25. 焦燥の追跡
夕刻が近付いていたその頃、アヴィたちの班は、演習森林の中央地区の奥深くで最後のチェックポイントをクリアし、戻る準備を始めていた。
巨木が鬱蒼と生い茂る東地区とは異なり、ごつごつとした頑丈な岩肌が随所に剥き出しになっているこのエリアは、見通しこそ良いものの、本部の置かれた森林の入り口からはかなり離れた場所に位置している。
「アヴィ様、今日の活躍も素晴らしかったです! 私、アヴィ様の魔法をこんなに近くで見られて、本当に幸せです」
「ああ、ありがとう、サラ。無事に終わってよかったよ」
サラに穏やかな微笑みを返しつつ、アヴィは歩を進めていた。だが、中央地区から東地区へと緩やかに繋がる小道を通りかかった時――アヴィは不意に足を止めた。
進行方向の少し先に、教官たちが待機する木製の簡易監視テントがある。通常なら、巡回を終えた教官たちが穏やかに生徒たちの様子を見守っているはずの場所だった。
しかし、今のテントの様子は、明らかに異常だった。テントの周囲では、数名の見回りの担当教官たちが血相を変えて武器を手に取り、中からは何かを怒鳴り散らすような緊迫した声が漏れ聞こえてくる。
「……教官たちの様子が、妙に物々しいな」
アヴィが眉を顰め、異様な胸騒ぎを覚えて隣のウィリアムを見やる。ウィリアムもまた、鋭い藍色の瞳をテントへと向けていた。
「殿下、少々様子を見てまいります。教官たちの動き……尋常ではありません」
「ああ、頼む」
ウィリアムが気配を消してテントの陰へと近づいてから、ものの数分。
駆け戻ってきたウィリアムは、かつてないほど血相を変え、表情を強張らせていた。
「大変です、殿下! フィーネ様が……グランドール嬢の班が!」
「……っ、何があった!?」
ウィリアムの異常な慌てように、アヴィの顔に緊迫が走る。ウィリアムは一つ息を吐いて続けた。
「教官たちが、本部と通信していました。グランドール嬢の班が向かった東地区の最奥で、本来いるはずのない特級魔獣が出現したそうです。襲撃の直後、グランドール嬢が機転を利かせて魔導端末から本部に緊急の第一報を入れたそうですが、直後に激しい魔力干渉が発生し、通信も位置情報の発信も完全に途絶したと……!」
「特級魔獣だと……!?」
その言葉を聞いた瞬間、アヴィの脳裏に、かつて同行した『討伐遠征』の生々しい光景が蘇った。
強い魔力を有するシルベスター王家において、王族の男子は若いうちから騎士団や宮廷魔導師団の遠征に同行し、実戦を通じて指揮能力と戦闘経験を養うことが義務づけられている。アヴィ自身もすでに幾度もの実戦をくぐり抜け、上位魔獣を屠ってきた経験があった。だからこそ、特級魔獣が「騎士や宮廷魔導師の精鋭たちが、死力を尽くしてようやく倒せる国家災害」であることを、現場の簡易テントにいる中堅の教官たち以上に理解していた。
「教官たちの本隊は入り口(本部)から急ぎ救援に向かおうとしていますが、あちらから東地区の最奥までは距離がありすぎます。今からあのテントの教官たちが先発隊として向かうにしても、これでは……!」
「……ならば、私たちも行くぞ、ウィリアム!」
「え、で、ですが相手は特級魔獣です! 殿下を危険に晒すわけには――」
「中央地区の奥にいる私たちの方が、圧倒的に現場に近い! それに、実戦の空気なら私も知っている。私の火の魔法なら、時間稼ぎくらいはできるはずだ。行くぞ!」
驚愕するウィリアムを一喝し、アヴィは傍らのサラを振り返った。
「あ、アヴィ様……!?」
「すまない、サラ。私は第一王子として、生徒会長として、生徒を見捨てるわけにはいかない」
「で、でも……!」
「先に戻っていてくれ。……サラを頼む」
同行していた剣術科の仲間にサラを託し、アヴィは踵を返して、東地区の最奥へと繋がる鬱蒼とした森の奥へと駆け出した。
『第一王子として』『生徒会長として』。その言葉に嘘はなかった。だが、アヴィの頭の奥底では、その責任感の裏側で、先ほどから凄まじい警鐘が鳴り響いていた。
宮廷魔導師や精鋭の騎士団でさえ討伐に手を焼く特級魔獣。それを相手にして、ただの学生が生き残れる確率などどれだけあるか。
アヴィはギリッと奥歯を噛み締める。
……最悪の場合、もう既に全員が喰い殺されている可能性だってある。
「……無事で、いてくれ――」
