33. 託された想い
王立高等学園、図書館の三階。
静まり返った薄暗い自習スペースの席で、アヴィは開いたページの同じ行を、もう一時間以上もただ見つめ続けていた。
文字を目で追うことはできても、その意味が、一字たりとも脳の奥へと入ってこない。それどころか、思考を少しでも動かそうとするたびに、こめかみに鋭い痛みが走り、頭の中が真っ白に塗り潰された。
「……くっ、……」
アヴィはたまらずペンを置くと、深く頭を抱え、机に肘を突いて窓の外へと力なく顔を向けた。
南向きの窓から差し込む昼前の強い陽光が、アヴィの明るい金髪を眩しくきらめかせる。だが、ガラスの向こうに広がる景色を、彼の碧い瞳は何も捉えていなかった。焦点の合わない瞳で、ただ虚空を見つめ、放心している。
――グランドール嬢が、レイム帝国の王太子の側妃として、近いうちに輿入れする。
その国家決定を王城で耳にしたあの日から、彼の世界は決定的に狂い始めていた。
……行かせてはならない。
そんな思いばかりが、幾度となく心の中を巡っている。思い出すのはあの野外演習の日。崖の上で、彼女を失いかけたあの瞬間、アヴィの心臓は確かに一度止まったのだ。あの日から、彼女を誰の手にも渡したくないという強烈な独占欲が、彼の胸を焼いて離さなかった。
ましてや、その輿入れ先が、かつて自分に剣や馬を教えてくれた、兄のように慕っている帝国の王太子ランドルフだということが、なおさら彼の心を苛んでいた。
その上、側妃などという不遇な立場で、彼女を他国へ送り出すなど――想像するだけで、息が詰まるほどの拒絶感が胸を締め付ける。
何が何でも引き留め、自分の手の届く場所に繋ぎ止めなければならない。魂の最奥で、獣のような凶暴な衝動が、檻を叩き壊さんばかりに猛り狂っている。
だが――そうして『彼女』に思考が傾いた刹那。脳の奥深くで、冷酷な理性が警報を鳴らすのだ。
――私はサラを愛している。サラこそが、私の唯一無二の婚約者だ。
絶対的な事実とともに思い出されるのは、幼い日のサラとの純粋な約束。
『大丈夫、私は何があってもずっと君の傍にいるよ』
不安に苛まれ、震える彼女に自分はそう誓ったはずだ。あの言葉に一滴の嘘もなかった。一生をかけて彼女を守り抜くと決めていた。
それなのに、なぜ自分は今、別の少女に対して、これほどまでに心を乱されているのか。
絶対的な義務感と、甘く作られた『偽りの記憶』が、強制的に割り込んでくる。そして、白金の髪を持つ少女への執着を、冷酷な『無関心』へと強引に書き換えようとするのだ。
激しい頭痛の波が再び押し寄せ、アヴィはたまらずこめかみを押さえて目を瞑った。
彼がそうして、窓際でただ一人、凄絶な脳内の葛藤に耐えて、自習スペースで俯いていた、まさにその時。
図書館の下、石畳の道を、白金の髪の少女が静かに通り過ぎ、ふと足を止めてこの三階の窓を見上げていたことなど、アヴィは知る由もなかった。
彼女が胸の前でぎゅっと両手を握り締め、届くはずのない「最後の祈り」を捧げ、そして静かに踵を返して去っていったその瞬間も、アヴィはただ、脳裏を埋め尽くそうとするサラの偽りの笑顔を必死に振り払おうと、己の震える右手を虚しく見つめているだけだった。
――最悪の『タイムリミット』が「まさに今日この瞬間」であり、彼女が今、この国を去ろうとしていることなど夢にも思わないまま、太陽が天頂に昇る頃。
アヴィはこれ以上図書館に留まることもできず、重い足取りで男子寮の自室へと戻った。
◇◇◇
明かりも点けず、静まり返った部屋。
アヴィは机に向かい、持ち帰った本を広げた。せめて読書に没頭することで、こめかみを灼く激痛と、胸をかきむしるような焦燥から意識を逸らそうとしたのだ。
しかし――やはりどれほど目を凝らしても、並んだ文字は無意味な記号のようにただ上滑りしていく。
アヴィがたまらず、本の上で深く両手で頭を抱え、痛みに耐えていたその時――。
バタン、と。
静かな室内に、いつになく乱暴な扉を開く音が響き渡った。
「――殿下」
いつになく強張った表情で現れたウィリアムの姿に、アヴィは頭を抱えていた手をゆっくりと下ろしながら顔を上げた。
「うん……? どうかしたかい、ウィリアム。そんなに血相を変えて」
「……お渡ししたい物が、ございます」
ウィリアムは硬い声でそう言うと、上着の胸ポケットから、フィーネに託されたあのブレスレットを取り出し、アヴィの机の上へと静かに置いた。
「……これは……」
それを見た瞬間、アヴィの碧色の瞳がわずかに見開かれた。胸の奥が、説明のつかない嫌な高鳴りをあげる。
「見覚えが、おありですか?」
「あ、ああ……。これは……昔、私がサラに贈った物だね」
――やはり、記憶はすり替わったまま。
あまりの理不尽さと、主君の歪められた認知に、ウィリアムはギリッと奥歯を噛み締めた。拳が白くなるほどに握り込まれる。
「だが、どうしてこれをお前が?」
「……殿下にお返ししたいと、ある御方から託されました」
