30. 魔女の思惑
次の満月の夜。フィーネとウィリアムは魔導師団長であるクリスとともに、サラの実家であるスレイヤー男爵家を訪ねた。
「グランドール嬢、ウィリアム殿。決して私から離れませんよう」
原初の魔女と対峙するとあって、クリスの表情はかつてないほどに固い。二人を守るように背に庇い、彼らは一歩ずつ歩を進めていく。
人気がなく、留守かと思われたが、クリスが魔法で重厚な扉の鍵を解錠し、中に踏み入ると、地下室らしき部屋に続く階段を発見した。
階段を降り、その先の古びた扉を開けると、中には真っ赤な髪を靡かせた女性が立っていた。
(――サラ様? いいえ、あの色彩は……)
本来なら愛らしい薄桃色であるはずの彼女の髪は、今や禍々しい血のような赤へと染まり、その瞳はルビーのように妖しくギラついている。
「あの赤い髪……間違いありません、あの日の魔女です!」
クリスの隣で剣を構えていたウィリアムが叫ぶ。
「ふん、わざわざここまで来たのね」
魔女が鼻で笑いながら振り返る。その傍らにはスレイヤー男爵夫妻と思しき人間が倒れていた。
「……彼らに何をしたのですか」
フィーネが低く呟くと同時に、クリスは倒れている男爵夫妻の元へ素早く駆け寄り、その首筋に手を当てて魔力を探った。だが、すぐにその表情を戦慄に引き攣らせる。
「……精神が、完全に崩壊しています。過剰な闇の魔力に魂が耐えきれず、内側から焼き切られてしまったのではないかと……」
「ふふ。私の『操り人形』にされ続けたのだもの、人間の脆弱な魂が耐えられるわけがないわ。もう用済みだから、使い潰してあげたのよ」
悪びれもせず、煩わしそうに手を振る彼女にフィーネが唇を噛む。
「今の貴女は……サラ様ですか? それとも――原初の魔女本人ですか」
「どっちもよ、と言ったら?」
「それはありえません。サラ様と原初の魔女は、近しい存在かもしれませんが、同一人格ではないはずです」
フィーネの確信を持った言葉に魔女がピクリと眉を上げた。
「……サラ様は、アヴィ様に恋心を抱いていた。祖国に捨てられたことに、恨みを抱いていた。貴女は、そこに付け込んだのでは?」
「ふふ、ええ、そうよ。私に身体を貸せば、王子の婚約者の座も、将来の王妃の座も、全てお前のものにしてあげるって言ってやったら、簡単に信じてくれたわ」
嘲笑うような魔女の言葉に、フィーネの顔が歪む。
「……その言葉、本当に守ってあげるつもりはあったのですか?」
「まさか! そんなことあるわけないじゃない」
暗澹たる地下室のような空間で、魔女は狂気に満ちた笑い声を響かせる。両手を広げ、我を讃えよと言わんばかりに高らかに。
「あの男に、その子孫に、耐え難い苦痛を。奪われる苦しみを! 取り戻したくとも取り戻せない、手が届きそうで永遠に届かない、そんな生き地獄を味わわせてあげるわ。それこそが私の復讐なのだから!」
かつて自分の楽園を奪った者たちへの呪詛が、黒い魔力となってその場に揺らめく。
その瞬間、地下室を満たした悍ましいほどの重圧に、ウィリアムの身体が強張る。クリスは鋭い表情で一歩前に出ると、即座に杖を掲げ、彼らを包み込むように強固な五重の防御障壁を展開した。だが、魔女の放つ漆黒の魔力に触れたそばから、その障壁が悲鳴を上げるように融け始めていく。
「本来の婚約者の娘が別の男と結ばれ……第一王子もまた正式に偽りの妃を娶った暁には、記憶を戻してあげるわ」
「っ、なん……だと……!?」
魔女と対峙していたウィリアムが怒りで声を震わせる。魔女はクックッと愉しげに笑った。
「最愛の婚約者が他の男のものとなり、自身もまた好いてもいない――王妃になどとても相応しくない愚かな娘と契った後で、すべての真実を思い出したら……あの王子は一体どんな顔をするのかしらね?」
「っ……貴様……っ!!」
ウィリアムは怒りで全身の血を沸騰させ、握りしめた拳の爪が手のひらに食い込んで、血が滲むほどに奥歯を噛み締めた。
アヴィを誰よりも敬愛する彼にとって、それは死よりも残酷な、主の魂を粉々に破壊するための邪悪極まる所業に他ならなかった。
「――いい具合に精神が壊れてくれれば、これ以上に愉快なことはないわ。その後は抜け殻となった王子を私の傀儡にして、この国をもらい受けてあげるだけだわ。婚約者だった娘に私の魔法が効かなかったことは不愉快だけれど……まあいいわ。記憶を持ったまま、好いてもいない男にいいように弄ばれて、お前たちの心が絶望に染まってゆくのを眺めるのもまた一興よ」
あまりに惨たらしく、残忍な魔女の思惑。剣を構えたままのウィリアムから激しい怒気が溢れ出し、フィーネとクリスはあまりの残酷さに言葉を失う。
「このっ……、外道が……!」
「ははは! そうよ、もっと怒り、悔しがるがいいわ! それこそが私が数百年求め続けた果実。お前たちの苦痛に歪む顔こそが、私の待ち望んだものなのだから!」
魔女の狂気すら感じる笑いに、フィーネが堪らず声を上げる。
「そんなことをして、サラ様はどうするつもりですか!」
「……ふん、知ったことじゃないわ。己の分も弁えない小娘がどうなろうと……記憶が戻り、怒り狂った王子にその場で殺されようが、お前を他の男に売り渡した国王や公爵達とともに王国ごと滅ぼされようがね!」
