28. サラの過去
前期課程の最後のイベントである試験が終わり、学園内の喧騒がいくらか落ち着きを見せても、フィーネの心に晴れ間が訪れることはなかった。
前期試験の最中、どうやら父公爵は裏で国王陛下にシリウスとの婚約の打診をかけていたらしい。
先日の野外総合演習の後、医療天幕で回復魔術師に診てもらい、フィーネの左腕と脇腹の傷自体はなんとかほぼ傷跡が残らないくらいに回復した。だが、流れた血がすぐに戻るはずもなく、数日間は公爵邸で療養し、その後は前期試験のため、学園の寮に戻っていた。
今回ばかりは特例として後日受験でもよいと学園から提案もあったが、フィーネは断った。あまり長く休むとシンシアたちが気に病むだろうと感じていたし、アヴィの記憶の件だって解決していない。のんびりベッドで休んでいる場合ではなかった。
だが、今回の魔獣事件を聞いた公爵は激怒し、他の班員の家と共に学園の不手際として抗議し、妙に過保護になってしまった。
(……さすがに自ら崖に身を投げて、魔獣と心中しようとしたことは伏せておいたけれど……)
父としてはおそらく、早々に娘を結婚させて、無茶をしないように落ち着かせたいのだろう。そのために、婚約は保留と言っていたのを反故にして、外堀を先に埋めようとしている――いずれにしてもよろしくない状況には違いない。
フィーネは試験の最終日、自分を食事に誘うためにわざわざシリウスが学園まで馬車で迎えに来た時のことを思い出す。
二人で食事など気が進まなかったが、父の許可を得ていると言われればフィーネに断る術はない。シリウスは、魔獣事件のことを父から聞き、居ても立ってもいられず、無事な様子を見るまで安心できなかった、と心からの心配と配慮をその瞳に浮かべていた。
だが、フィーネにとって、その気持ちに感謝と申し訳なさは感じても、やはりそれ以上に響くものではなかった。フィーネの心を揺さぶる存在はいつだってたった一人だ。
『――よせっ……、フィーネーッ!!』
『もう二度と、こんな真似はしないでくれ』
演習森林で死を覚悟したあの瞬間。響いた懐かしい声、現れた愛しい人の姿。夢だと思った。最期に自分の心が見せた、都合のいい幻なのではないかと。
だが、それは幻ではなかった。彼の記憶が戻ったわけではない。それでも、その瞳の奥には狂おしいほどの切なさと情念が揺らめいていた。自分を失いたくないと彼の本能が再び渇望していた。
(……まだ、諦めるのは早いわ)
フィーネは父やシリウスの婚約に関する話をあの手この手で先延ばしにしながら、その後もある人物の動向をじっと観察していた。
サラ・スレイヤー男爵令嬢。
アヴィの隣で、今も彼の最愛の婚約者として振る舞う彼女こそが、この歪んだ状況の鍵を握っていることは、もはや間違いなかった。
調査を進める中で、フィーネは一つの事実に辿り着いていた。サラは元々、シルベスター王国の隣国の一つである小国――リトルディア公国の出身らしい、と。
リトルディア公国と聞いて、一つ思い出したことがある。アヴィと出会った後、まだ婚約が成立する前の時期に催された賓客の歓迎パーティ。その時に滞在されていたのがリトルディアの大公殿下と、幼い公女殿下だったこと。その姫の髪が見覚えのある薄桃色だったことを。
◇◇◇
「……あの日も、こんな風にどんよりとした曇りの日だったわね」
学園の片隅で、サラはぼんやりと灰色の空を見上げていた。視線の先にあるのは雲に覆われた虚空だが、その瞳が見つめているのは遠い過去の記憶だった。
シルベスター王国を初めて訪れ、アヴィたちと出会った日。絶望と諦めの中で、自分の運命が大きく狂い始めた日の記憶だ。
サラは元々、リトルディア公国の大公家に連なる血筋だった。しかし、その出生は決して祝福されたものではない。
当代の大公は大変な好色家であり、後宮には国中から集められた美女が溢れ返っていた。サラはそんな美女たちの中でも異質な存在であった、魔導師の女から生まれた子供だった。
大公家に連なる子供は既に十人以上存在し、公子といえども長男から三男あたりまでを除けば、もはや民にさえ存在を認識されていない。
そんな中で生まれた公女など、他国との繋がりを作るための「道具」程度にしか期待されていなかった。少しでも国益になるよう他国の有力者に嫁がせるため、大公や大公妃は躍起になっていた。
