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忘れられた公爵令嬢  作者: 結城 洋乃
第二部

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27. 伸ばしかけた手の行方

 激動の野外総合演習から一週間ほど経ったある日、アヴィは執務のために王城に戻っていた。


 あの日、演習森林の断崖絶壁で命を懸けて仲間を救ったフィーネの姿と、彼女を失うかもしれないと自覚した瞬間に脳を支配した、心臓が凍りつくような恐怖。

 アヴィはその時に感じた、身を引き裂くような衝動を一日たりとも忘れることができないまま、王城の執務室で、父である国王と共に果てのない政務に臨んでいた。


「陛下」


 午前中の長い審議会が一段落し、廷臣たちが退出していく中、静まり返った室内で改まった声が響いた。声をかけたのは、フィーネの父であるグランドール公爵だった。


「グランドール公爵か。どうした、何か奏上でもあるのか?」

「はい。些か私事ではあるのですが……我がグランドール家の長女――フィーネを、少々遅くなりましたが、然るべきお相手の下に輿入れさせたいと思っておりまして、そのご報告に」

「ほう、フィーネ嬢か。そう言えば学園の卒業も間近だというのに、彼女にはまだ婚約者が決まっていなかったのだったか」


 国王が不思議そうに豊かな髭を撫でながら応じる。その瞬間、傍らで議事録の整理をしていたアヴィの指先がピクリと跳ねた。


(――グランドール嬢の、輿入れ……?)


 その言葉が鼓膜を震わせた刹那、胸の奥からゾッと冷たい悪寒が背筋を駆け登り、本能が叫ぶようにドクドクと心臓が早鐘を打ち始める。


「……はい。まったく、親としてお恥ずかしい限りです。先の学園での野外演習での魔獣事件のことは陛下もお聞き及びでしょう。魔法も使えぬあの子があのような恐ろしい目に遭い、あわや命を落としかけたと聞いた時は、文字通り生きた心地がいたしませんでした」


 グランドール公爵の厳格なモノクルの奥の瞳に、隠しきれない痛ましさと焦燥が滲む。


 あの事件の後、学園長を含めた教官たちが、回復魔法による治療後、彼女やその班員たちを一人ひとり各家に送り届け、事件の顛末を家族に対して説明したと聞いた。いずれも高位貴族の子女だ、学園の不備だと烈火のごとく怒り狂う親もいたと言う。

 無理もない。治癒魔法で傷は塞がっていたとて、大量に失った血はすぐには戻らない。フィーネとルベールはその後数日間学園を休んでいた。ただ、現在は前期末の試験期間のため、本人たちの希望で復帰しているという。


「……あの子をこれ以上、守る盾もないまま危うい境遇に置いておくわけにはまいりません。一刻も早く、信頼できる者に託したいのです。幸いにも、本人の気性も教養もどこに出しても恥ずかしくありませんゆえ、早急に婚約を進めたく存じます」

「ふむ。親心というわけだな。……して、すでに良き相手は見つかっているのか?」

「ええ。ローゼンベルク侯爵家の長子、シリウス殿などいかがかと考えております」


 グランドール公爵が恭しく挙げた名前に、国王は満足そうに鷹揚に頷いた。


「おお、シリウスか! うむ、それは良い。あやつは若輩ながら頭脳明晰、文武両道の見所のある若者だからな。名門公爵家の娘の嫁入り先としては申し分なかろう。――なぁ、アヴィもそう思うだろう?」


 不意に話を振られ、アヴィはハッと我に返った。冷たい汗が背中を伝うのを隠し、慌てて完璧な王太子の微笑みを顔に貼り付ける。


「……ええ、全くその通りだと思います、父上。シリウス殿は次期法務大臣候補の筆頭ですし、私も国政の場で度々ご一緒しますが、その誠実な仕事ぶりには常に学ばせていただいております」


 それは偽りのない事実だった。六歳年上のシリウス・ローゼンベルクは、誰もが認める優秀な男だ。能力の高さを鼻にかけることもなく、謙虚で誠実な人柄は貴族社会でも高い人望を集めている。公爵令嬢であるフィーネの婚姻相手として、不釣り合いな点など何一つない。