魔女を信じて自分の身体を預けたサラを、冷たく身勝手に切り捨てる魔女の言葉に、フィーネの瞳が強い怒りに染まる。
「なんということを……!」
「まあ、私がこの身体にいる限り、死にはしないけれどね」
命だけは繋げたとしても、心が殺されてしまうのは間違いない。これだけのことをしたサラの弁護などする気はないが、それでもフィーネはやりきれなさを拭いきれなかった。
「……サラ様は今、どういう状態ですか」
「はあ? この身体の中で眠っているわ。聞こえちゃいないわよ」
その言葉から、やはり満月の日のみ魔女に支配権が移るのだと確信する。
「……なぜ、貴女はそんなにも、殿下にこだわるのですか」
「……何?」
フィーネは恐れを振り払い、毅然と叫んだ。
「殿下は……あの方は、貴女が恨んでいる過去の人物とは別人です!」
「……うるさい!」
「なぜ、今を生きるあの方が、このような理不尽な目に遭わなければならないのですか!」
魔女の力も、魔女の思惑も分かった。だが、納得はできない。なぜ、あんなにも優しい王子様が、こんなにも苦しめられなければならないのか。
「お前のような小娘に何が分かる! 私が受けた苦しみの深さを、その血脈の者が背負うのは当然の義務なのよ!」
憎々しげに吐き捨てる、その魔女の瞳には、罪悪感など露ほどもない。
「あの王子が王になるという結末は変わらない! お前が吠えているのは、自身が得るはずだった王妃の座を逃したからに他ならないでしょう!」
魔女はサラの声で、フィーネを挑発するように嘲笑う。その言葉は、魔女のものか、サラのものか。
「……そうですね、悔しいです」
フィーネは静かに絶望を受け入れるように呟いた。彼女の答えに魔女は一瞬動きと言葉を止め、そして笑い出した。
「っ、ふふふ、あははは! 本音がようやく出たわね! 所詮お前も王族の権力が――」
「アヴィ様の妻になれない事が、とても」
その飾らない、けれどあまりにも痛切な思慕の響きに、傍らで剣を構えていたウィリアムは、胸を衝かれたように小さく息を呑んだ。
「はっ、綺麗事を!」
「悲しい人ですね、貴女は」
フィーネの真っ直ぐな瞳が魔女を見据える。損得や見栄、権力への執着でしか人間を測れない魔女の孤独を、憐れむように。
「……誰にも心を開けず、孤独な日々を過ごしていた私を、優しく、根気強く励まし、日向に連れ出してくれたのはアヴィ様です。あの方がいなければ、私は今もずっと自分の殻に閉じこもるだけの、つまらない人生を送っていたことでしょう」
フィーネはきゅっと胸元を握りしめる。目を閉じれば、記憶の中からアヴィの優しい笑顔がいくつも浮かんでは消えていく。
(――ああ、私はこんなにも)
こんな絶望的な状況なのに、目の前には世界を滅ぼしかねない魔女がいるのに、彼を想うだけで胸の奥から温かい感情が溢れてくるのを止められない。
「……私は、救われていたのです。あの時からずっと」
「何を……っ!」
「私にとってアヴィ様は、恩人で、大切な婚約者で――」
滲む視界の向こうで、確かに最愛の彼の声が、聞こえた気がした。『フィー』と自分を呼ぶ、あの甘やかな声が。
「――この世界でたった一人、心から恋しいと思う御方ですわ」
フィーネの静かな、けれど真っ直ぐな告白に、魔女は心底不快そうに顔を歪めた。
「ふん、ほざくがいい。どんなにお前たちが抗おうと、私が術を解かない限り、闇の魔法は決して解けないやしないわ。唯一の希望はお前の光の魔力でしょうけど、まともに魔法を扱えない今のお前には、私の魔法を破るほどの魔力を集めることなど不可能な話よ。集め終えた時にはもはや――すべてが終わっているわ」
「……」
魔女の残酷な宣告に、フィーネは唇を噛みしめるしかなかった。協力者であるクリスからも、フィーネの微弱な魔力を魔石に蓄積させたとしても、この規模の闇魔法を解呪するには数年分の時間が必要だと告げられていたからだ。
数年後――その時まで世界が待ってくれるはずがない。時は無情にも流れている。自分がそれまで独り身でいられることも、アヴィが妃を娶らずにいられることもないだろう。
互いに婚儀を終えた身では、いくら記憶が戻ったとしても、再び共にある未来は望めない。それなのに、彼の記憶を取り戻させることに意味があるのか。彼に自分と同じ、いや、それ以上の苦痛を与えることになるだけではないのか。
「――だが、殿下は今の偽りの状態にずっと違和感を覚えておられる!」
黙り込んだフィーネを庇うように、ウィリアムが一歩前に出た。
「……何?」
魔女が鋭い視線をウィリアムに向ける。彼はその威圧を跳ね返すように言い放った。
「殿下は、貴様が思うほど脆い御方ではない。誰よりも聡明で、強い意志をお持ちだ。貴様が呪いを何度かけ直そうが、いずれご自身の力で打ち破ってみせるはずだ!」
「……本当に忌々しい小蠅どもね」
魔女の顔に明確な苛立ちが走る。
「そんなに諦めがつかないというのなら、そうせざるを得ないようにしてあげるわ」
「……なんだと?」
「楽しみにしているがいいわ。お前たちの希望が根底から叩き潰される瞬間をね」
そう言うが早いか、魔女は片手を振ると、フィーネたちを屋敷から叩き出した。




