31. 北方の脅威
フィーネたちが魔女と対峙してから数日後、シルベスター王国の玉座の間において、激震が走る報告がなされようとしていた。
第一王子であるアヴィは、父王が腰掛ける玉座の傍らに、第一王位継承者として毅然とした佇まいで控えていた。
朝から重苦しい空気が支配していた玉座の間。重臣たちが固唾を呑んで見守る中、国王は苦渋に満ちた表情で、静かに、けれど重々しく口を開いた。
「皆に集まってもらったのは他でもない……北方のレイム帝国が、国境付近で不穏な動きを見せているらしいのだ」
その言葉が玉座の間に響いた瞬間、居並ぶ重臣たちの間に、弾かれたような動揺が走った。
レイム帝国といえば、圧倒的な軍事力を誇り、侵略を繰り返す北方の大国。
我が国とは不可侵条約を結んでいるはずだったが、それが今、最悪の形で破られようとしているというのだ。
(……ランディ兄さん……なぜ、急に……)
アヴィの脳裏に、かつて剣や馬を教えてくれた、豪快で裏表のない帝国の王太子ランドルフの姿が過る。
共に国を背負う者として、未来を語り合ったあの言葉は嘘だったのか。不可侵の約束も、彼らにとってはただの紙切れに過ぎなかったというのか。
「陛下、まさか奴らは正面から攻め込んでくるつもりで……?」
「……正面衝突は避けねばならん。そこで、先方からある条件が提示された。……不可侵条約の継続と引き換えに、特定の令嬢を、帝国の王太子の側妃として差し出すように、とのことだ」
その言葉の持つ意味に、重臣たちから一斉に不快そうな声が漏れる。
一人の重臣が、眉を顰めて進み出た。
「つまり、人質、ですか……。しかし陛下、それならば本来、我が国の第一王女であられるレイア姫殿下を差し出すのが筋では? なぜ王家でもない他家の令嬢を――」
「……ならぬのだ。先方は、明確に『グランドール公爵家の娘』を名指しで要求してきている。……フィーネ嬢を、だ」
その名を耳にした瞬間。
アヴィの心臓が、冷たい氷の棘で直接貫かれたかのようにドクンと暴虐な音を立てて跳ね上がった。
(……グランドール嬢、だと? なぜだ? なぜ、グランドール嬢なんだ……?)
一瞬で全身の血液が逆流していくような錯覚。レイアならいいわけではない。大切な妹を売り渡すなど、アヴィの兄としての矜持が絶対に許さない。
だが、それならば、なぜ。
王女でもない、アヴィにとってはただの「同級生」に過ぎないはずの彼女を、帝国が、あのランドルフが、名指ししてまで求めてくるのか。
(なぜ、よりによって、自分が今、この胸が引き裂かれるほどに気になって仕方がない彼女を、大国が奪おうとする……?)
「っ、う……ぁ、あ……っ」
考えようとした刹那、脳髄を直接灼かれたような、凄まじい激痛がアヴィを襲った。
世界の前提が、彼自身の脳内の記憶が、そして「サラを愛している」という感情そのものが、根底からひび割れて崩壊していくような、強烈な吐き気と脳内の葛藤。
アヴィは顔面蒼白になりながら、必死で片手で頭を押さえ、隣にある玉座のひじ掛けへと縋るように手を突き、どうにか身体を支えた。
「アヴィ!? 大丈夫か! ウィリアム、アヴィを別室へ!」
「は、はいっ!」
父王が焦燥に満ちた声を上げ、控えていたウィリアムが即座にアヴィの肩を支える。
だが、朦朧とするアヴィの歪んだ視界の中で、それ以上の悲劇が起きていた。
――ガタァン!
