32. タイムリミット
カチャ、カチャ、と、どこか遠くの部屋から、荷物を梱包する慌ただしい音が響いてくる。
レイム帝国への輿入れの打診を受け入れてから数日。グランドール公爵邸は、嵐の前の静けさと、どこか落ち着かない喧騒が同居する、異様な空気に包まれていた。
父から再び呼び出しを受けたフィーネは、重い足取りで屋敷の廊下を歩いていた。歩みを進めるごとに、彼女の胸の奥を、冷たい塊がじわじわと圧迫していく。
かつてシリウスとの縁談を前にしたときは、体調不良や学業の忙しさを言い訳に、先延ばしにすることもできた。けれど今回は、一歩間違えれば国家間の戦争に発展しかねない、文字通りの『人質』としての輿入れ。これ以上の時間稼ぎなど、公爵令嬢としての立場が、そして迫りくる現実が許すはずもなかった。
人質として嫁ぐことは、貴族家に生まれた者の責務として、納得はしている。だが、最後の最後――アヴィとの決別の覚悟だけが未だできないまま、フィーネは父の執務室の前で立ち止まり、静かに扉をノックした。
「……入りなさい」
扉の奥から響いたのは、苦悶に満ちた父の声だった。フィーネは小さく深呼吸をして心の震えを鎮めると、意を決して扉を開いた。
「失礼いたします」
ドレスの裾をそっと摘まみ、完璧な作法で一礼して室内へ入る。
重厚な書斎机に両肘を突き、組んだ手の上に顎を乗せたジェラルドの姿。向けられた眼差しには悲しみと申し訳無さが垣間見える。
だが次の瞬間にはその感情を消し去り、冷徹な瞳で娘を見据えていた。目の前にいるのは、娘を愛する父親ではない。グランドール公爵家を率いる「当主」の顔だった。
「……呼び立てた理由は分かっているな?」
「……はい」
「レイム帝国への輿入れの件だ。正式な日取りが決まった。明日の昼前に発つ」
有無を言わせぬ圧を孕んだ声が、静まり返った部屋に落ちる。そんな父の姿を見て、フィーネは「ああ、もう本当に逃げられないのだ」と悟った。
彼女はきゅっと唇を噛み締め、視線を床へと落とした。拳を握り締め、爪が手のひらに食い込む痛みに耐えながら、絞り出すような声で呟いた。
「……承知いたしましたわ。すぐに出立の準備をいたします」
それは今度こそ、フィーネにとってのアヴィとの完全な決別を意味していた。返答を終えた直後、フィーネは取り繕うことも忘れ、飛び出すように父の書斎を後にした。
「……すまない、フィーネ。……本当に、すまない……」
残された部屋で公爵は不甲斐ない自分の拳を机に叩きつけた。
◇◇◇
フィーネは溢れ出てくる涙を拭うことすらできず、自室へ駆け込んでベッドへと身体を沈めた。
「お、お嬢様!? どうなさったのですか!」
背後で扉が閉まる音と同時に、専属侍女のジーラが心配そうに駆け寄ってくる気配がした。だが、今のフィーネにはそれに応えるだけの気力が残っていない。
「……一人にして。お願い、誰も入れないで」
枕に顔を埋めたまま拒絶を示すと、ジーラはそれ以上踏み込んでこなかった。ただ、部屋の入り口のあたりで、痛ましそうに佇む気配だけがしばらく残る。やがて、諦めたような小さな溜息が、静かに部屋の外へと消えていった。
静寂が戻った部屋で、フィーネはゆっくりと仰向けになり、ぼんやりと豪奢な天蓋を見上げた。視界が涙で滲み、世界の輪郭が歪んでいく。
「……アヴィ様……」
幾度となくその唇で紡いできた、最愛の人の名。
初めて彼を名前で呼んだ時、彼は本当に嬉しそうに、けれどどこかくすぐったそうに、顔を綻ばせていた。あの愛おしい表情が、今も鮮明に脳裏に焼き付いている。
(もう、本当に呼ぶこともできなくなるのね……)
あのすべてが変わった日、彼の前から存在を消され、名を呼ぶことすら禁じられた。それでも、いつかきっと呪いを解き、もう一度お互いの名を呼び合える日が来ると信じていた。