例に漏れず、サラもまた年齢の合う周辺国の王子との婚約を画策されることになる。しかし、当時の国際情勢において、様々な条件を鑑みた時に、該当する婚約者のいない王子は、シルベスター王国の第一王子アヴィと第二王子カイルのみだった。
「なんとしてでも今回の訪問でシルベスターの王子の婚約者の座を射止めるのだ。我が国の未来はお前の双肩にかかっているからな」
実の父親からそう強く言い含められ、八歳だったサラは重い使命を背負って、大公や大公妃と共にシルベスター王国へと向かった。
初めて足を踏み入れたシルベスター王国の王都の空は、彼女の暗い心を見透かすかのように、重苦しい灰色の雲に覆われていた。そんな日中が過ぎ、歓迎のパーティーが催された夜のことを、サラは今でも鮮明に覚えている。
八歳といえばまだ一般的にはパーティに参加する年齢ではないが、今回はサラがいたため、同じ年頃の高位貴族の子女たちも集められていた。
シルベスターの第一王子であるアヴィは、息を呑むほどに美しい子供だった。サラ自身、挨拶を交わしながら思わず見惚れてしまうほどに、彼の存在は別格だった。
彼の親である両陛下の勧めもあり、サラはアヴィにエスコートされてダンスフロアへと進んだ。何曲かステップを踏んだだけでも、アヴィのリードは子供とは思えないほどに洗練されており、サラにとってはこれまで踊った誰とのダンスよりも心地よいものだった。ダンスの最中、いくつかの言葉を交わしたが、彼の応対には隙がなく、その顔には常に穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「アヴィ殿下はダンスがお上手なのですね」
「そうですか? ありがとうございます」
「今まで、こんなにダンスが楽しいと思ったことはありませんわ」
サラは精いっぱいの好意を込めて微笑みかけた。しかし、アヴィは何曲か相手をすると、「では、自分はこれで」とシルベスター国王夫妻に一言断りを入れ、すぐにサラたちの傍から離れていってしまった。
残されたサラは、たまらず国王夫妻に尋ねた。
「殿下はどちらへ行かれたのですか?」
「ああ……なに、婚約者の所へね」
シルベスター国王が目尻を下げて答える。その言葉にサラは愕然とした表情を浮かべる。
「婚約者……がいらっしゃったのですか?」
「ふふ、正確には婚約者候補、ですけどね。まだあの子の片想いなのですよ。ですが、一刻も早く顔が見たいのでしょうね」
微笑ましそうにアヴィの背中を見送る王妃の言葉に、サラの心は冷たく凍りついた。自分に向けられていたあの完璧な微笑みは、ただの外交的な仮面に過ぎなかったのだ。
そして、彼が先ほどまでのような作られた笑みではない、柔らかな笑みを浮かべている視線の先の相手――白金の髪を靡かせた愛らしい少女こそが、彼の想い人なのだ。
数日後、公国に待っていたのは冷ややかな現実だった。
「シルベスター王国の王家から、正式に断りの連絡があった」
「……そうですか」
大公からの通告に、サラは内心で自嘲気味に笑った。既にあれほど想う相手がいる男の心に、滑り込めるはずもない。
「今は他に潜り込めそうな国もない。お前の利用価値はなくなったわけだ」
実の娘を忌わしそうに見下ろす父親の目は、完全に冷めきっていた。
「……」
「その上で問おう。成人まで大公家で暮らして早々に年の離れた貴族の後妻に入るか、今すぐ下級貴族の養子に出されるか、どちらを選ぶ」
選択肢など、ないに等しかった。サラはただ、自身の血筋と運命を呪うことしかできなかった。
◇◇◇
サラは公国を捨てて養子に出される道を選んだ。
養父となったのは、皮肉にも将来あの王子が治める国――シルベスター王国の男爵である男だった。スレイヤー男爵夫妻には子がおらず、彼らは代々魔法研究を行う家系であったため、魔力の高い子供を求めていた。
そんな彼らにとって、魔導師の娘であったサラは、うってつけだった。そして男爵はサラの容姿を見るなり、歪んだ笑みを浮かべた。
(……原初の魔女の容姿に近い、赤みを帯びた髪、それに紅色の瞳か。悪くない)
いい実験動物を見つけた、とその表情が物語っていた。その歪んだ眼差しに激しい嫌悪感を抱いたが、守ってくれるような親ももはやいないサラには逃げる場所もない。
