侍従に、掴み掛かるように叫んだ。
ウィリアムは、今にも涙を零れさせそうな、けれどどこか救われたような瞳で、しっかりと主君を見つめ返した。
「……ご記憶が、お戻りになったのですね」
「きお、く……?」
アヴィが呆然と呟くと、ウィリアムはそっと主の手を自分の胸元から外し、真っ直ぐに向かい合った。
「まずは落ち着いてください。今は記憶の統合で混乱されているでしょうが……事は一刻を争うのです」
◇◇◇
「殿下は、いえ、他の者達もですが、魔女に記憶を操作されていたのです」
「私の、記憶が……?」
「今は、どこまで覚えていらっしゃいますか?」
じっと見つめられて、少しずつ冷静さを取り戻し、アヴィは自分の記憶を探った。
私の名はアヴィ・シルベスター。シルベスター王国の第一王子であり、次期王位継承権者だ。八歳の時、母が催した茶会で出逢ったフィーネ・グランドールと婚約している。十八歳になって学園を卒業したら、国王補佐として本格的に国政の中枢に携わることが決まっており、それと共に彼女と結婚する予定で、今はそれに向けて学業の合間に国王の政務の一部を手伝っていたはずだ。
つい先日も、過去の事例調査のために図書館に籠っていたら、フィーネがずっと傍にいてくれた。待ち疲れて眠ってしまった彼女の横顔がたまらなく愛おしくて――……それから?
過去の記憶を遡ることは容易だった。だが、あの休暇前の日に思考が差し掛かった途端、脳髄が烈火で焼かれるような激痛が走る。
(違う……先日じゃない。あれは、もう……数ヶ月前の出来事だ)
その事実を正しく認識した瞬間、アヴィは全身から血の気が引くのを感じた。自分のものでありながら、到底自分のものとは思えない「悍ましい記憶」が、確かに自分の中に刻まれていたからだ。
(あの休暇が明けた日から、私はどうしてか、男爵令嬢のサラ・スレイヤーを婚約者として扱っていた……。いや、私の頭の中で、フィーネの存在が魔法のようにそっくりそのまま『サラ』という女にすり替わっていた。私だけではない、父上も、周囲の人間も……彼女の両親ですら、だ。そして……)
アヴィは震えながら自分の両手を見つめた。
「……私、は……」
フィーに――誰よりも愛しい人に、酷い言葉を投げつけた。
『誰の許しを得て、私の名をそのように気安く呼んでいる』
『私の名を親しく呼ぶことが許されているのは、両親と弟妹、私の唯一の婚約者であるサラ、そして親友たるウィリアムのみだ』
『ただの同級生だろう。それ以上でも、それ以下でもない』
「あぁぁ……っ、私は……なんてことを……!」
なぜ、彼女にあんな言葉を吐く事ができたのだろう。フィーの絶望に染まった表情を、自分は確かに見ていた。
◇◇◇
「フィーネ様は魔法を意図的に使うことはできませんが、その血筋に極めて貴重な『光の魔力』を宿していらっしゃいました。それゆえに、魔女の闇の魔法を受けずに済んだのです。……だからこそ、誰よりも孤独に苦しまれることになってしまいましたが」
「他ならぬ私自身が……彼女を傷つけていたのだな……」
「……結果としては」
苦虫を噛み潰したような表情で頷くウィリアム。操作されていた間の記憶はすべてアヴィの意識にも残っている。弁解の余地など、どこにもなかった。
誰よりも守りたかった大切な女性を、自分自身が追い詰め、踏みにじっていたことに、アヴィは死にたくなる程の絶望を感じていた。
「……ですが、フィーネ様だったからこそ、まだ間に合う可能性があります」
「……フィー、だったから?」
「フィーネ様だから――あの方が記憶を失っていなかったから。今もまだ、彼女の新たな婚約の正式な手続きは完了していません」
ウィリアムの言葉に、アヴィははっとしたように顔を上げた。
「殿下の記憶がいつか必ず戻ると信じて……できる限り引き延ばしてくださっていたのです」
「私を……待って……いてくれたのか……」
記憶の中のフィーネの柔らかな笑顔が、アヴィの胸を過る。愛おしさで、涙が滲んだ。
「……ですが、もう猶予はありません。魔女の手は隣のレイム帝国にまで及び、我が国との均衡を無理やり崩しにかかっています。フィーネ様は、国に不要な戦火を招かないため、自らが人質となる形でレイムの王太子へ嫁ぐ決断を――」
「ああ、分かっている。すべて分かった」
アヴィの瞳から涙が消え、代わりに底知れない冷徹な光が宿る。
完全に思い出した。あの後の、思い出したくもない忌まわしい日々の記憶も、大切な婚約者が数々の男達に言い寄られていた光景も、先日父王がグランドール公爵に彼女の人質としての輿入れを求めていたことも。
心優しい彼女が、誰よりも民を思う彼女が、断れるはずなどない。それでも――。
「彼女は、今どこに?」
凍りつくような真剣さで問う主に、ウィリアムは右拳を左胸に当て、最敬礼の姿勢で答えた。
「予定通り、昼前には引き渡し場所である国境の砦へ向けて、公爵夫妻とともに出発されたはずです」
「昼前……一時間ほど前か……」
ちらりと窓の外へ視線をやれば、太陽は既に中天へ昇り、真上から光を落としている。砦で帝国の馬車に彼女が引き渡され、国境を越えられてしまえば、一国の王子といえども手出しは極めて困難になる。
「ギリギリ間に合う、か……? いや、何としても間に合わせる。今すぐ発つぞ」
「っ! はい!」
アヴィは即座に近くにいた執事へ「裏門に最速の駿馬を二頭用意させろ!」と怒号に近い指示を飛ばす。その手配が整うわずかな時間すら惜しむように、アヴィとウィリアムは示し合わせたように同時に身を翻し、肩を並べて寮の部屋を飛び出した。
――しかし、運命はそう容易く彼らを通しはしなかった。