「何? ある御方って……まさか、サラが――」
ウィリアムの尋常ではない雰囲気に、アヴィが不審そうに眉を顰める。
「スレイヤー嬢などではありません! グランドール公爵令嬢、フィーネ様からです!」
「グランドール嬢、から……?」
その名を聞いた瞬間、アヴィの頭痛が激しさを増した。脳の奥を針で刺されたような痛みに、思わず眉間を押さえる。
「思い出してください、殿下! このままでは本当に、すべてが手遅れになってしまいます!」
両手を机につき、ウィリアムがアヴィに迫るように言い募る。
「何を……何を言っているんだ、ウィリアム。グランドール嬢が私にこれを返す理由なんて……」
「先ほど、フィーネ様は国境での引き渡しを見届ける公爵夫妻とともに、国境の砦へ向けて発たれました! あちらで帝国の使者に引き渡されてしまえば、二度と、この国には戻られません! 本当に、よろしいのですか!?」
藁にも縋るような、剥き出しの叫びだった。このまま捨て置いてしまえば、フィーネは本当に帝国の冷たい大地へと囚われてしまう。そうなれば、二度と彼女を救い出すことなどできなくなる。
「…………先、ほど――?」
突きつけられた事実に、アヴィは息を呑んだ。掠れた声は喉に張り付き、呼吸の仕方すら忘れたように硬直する。そんな主の様子に、やり切れなさを抱えてウィリアムは唇を噛んだ。
「……っ、とにかく、こちらは殿下がお持ちください!」
ウィリアムは半ば強引に、アヴィの頼りない右手を掴むと、その手のひらにブレスレットを押し付けた。
その、瞬間だった。
「っ……ぅ、ぐ、っ!?」
ブレスレットの、細かな装飾石にアヴィの指先が触れた途端。アヴィの口から、悲鳴にも似たうめき声が漏れた。
「殿下!?」
「ウィ、ウィリアム……? これ、は……一体、何、だ……?」
アヴィの顔から瞬時に血の気が引き、脂汗が額を伝う。その切羽詰まった様子に、ウィリアムも目を見開いた。
アヴィはブレスレットを壊れ物を扱うように握り締めながら、狂いそうな頭痛に耐えるように頭を抱え、激しく呼吸を乱している。
「殿下! どうなさったのですか!?」
アヴィは胸元を強く掴むようにして、掠れた声を絞り出した。
「いや……これを、手にした途端……身体に……妙な感覚が……」
ウィリアムの視線が、ふとアヴィの手元へと注がれる。そこにあるブレスレットの紫色の石が、まるでアヴィの心に呼応するように、微かに、けれど確かに淡い光を放っていた。
もしや、という仮説がウィリアムの脳裏を過る。
フィーネは言っていた。「いただいてからずっと、肌身離さず身に着けていた」と。それはつまり、八歳から今まで……およそ九年間に渡って、このブレスレットは彼女の持つ光の魔力を、絶え間なく浴び続けていたということ。
その力が――その光の残滓が、このブレスレットの石にこそ、宿っていたのだとしたら――。
「殿下……ご記憶に……変化はございますか?」
震える声で、ウィリアムが問う。
彼の脳裏には、先ほど裏庭で、涙を堪えて微笑んだ彼女の、あまりにも哀しい横顔がリフレインしていた。
『こうなってしまった以上……アヴィ様も、私のことなど、このまま思い出さない……方が……』
心を壊しかねない絶望を与えるくらいなら、忘れている方がいいと、自分に言い聞かせていた彼女の痛々しい瞳。
(……そんなはずがない。最も愛する人の記憶を失ったままで、殿下が幸せになれるはずがない。そんなものは、幸福でもなんでもない……!)
かつて、お互いを見つめ合って、世界で一番幸せそうに笑っていた二人の姿が、ウィリアムの脳裏にくっきりと映し出される。
(魔女の思惑通りになどさせない。二人の大切な記憶を、絶望の象徴になどさせない。決して手遅れになど――させるものか)
ウィリアムは拳を強く握り締め、祈るように、そしてアヴィの魂を揺り動かすように、一言一言を重く紡いだ。
「殿下。貴方の心が本当に求めているのは、誰ですか。……貴方の本当の婚約者は、一体どなたですか……!?」
アヴィにかけられた闇の魔法――内的干渉は、光の魔力だけでは解除できない。
だが、フィーネの光の魔力によって闇の魔法の力が弱まった今なら、アヴィ自身の強い意志が――ずっと胸の奥で渦巻いていた狂おしいほどの焦燥が、魔女の呪いを引き千切ることができるかもしれない。
その思いが、ウィリアムに希望を与えていた。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
次回、いよいよアヴィが記憶を奪い返し、フィーネを取り戻すために動き出します。 闇の呪いに抗い、大切な存在を取り戻そうとする彼を、一緒に見守っていただけますと幸いです。
もしアヴィを応援したくなりましたら、ぜひブックマークや下部の評価(★)をいただけますと、今後の怒涛の展開を書き上げる最大のエネルギーになります!
次回更新(本日夜に投稿できるよう、鋭意執筆中です!)も、どうぞ楽しみにお待ちください!