だが、他国の、それもレイム帝国の王太子の側妃となってしまえば、二度と彼に会うことなど叶わない。万が一、外交の夜会などで顔を合わせることがあったとしても、それは「グランドール公爵令嬢」ではなく「レイム帝国の夫人」としてだ。今とは決定的に、立場も、世界も違ってしまう。
(私にできることは……もう、何もないのかしら)
人質としての輿入れを受け入れるしか道がない自分が、最後に彼にしてあげられること。
『殿下がいつか呪いに打ち勝ってお戻りになった時、もしフィーネ様が他の誰かのものになってしまっていたら……あの方の受ける絶望は計り知れません』
『最愛の婚約者が他の男のものとなり、自身もまた好いてもいない――王妃になどとても相応しくない愚かな娘と契った後で、すべての真実を思い出したら……あの王子は一体どんな顔をするのかしらね?』
かつてウィリアムがかけてくれた言葉と、先日、魔女が地下室で邪悪に笑いながら言い放った言葉が、重なるように耳の奥で不吉に反響する。
――自分が他国へ嫁ぎ、アヴィとサラが婚姻を結んだその瞬間。本当に、魔女はアヴィに、すべての真実を思い出させるのだろうか。
愛していたのが誰であったのか。その相手を自らの手で突き放し、他国へ――他の男の元へと追いやってしまったのだという、耐え難い事実を。
そうなった時、彼の心は、どれほど引き裂かれ、血を吐くような絶望にのたうち回るだろうか。
何もできない無力な身で、せめて、魔女の罠によって彼に訪れる『心が壊れかねない絶望』を、少しでも和らげる方法があるとするならば――。
◇◇◇
父に承諾の返事をした翌日の早朝。フィーネは出立前の人気のない学園の裏庭に、ウィリアムを呼び出していた。木々の隙間から差し込む木漏れ日が、彼女の悲痛な横顔を照らす。
「申し訳ありません、ウィリアム様……」
深く頭を下げたフィーネに、ウィリアムは悔しそうに拳を握り締め、唇を噛んだ。
「そう、ですか……。公爵閣下も、もう抑えきれなかったのですね……」
「はい。ですが、お父様は十分に戦ってくださいました。これまで引き延ばしてくれただけでも、感謝すべきなのです」
そう告げるフィーネの瞳には父への敬愛が籠もっていた。
「……ウィリアム様も、本当にありがとうございました。私やアヴィ様のために、危険を顧みず懸命に動いてくださって」
「フィーネ様……っ」
「もう、よいのです。こうなってしまった以上、アヴィ様も私のことなど、このまま思い出さない……方が……」
気丈に振る舞おうとするものの、言葉の語尾がかすかに震えた。
……嘘だ。アヴィの記憶から消えたままなんて、本当は嫌だ。覚えていてほしい。たとえ二度と結ばれることのない運命だとしても――それでも、互いを想い合っていた記憶だけは、忘れないでいてほしい、そう願ってしまう。
でもそれは、魔女の思惑通り、彼に耐え難い絶望を与えるのと同義だ。
そんなどちらも望めないフィーネの内心の葛藤を感じ取ったのか、ウィリアムはかける言葉も見つからず、痛ましげに顔を歪める。
フィーネは悲しみを堪えるように一度強く目を閉じると、右手をそっと胸元に当てた。
「……アヴィ様とともに過ごした時間は、確かに私の中に残っています。この大切な記憶まで魔女に奪われなかっただけでも、私は幸運だったのでしょう。私には、もう何もできませんが……ウィリアム様。アヴィ様を……どうか、これからも傍で支えて差し上げてください」
「……はい。この命に代えましても」
フィーネの遺言とも取れる言葉を噛みしめるように、ウィリアムは重く、深く頷いた。
「それから……」