 そう、理性のすべてが「相応しい縁談だ」と納得しているのに。


「では陛下、この婚約、お認めいただけますかな?」

「うむ、良きに計らえ。グランドール公爵家には、これから息子の代になっても、変わらず我が王室を支えてもらわねばならんからな」


 快活に笑う父王の横で、アヴィは一緒に笑うことなど到底できなかった。ただ心の奥底から競り上がってくるどす黒い感情を押し殺し、引き攣りそうになる表情を取り繕うだけで精一杯だった。


 ――一体、何なのだろう、この息苦しさは。


 胸をかきむしりたくなるような狂おしいほどの衝動が、アヴィの体内を激しい嵐のように吹き荒れていた。


◇◇◇


 数日後。学園の校舎に前期試験の終了を告げる重々しい鐘の音が響き渡り、緊張から解放された生徒たちがざわざわと騒ぎ始めた。

 アヴィもまた、机の上の教材を片付けて立ち上がる。試験期間の最終日である今日は、昼前ですべてのカリキュラムが終了となっていた。


「殿下。今日もこのまま王城へ戻られますか?」


 隣で荷物をまとめるウィリアムの問いかけに、アヴィは小さく息を吐いて首を振った。


「いや……今日は政務の予定もない。久しぶりにサラを誘って、サロンでゆっくりお茶でも飲もうかと思う」

「……そう、ですか」


 ウィリアムの声が、あからさまに低く沈む。まるで苦虫を噛み潰したかのようなその表情に気づきながらも、アヴィは気づかないふりをして微笑んだ。

 いつもなら、どれほど多忙であっても二日に一度は愛おしい婚約者であるはずのサラの顔を見に行っていた。なのに、ここ最近は何故だかどうしてもその気になれなかったのだ。とはいえ、一週間以上も彼女を放置するのは婚約者として不誠実だと感じていたし、彼女を不安にさせているのではないかと心配もしていた。


 けれど――一日も早く彼女と婚姻を結びたいと願っていた、あの胸を焦がすような熱情は、近頃完全に息を潜めていた。


「……あまり顔を出さないと、サラに忘れられてしまうからね」

「殿下を忘れるような不届き者が、この学園にいるとは思えませんが」


 ウィリアムの皮肉めいた呟きを受け流しながら校門へと向かっていたアヴィは、ふと、馬車ロータリーに停車している重厚な意匠と紋章の刻まれた馬車に目を留めた。


(……あの紋章は……)


「誰かの迎え……でしょうか。試験終わりに合わせてとは、熱心なことで――」


 ウィリアムが怪訝そうに呟いた直後、馬車の扉が開き、一人の端正な顔立ちの紳士が姿を現した。仕立ての良い上着を纏ったその姿は、アヴィやウィリアムにとっても見紛うはずのない人物だった。


(……シリウス……?)


なぜ彼がここにいるのか。シリウスはアヴィたちの視線には気づかぬ様子で、真っ直ぐにある方向を見つめ、大人の余裕を感じさせる極めて甘やかな笑みを浮かべた。


「フィーネ嬢」


 彼の低い声が紡いだ名前に、アヴィの身体が強張る。反射的にその視線の先を追えば、人混みから少し離れた場所で、教科書を抱えたまま戸惑ったように立ち尽くすフィーネの姿があった。白金の髪が、昼の光を浴びて淡く輝いている。


「……シリウス様。なぜ、貴方がこちらに?」

「先の野外演習で、貴女が大変な深手を負われたと公爵閣下からお聞きしました。……生きた心地がしませんでしたよ。すぐにでも駆けつけたかったのですが、試験期間中の学園は外部との面会を禁じており、閣下からも『本人の希望だから邪魔をしてはならない』と止められてしまい……今日という日を、今か今かと待ち侘びていたのです。まだ、お身体も万全ではないでしょう?」


 シリウスはそう言うと、心底から彼女を愛おしみ、案ずるような眼差しを向けた。その声音には、政略結婚の打算など微塵もない、本物の誠実な熱が籠もっている。


「身体に障らないよう、静かで温かいお食事を用意してあります。どうか、私に貴女を労う機会をいただけませんか」

「そのような……。わざわざお越しいただくほどのことではございませんわ。お気遣いは不要です」


 流れるような優雅な動作で、自然にフィーネの華奢な手を取るシリウス。その指先が彼女の肌に触れた瞬間、アヴィは無意識のうちに拳を限界まで握り締めていた。爪が手のひらに食い込み、鋭い痛みが走る。

 つい先日の、グランドール公爵と父王の会話が、急激に現実味を帯びて脳裏に蘇る。


(まさか、本当に二人は……もう、そういう関係に進んでいるのか?)