「今日からお前はサラ・スレイヤーと名乗れ」
「……はい」
感情を殺し、人形のように答えることで、不興を買わないように努めた。それが彼女の生きる術だった。
それからスレイヤー男爵の魔法研究に付き合わされるようになった。次第に分かったのは、この夫婦が国で禁忌とされる闇の魔法、そして原初の魔女の力に心酔しているということ。
サラの魔力を、その復活に利用しようとしているということだった。原初の魔女の容姿が、真っ赤な赤髪で、紅色の瞳だったとされることから、この娘には素養があると思い込んだらしい。
馬鹿馬鹿しい、と思っていたサラだったが、信じられない体験をするのはその数年後のことだった。
サラが十歳の誕生日を迎えた時のこと。サラの身体の奥底から、突如として「自分以外の記憶」が濁流のように流れ込んできたのだ。
まず脳内を埋め尽くしたのは、魂が焼き切れそうなほどの底知れない怒りと憎悪だった。
自分を陥れ、封印した男――ゲイン・シルベスター。しかし、その封印も永遠ではない。生まれ変わりを繰り返すうちに、魂に刻まれた呪縛は徐々に摩耗し、弱まっていた。今世ではとうとう闇の魔法を行使できるほどに。
元々、永遠の命を欲していた魔女は、自分の記憶が生まれ変わるたびに新しい身体に引き継がれるよう、自らの魂に特殊な魔法をかけていた。転生先で「十歳の誕生日」を迎えた瞬間、前世の記憶が全て覚醒するように。
そう、図らずもサラは、正しく原初の魔女の生まれ変わりだったのだ。こうして、リトルディア公国の元公女であり、スレイヤー男爵家の養女となったサラの肉体に、「原初の魔女」の意識が完全に宿ったのだった。
目覚めた魔女の力は、あまりにも規格外だった。サラを「実験動物」と呼び、冷酷にいたぶっていた義父母など、闇の魔法を前にすれば、羽虫も同然だった。
十歳のサラ――その内に宿るロベリアは、手始めに弱いサラを懐柔し、あの王子を手に入れ、シルベスター王国の王妃となる未来を得るよう唆した。
そして、その第一歩として、恐怖に叫ぶ義父母の精神を闇の魔力で直接支配し、自らに絶対服従する「忠実な下僕」へと作り変えてしまったのだ。
それ以来、スレイヤー男爵夫妻はサラを虐げることなど二度とできず、ただ彼女の望むままに、復讐の舞台となる王立高等学園へと通わせるためだけの都合の良い操り人形となった。
魔女の手によって、サラは「不自由な実験台」から、男爵家を裏から支配する「絶対的な女王」へと、一夜にして成り代わったのである。
◇◇◇
時は現在へと戻り、王立高等学園の裏庭にある湖のほとり。
サラとアヴィと二人でベンチに座り、他愛もないことを語り合っていた。
「サラ……」
不意に愛おしそうに名前を呼ばれ、サラは我に返った。隣に座るアヴィが、そっと優しく彼女の髪をかき上げ、その頬に熱い口づけを落とす。その手つきは、まるで壊れ物に触れるように優しく、温かい。
それはかつて、サラがどれほど望んでも手に入らなかったはずの、本物の情愛の籠もった眼差しだった。
(……あの女には、こんなにも優しい顔を見せていたのね)
魔女の呪いによって、アヴィの記憶における『愛する婚約者』の座に成り代わった今だからこそ、サラには分かってしまった。かつての自分は、本当に全く相手にされていなかったのだと。
あの歓迎パーティの時、どれだけ優しく扱われていても、そこに彼の心は一切存在していなかったのだと。
だが、そんな歪んだ形で手に入れた偽りの愛であっても、今のサラにとっては縋りつくしかない蜘蛛の糸だった。
サラは本気で信じていた。このままアヴィと結ばれ、シルベスター王国の王妃となり、自分を「利用価値がない」と捨て去ったあの冷酷な大公家を見返して、今度こそ温かな光の中で幸せになるのだと。
――自分が、魔女の残酷な「復讐の道具」として利用されているに過ぎないとも知らずに。
そろそろクライマックスに向け、色々な謎を回収しつつ、アヴィが完全に覚醒していくターンに入ります。
やや重い展開が続くので、気分転換に全然違うコメディっぽいお話を書いてみました。
気が向いたらこちらもお楽しみいただければ幸いです!
「風変わり令嬢の婚約破棄計画!(https://ncode.syosetu.com/n3048mr/)」