そう言って、フィーネは傍らに置いていた鞄へゆっくりと手を伸ばした。しかし、一瞬躊躇うように、その動きを止める。
「……」
「……フィーネ様?」
急に黙り込んだ彼女を心配してウィリアムが声をかけると、フィーネは今にも泣き出しそうな、それでいてどこか清々しい泣き笑いのような表情を浮かべ、右手に持っていたものを差し出した。
「これを、どうかアヴィ様に」
「……これは……」
彼女の白い手のひらに乗せられていたのは、一通の手紙と、見覚えのあるブレスレット。金の細い鎖に、アヴィの瞳と同じ碧色の石と、フィーネの瞳と同じ紫色の石が、交互に繋がれたものだ。
「アヴィ様への手紙と……昔、私たちが婚約した時にいただいたブレスレットです。もしもあの魔女の言う通り、アヴィ様がいつかすべての真実を思い出す時が来たなら……どうか、この手紙をお渡しください。他国へ嫁いだ身では、もうあの方をお傍で支えることも叶いません。でもせめて、真実を知って壊れそうになるかもしれないあの方のお心を、少しでもお慰めできれば、と」
「フィーネ様……」
受け取ろうとするウィリアムの指先が、かすかに震えている。それを見届け、フィーネはどこか寂しげに、けれど静かに微笑んだ。
「ブレスレットは、いただいてから一日たりとも欠かさず、お守りのように身に着けていたものです。でも、他の方と婚姻を結ぶ以上、これを持っていくわけにはまいりません。ですから……アヴィ様にお返ししようと思います。他の贈り物はすべて公爵家に置いていきますが、こちらは特に思い入れの強い物でしたから。せめて、アヴィ様のお手元に置いていただきたいのです」
愛おしそうに、そして名残惜しそうに碧色の石を見つめるフィーネの瞳には、かつてアヴィと過ごしたすべての幸福な時間が映っているようだった。
ウィリアムは、そのブレスレットを手紙ごと、両手で恭しく受け取る。壊れ物を扱うように、静かに。そして、彼女に向かって深く頭を下げた。
「……承知いたしました。このウィリアム・ドルマン、命に代えてもお預かりいたします」
◇◇◇
ウィリアムと別れた後、フィーネは重い足取りで最後になる学園の敷地内の風景を、目に焼き付けるようにして歩いていた。静まり返った廊下に、彼女の足音だけが寂しく響く。
(今日で、本当に最後なのね……)
卒業式を待つことなく、自分は今日、この学園を去る。
入学したあの春には、想像すらしていなかった未来だ。アヴィと共に歩み、共に国を支えていく未来を、一瞬たりとも疑ったことなどなかったのに。それがまさか、卒業の資格すら得られず、他国へ半ば人質のような形で嫁ぐことになるなんて。
(身の程知らずな幸せを望んだ、罰が当たったのかしら……)
パキリ、と足元で枯れ枝が折れる音がした。
フィーネは小さく息を吐き出し、ゆっくりと顔を上げた。目の前には、二人で何度も通った思い出深い図書館が、いつもと変わらぬ佇まいで聳え立っている。
(アヴィ様……)
吸い寄せられるように視線を上げた先――図書館の三階、いつもの特等席の窓辺に、陽光を浴びてきらめく金色の髪が見えた。
(今日も……そこにいらっしゃるのですね)
切ない愛おしさが胸に込み上げ、自然と口元が綻ぶ。最後に一目だけでも彼の姿を見たいという独りよがりな願いを、神様は奇跡のように聞き届けてくれたらしい。
窓の向こうの彼は、当然こちらに気づくはずもない。それでもフィーネは、胸の前でぎゅっと両手を握り締め、届くはずのない祈りを捧げた。
「どうか……どうかお健やかに。私の愛した、大切な王子様……」
たとえ、どれほど過酷な運命があの方を待ち受けていようとも。どうか彼の心が壊れてしまわないように。その碧い瞳から、光が失われてしまわないように。
それが、彼女が国を発つ前に残した、最後の祈りだった。




