26. 届かぬ問い
「はぁっ、はぁっ……!」
運動がそれほど得意でもないフィーネにとって、怪我を負った状態でのいまだかつてない全力疾走は、文字通り地獄のような苦しみだった。自ら切りつけた左腕の感覚はとうに麻痺して消え去り、ただ激しい疲労と失血による眩暈が視界を歪める。
それでも足を止めるわけにはいかない。立ち止まった瞬間に魔獣に捕獲されるのが、肌で分かっていた。地面に流れ続ける自分の血と、その鉄の臭いにつられて、魔獣が狂ったように自分を追い続けているのが分かる。
目的の場所まで、あと少し。巨木が乱立するエリアを、フィーネは進路を細かく変えながら必死に駆け抜けた。魔獣はその巨体ゆえに急な方向転換が追いつかず、行く手の巨木をなぎ倒し、衝突するたびにわずかに失速を余儀なくされている。
その衝突による減速だけが、彼女に残された唯一の救いだった。それでも、人間の足と獣の圧倒的な跳躍力とでは、あまりにも分が悪すぎた。
ガサァッ!
すぐ傍の茂みから強烈な風圧が迫り、フィーネは戦慄した。
(……まずい!)
本能的に飛び退いた瞬間、鋭い牙を剥いた魔獣の頭部が茂みから飛び出してきた。辛うじて直撃こそ躱したものの、巨体の衝突に伴う衝撃が、フィーネの右脇腹を激しく抉った。
「あぐっ……痛、い……!」
地面を転がり、あまりの激痛に顔を歪める。しかし、魔獣はすぐに体勢を立て直し、無防備に横たわるフィーネを見下ろしてその顎を大きく広げた。
(――間に合わない……!)
食い殺されることを覚悟したフィーネは、せめて最期の瞬間を見まいと、震える左腕で顔を覆った。じっとりと生温かく、荒々しい息遣いと、死の足音がすぐ耳元にまで迫った――その瞬間。
――ゴォォォウウウンッ!!!
「ギャアァァァァウウウッ!?」
鼓膜を破らんばかりの爆発音と共に、魔獣の凄惨な悲鳴が響き渡った。
恐る恐るフィーネが目を開けると、視界の先で、魔獣が激しい紅蓮の炎に包まれ、のたうち回っている光景が映し出された。
「な……何が、起こったの……?」
呆然とするフィーネの視界の中で、キラリと光った左手首のブレスレット。アヴィの瞳と同じ、あの鮮やかだった碧色の石が、今はその力を使い果たしたかのように、くすんだ色合いへと変色している。
(石の色が……。まさか、今のは……)
ブレスレットの贈り主であるアヴィの魔法属性は『火』。そして今、自分を救ったのもまた、圧倒的な威力を誇る『炎』の障壁だった。その因果関係を考えれば、答えは一つしかなかった。
(……アヴィ様からの、護り石だったのね)
今の今まで気付いていなかった。冷たく突き放され、世界中から忘れられて、ずっと孤独だと思っていた。けれど、アヴィの想いはいつだって、自分の傍にあったのだ。
フィーネは、こんな絶体絶命の状況だというのに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを止められなかった。
「グルルルルッ……!」
のたうち回っていた魔獣が、力任せに炎を振り払おうともがく不気味な咆哮に、フィーネはハッと意識を戻す。
(……いけない!)
魔獣の耐性がどの程度かは分からないが、さすがに変異種の特級魔獣だ、今の反撃だけで完全に仕留めることはできなかったらしい。
けれど、十分な時間稼ぎにはなった。今のうちに、少しでも距離を取るべきだ。フィーネは痛む身体に鞭を打ち、本来の目的地に向けて再び走り出した。
◇◇◇
右脇腹の負傷により、フィーネの足取りは確実に限界を迎えていた。しかし、魔獣の方も先ほどの炎のダメージで動きが鈍くなっており、辛うじて捕まることなく逃げ延びていた。
(あと、少し……!)