「ジェ、ジェラルド殿!?」
アヴィを支えていたウィリアムの視線の先で、フィーネの父であるジェラルド・グランドール公爵が、衝撃のあまり顔色を完全に失い、床へと崩れ落ちていた。
国王は、我が子の異変に、そして生涯の友であり忠臣であるグランドール公爵の絶望的な姿に、これまでにないほど痛ましげに顔を歪めた。
玉座を降り、崩れ落ちた公爵の元へと歩み寄ると、国王はその肩にそっと、詫びるように手を置いた。
「……すまない、ジェラルド。本当に、すまない……」
「陛下……」
ウィリアムに肩を支えられ、意識が混濁していく中で、アヴィはただ、遠のく視界の先にある、グランドール公爵の絶望に打ちひしがれた背中を、見つめることしかできなかった――。
◇◇◇
「……レイム帝国の王太子殿下と、ですか」
急遽学園から呼び戻されたフィーネは、屋敷の執務室で、父から告げられた決定を静かに受け止めていた。
「ああ。あまりにも急な話で、我々もまだ状況を完全には把握できていないのだが……」
「……国を守るための、人質として行くのですね」
「……すまない、フィーネ。私の無力ゆえに、お前をそんな恐ろしい場所へ……!」
ジェラルドの悲痛な表情と涙に、フィーネはそっと目を伏せた。
間違いない。これはあの魔女が裏で糸を引いた策略だ。アヴィと自分を永遠に引き裂き、逆らえないようにするための、冷酷な罠。シリウスとの婚約では飽き足らず、フィーネを敵国に、人質としての惨めな人生に追いやろうとしている。
フィーネが拒めば、アヴィが将来治めるはずの、この美しい祖国が戦火に包まれることになる。
「……分かりましたわ、お父様。私がレイム帝国へと参ります」
自身の存在のせいで、多くの無辜の民を巻き込むわけにはいかない。そして何より、アヴィが命を懸けて守っていくこの国を、侵略などさせるわけにはいかなかった。
◇◇◇
(悔しい……本当に、自分が悔しくてたまらない)
自室に戻ったフィーネは、固く閉じた扉を背に溢れ出る涙を止めることができなかった。
己の無力さが痛いほど身に染みる。これまでずっと、彼女はアヴィという大きな存在によって守られていただけだったのだ。
彼が呪いによって一番苦しんでいる時に、何もしてあげられないどころか、魔女の策略によって国を追われることになる不条理に、胸が引き裂かれるようだった。
「本当に、私は甘えていたのね……」
鏡に映る自身の姿に、自嘲気味な笑みが漏れる。これまでどれだけの重荷をアヴィ一人に背負わせてしまっていたのだろうか。
かつて婚約が成立した際、周囲からの公の場での陰口がピタリと止んだのも、彼が裏で泥を被り、彼女を守ってくれていたからだ。彼女自身が現実から逃げていた分だけ、彼はどれほど孤独な戦いを強いられていたのかを思い知り、目元が熱くなる。
だが、今のフィーネはただ庇護されるだけの弱い存在ではない。アヴィを守るためなら、たとえ火の海であろうと飛び込む覚悟が、その紫の瞳には宿っていた。
◇◇◇
その頃、北方の軍事大国――レイム帝国の王宮では、王太子ランドルフ・レイムが自室の窓枠に片肘をつき、ぼんやりと中庭の訓練場を眺めていた。
(……あのフィーネ嬢が、俺の側妃……か)
思わず緩みそうになる頬を、彼は強靭な意思の力で引き締めた。
既に正妃がいる身でありながら、あの凛とした眼差しを持つ彼女を、人質同然の側妃という日陰の立場に引きずりこもうとしている。
その自らの行いが、どれほど卑怯で強引な、身勝手な執着であるかは百も承知だった。帝国の圧倒的な国力を盾に、歴史あるシルベスター王国に事実上の脅迫を行ったのだ。
そこまでする必要があったのかと自問自答もした。過去のシルベスター王国の夜会で出会った、己をそっと気遣ってくれた彼女の優しさと、ブレない芯の強さを感じさせる佇まい。そんな彼女が忘れられず、何度か求婚の打診も送ったが、シルベスター側からはなぜか色よい返事がもらえなかった。
だから、一度は諦めようとしたのだ。狂おしいほどの想いに蓋をして、自国内の高位貴族の令嬢を正妃として迎えた。正妃のことはそれなりに大切にしているし、夫としての義務も果たしてきた。
だが、かつてフィーネの眼差しを見た時のような、胸を焦がす熱い情熱は、湧き上がることはなかった。心の底では、ずっとフィーネを求めていた。
そして、最近になって風の噂で聞こえてきたのだ。彼女の婚約者がローゼンベルク侯爵子息に決まろうとしている、と。
(……我慢できなかった。彼女が、そんなどこの馬の骨ともしれない男に娶られるなど……)
せめて、かつて弟のように可愛がり、交流のあったシルベスターの第一王子であるアヴィが相手であれば、まだ祝福して身を引けたかもしれない。だが、見知らぬ男に彼女が奪われるという現実に、ランドルフの独占欲は限界を超えたのだ。
「彼女は……俺を恨んでいるだろうか」
こんな脅迫まがいのやり方で彼女を奪うつもりなど毛頭なかった。だが、そんなランドルフの隠れた執着と焦燥を見かねた両親が、「側妃として囲うだけであれば、交渉の余地はある」と、独断で軍を動かすかのような行動を起こし、あちらに圧力をかけた。
これでは、あの優しく穏やかな彼女に怯えられ、嫌われても文句は言えない。
「それでも……側妃という不遇な身分であろうと、彼女が俺の隣にいてくれるというのなら」
手段はどうあれ、手に入れた機会だ。これから一生をかけて、自分の本物の心を伝えていけばいい。いつか、彼女の凍てついた心が溶けるその日まで。