 あの模擬夜会の日、ルベールが彼女の手を引いた時以上の、狂暴なまでの胸の痛みがアヴィを襲う。今すぐあの男の手を払い除け、彼女を自分の背の後ろに隠してしまいたいという衝動が暴れ狂う。


「試験後ならばよいと、閣下には事前に許可をいただいております。どうか、私に貴女の時間を少しだけ譲っていただけませんか」

「父が……。そう、ですか……」


 明らかに気乗りしない様子で視線を彷徨わせていたフィーネだったが、「父親の許可」を出されると、逃げ道を塞がれたように小さくため息を吐いた。


「さあ、参りましょう。素晴らしい席を用意してあります」

「……はい。ありがとうございます、シリウス様」


 シリウスにエスコートされ、フィーネが静かに馬車の中へと乗り込んでいく。その扉が閉まる瞬間、アヴィは衝動的にその場から一歩、足を前へと踏み出しかけていた。全身が、あの二人を引き剥がせと、彼女をどこへも行かせるなと絶叫していた。


「殿下……」


 隣から、すべてを見透かしたような、それでいて酷く痛ましげなウィリアムの声がかけられ、アヴィはハッと正気に戻った。伸ばしかけた手を無理やり下ろし、自分の制服の裾を掴む。


「あ、ああ……いや、何でもない。行こうか、ウィリアム」


 引き攣る声をどうにか押し殺し、アヴィは遠ざかっていく侯爵家の馬車を、悔しげに見送ったのだった。


◇◇◇


 その後、男子寮へと戻ったアヴィは、結局サラを誘う気分などすっかり吹き飛んでしまい、自室の重い扉を閉めて引き籠っていた。ウィリアムが心配そうな眼差しを向けてきていたが、「少し試験の疲れが出た」と適当な理由を告げて下がらせた。今は、誰の顔も見たくなかった。


 アヴィは無意識のうちに、窓ガラスに額を押し付け、階下の景色を見下ろしていた。男子寮と女子寮は中庭を挟んで隣接しているため、ここからは女子寮の重厚なエントランスがよく見えるのだ。


(……何を気にしているんだ、私は……)


 自分自身の行動に呆れ、自己嫌悪に陥りながらも、どうしてもその場所から視線を外すことができない。彼女が――グランドール嬢が、あの男の馬車から降りて無事に帰ってくるのを見届けなければ、胸の動悸が一生収まらないような、奇妙な強迫観念に囚われていた。


 どれほどの時間が経っただろうか。やがて、静かな石畳にガラガラと小気味良い馬車の音が響き、女子寮の前に一台の馬車が停車した。


 扉が開き、先に降りてきたのはやはりあの男――シリウスだった。彼は流麗な仕草で振り返ると、馬車の中へ向かって恭しく手を差し出す。その手を取り、ゆっくりとステップを降りてきたのは、アヴィが狂おしいほどに待ちわびていた白金の髪の令嬢だった。


(……グランドール嬢)


 彼女はシリウスに向かって柔らかく微笑み、何やら丁重に礼を述べて頭を下げている。

 それなりに、楽しい時間を過ごしたのだろうか。出発する前のあの強張った様子に比べ、帰ってきた彼女の表情には、明らかにシリウスに対する微かな気を許した色が見えた。

 その僅かな変化が、アヴィの心を容赦なく締め付けた。


(そんな顔を、しないでくれ……)


 ギリリ、と頭の芯に響くほどの力で奥歯を噛み締め、カーテンを握る拳を白くなるまで締め上げる。やり場のない焦りにも似た苛立ちに、どうしていいのか分からなかった。


 シリウスが再び馬車に乗り込み、去っていくのを見届けた後、フィーネは踵を返して女子寮の奥へと消えていった。

 壁の時計に目をやれば、出発してから一時間と少し。本当に、言葉通り昼食を共にしただけの手短な帰着だった。その事実にある種の手放しがたい安堵を覚えつつも、同時に、そんな些細なことで一喜一憂している己に対する強烈な苦い思いが広がる。


 ――私は一体、どうしてしまったのだろう。


 今まで一度だってサラ以外の女性に心を傾けたことなどなかったというのに。明らかに今、自分はフィーネ・グランドールに普通ではない感情を抱いていた。



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