演習前に叩き込んだ地形図の記憶が確かならば、この先にあるのは――。
視界が一気に開けた。そこにあったのは、切り立った巨大な断崖絶壁。眼下には、まるで無数の槍を逆さに突き立てたかのように、鋭く尖った木々の枝が、奈落の底から天を睨んで生い茂っていた。
「ガルルルルッ!」
背後から、逃げ場を失った獲物を確信した魔獣の咆哮が響く。もはや躊躇している時間など一瞬すらなかった。フィーネは意を決し、真っ直ぐに魔獣の瞳を見据えた。
「――貴方には、ここで終わってもらいます!」
魔獣が勝利を確信し、その巨体をバネにしてフィーネへと飛びかかってくる。その最高打点を見極め――フィーネは自ら、崖下の虚空へと身体を躍らせた。
「――よせっ……、フィーネーッ!!」
身体が重力に従って落下していく刹那、自分の名を狂おしく叫ぶ声が鼓膜を震わせた。その懐かしい声に、フィーネは落ちゆく感覚の中で、ゆっくりと目を開けた。
「……アヴィ……様……?」
驚愕に目を見開くアヴィの姿に、フィーネもまた信じられないものを見たかのように目を瞬かせる。
「くっ……『燃え上がれ、炎よ』!!」
アヴィが引き裂かんばかりの声で叫び、両手を掲げる。瞬間、彼の手元から放たれた猛烈な紅蓮の渦が、空中で魔獣の巨体を完全に包み込んだ。
「ウィリアム!!」
「はいっ! ――『大気の奔流よ、吹き荒べ』!!」
アヴィの怒号と同調するように、ウィリアムの放った二条の巨大な竜巻が天空を舞った。一条の風は魔獣の巨体を容赦なく崖下の遥か彼方へと吹き飛ばし、もう一条の優しい風の檻は、落下していたフィーネの身体をふわりと受け止め、崖の上へと急速に巻き上げていく。
芝生の上に静かに降ろされ、フィーネはその場にへたり込んだ。
「グランドール嬢! 無事か!?」
「フィーネ様!」
凄まじい勢いで駆け寄ってきたアヴィが、なりふり構わずフィーネの両肩を強く掴んだ。ウィリアムもまた、安堵と緊張の入り混じった顔で傍らに跪く。
「……なぜ、お二人が、こちらに……?」
「こちらの台詞だ! なんて無茶な真似を……! あと一瞬遅ければ、本当に命を落としていたところだぞ、分かっているのか!?」
アヴィの声は、怒りと、それを遥かに上回る恐怖で激しく震えていた。両肩を掴む手の強さに、フィーネは思わずびくりと身体を強張らせる。
「も、申し訳ありません……」
「君が……君が死んでしまうかと思って、私は……!」
アヴィは突然声を詰まらせると、そのまま崩れ落ちるようにして、フィーネの肩口に自身の額を押し当てた。
「で、殿下……?」
「君は、どうしていつも……」
フィーネの肩に額を押し付けるようにして顔を隠すアヴィ。
「あ、あの、殿下?」
「……すまない。君が謝る必要などないことは、分かっているんだ」
肩越しに、苦渋に満ちたアヴィの低い声が響く。
「君の判断は何一つ間違っていなかった。手負いの仲間を確実に救うための行動として、誰一人として君を責める権利などない。……それでも」
アヴィはゆっくりと顔を上げ、至近距離でフィーネの紫の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その碧い瞳には、言いようのない切なさと情念が揺らめいている。
「もう二度と、こんな真似はしないでくれ」
「殿下……」
「お願いだ……。私の、心臓がもたない……」
王族としての矜持すら投げ捨てたような、懇願するアヴィの眼差しに、フィーネは俯いた。
「……はい。申し訳ありません」
◇◇◇
「――さあ、殿下。そろそろフィーネ様をお離しください。早く手当てをしなくては」
「あ、ああ。そうだったな」
ウィリアムが冷静に割って入ると、はっとしたようにアヴィが声を上げた。そうして、フィーネの身体に視線を向ける。
追いかけている時から気付いていた、彼女が負ったであろう深い傷。彼女の右脇腹は魔獣の爪に抉られ、左腕の裂傷からはいまだ赤黒い血が流れ続けている。
アヴィは痛ましげに眉を顰めると、自身の上着の布を迷いなく引き裂いた。実戦慣れした手際で、まずは脇腹の傷を、次いで左腕の傷を素早く圧迫して縛り上げる。
「っ……!」
「痛むか?」
「……いえ、大丈夫、です」
顔を歪めながらも、気丈に微笑もうとする彼女の姿に、アヴィは胸の奥に何とも言えない感情が広がっていくのを感じた。他人に心配をかけまいと振る舞おうとする彼女のいじらしさが、どうしようもなく愛おしくて、放っておけない。
「この腕の傷は……自分で?」
「……はい。魔獣を引き付けるには……血の臭いが有効かと思いましたので……」
小さくなる声で答えるフィーネに、アヴィは唇を噛み締める。
普通の令嬢ならば、自ら自分の腕を切りつけるなんて、絶対にできないはずだ。それに、身体の傷は今後の婚姻やあらゆる社交の場面に致命的な影響を及ぼす。それなのに、彼女は仲間を救うためにすべてを投げ打ったのだ。
「……早く戻って回復魔法をかけさせよう」
◇◇◇
『あなたには、ここで終わってもらいます!』
そう言い放った彼女の瞳が、脳裏からどうしても消えない。
死の恐怖を前にしてもなお、真っ直ぐに魔獣を見据えていた、強く気高い紫の瞳。自分の身の危険も顧みず、仲間を守るために行動するその姿が、書き換えられた記憶の壁を激しく叩き、誰かのシルエットと重なった。
それと、もう一つ。
崖に向かってひた走っていた最中に響いた、あの爆音と火柱。
あれは間違いなく、自分と同じ系統の炎の魔力だった。なぜ、あんな所で自分の魔力が発現したのか。心当たりがあるのは、昔、サラに贈ったブレスレットに込めた護身用の魔力くらいだが……。
「君は……一体、誰なんだ……?」
アヴィはくしゃりと金髪をかき上げ、演習森林の冷たい空に向かって、届かぬ問いをぽつりと呟いた。