◇◇◇
ウィリアムの風魔法の補助もあり、尋常ではないスピードで東地区の最奥の広場へとたどり着いたアヴィとウィリアムは、そこで力なく座り込む、満身創痍のシンシアたちを発見した。
シンシアは木の幹に背を預けて座り込み、肩で息をしていた。ユアンとルベールはその近くに並ぶように横たえられている。特にルベールの負傷が激しく、全身が血に染まっており、かなりの死闘を繰り広げたであろうことが容易に推察できた。
だが、不思議なことにこの近辺には原因となる魔獣の気配が感じられない。
「クレイモンド嬢! 無事か!?」
鋭いアヴィの声に反応し、シンシアが僅かに目を開けた。
「……だ、れ……?」
まだ混乱しているのか、呆然とした様子の彼女に意識を向けながらも、アヴィは班員の最後の一人であるフィーネの姿を探して、周囲を見回した。だが、近くに白金の髪の少女の姿はない。その事実に、言いようのない焦燥が膨らんでいく。
その直後、アヴィの存在を明確に認識したシンシアは、覚醒したようにその胸元を両手で強く掴んだ。
「殿下! お願いです……フィーネを、フィーネをお助けください……!!」
「っ、落ち着くんだ、彼女はどうした!?」
「私たちを、瀕死のルベール様を守るために……魔法も剣も使えないのに、一人で魔獣の囮になって……!」
「なんだって……!?」
シンシアの悲痛な叫びを聞いた瞬間、アヴィの凍りついていた仮面に、ピシリと巨大な亀裂が入った。
最も戦闘力のない彼女が一人で魔獣を引き付けるなんて、そんな事が可能なわけがない。それも、熟練の騎士たちでさえ、躊躇する特級魔獣を相手に。
(……グランドール嬢は、まさかもう……)
最悪の光景が脳裏を過り、アヴィの身体からザッと血の気が引いていった。
「殿下!!」
「……ウィリアム……私は……」
「しっかりなさってください! 魔獣がまだこちらに戻ってきていないのです! きっとフィーネ様が、今もお一人で引き付けていらっしゃるに違いありません!」
ウィリアムの力強い声が、崩れかけていたアヴィの理性を繋ぎ止めた。
(……そうだ、彼女がそう簡単に負けるはずがない)
戦闘力はなくても、彼女は頭がいい。ただ無駄に命を散らすような真似をするはずがない。何か、勝算があるはずだ。
「……行くぞ、ウィリアム」
「はい!」
「クレイモンド嬢、もうすぐ教官たちの本隊がここへ着く。それまで頑張れるか?」
「はい……! 私たちのことはいいですから……どうか、フィーネを……!」
シンシアの祈るような瞳に無言で頷き、アヴィたちは再び森の奥へと駆け出した。
◇◇◇
追跡の途中、地面に点々と残る新鮮な血だまりを見つけるたび、アヴィの胸は千々に引き裂かれそうになった。
これは魔獣の血ではない。彼女の、あの華奢な身体から流れた血だ。
(怪我を負っている……それも、かなり深い傷だぞ……!)
隣を走るウィリアムもまた、限界まで眉を寄せ、表情を強張らせている。辺りに漂う微かな鉄の臭いだけが、彼らの進むべき道を指し示していた。
これまでの「涙を目撃する」や「手に触れる」といった刺激を遥かに超える、「彼女が今まさに流した本物の血」という、圧倒的に生々しい視覚と嗅覚への直接の刺激。
それがアヴィの本能をかつてないほど激しく揺り動かし、魔女が施した冷酷な『感情の封印』に容赦のない亀裂を走らせる。
(――急げ、急がなければ、すべてが手遅れになる……!)
容赦なく続く凄惨な赤を見つめながら走るうち、アヴィは何かに激しく追い立てられているような不思議な感覚が、頭から離れなくなった。
それと同時に、「何か、勝算があるはずだ」と、そう考えていた自分の思考が、大きく間違っていた気がしていた。
彼女は頭がいい。
そんな彼女が、魔法も剣も使えず、怪我を負った身で、国家災害とも言うべき特級魔獣から、逃げ切れるなどと思うだろうか。
それに――もし運良く逃げ切れたとしても、それは飢えた魔獣が再び仲間の元へと引き返し、彼らの命を再び危険に晒すだけだと、彼女なら間違いなく理解しているはずだ。
ならば、彼女がこんなにも血を流してまで、魔獣をどこかへ誘導している理由は――?
そこまで考えて、アヴィの脳裏に演習森林の地図と、現在の位置、そしてこの血だまりが向かう、その先にあるものが描き出された。すべてが繋がった瞬間、アヴィの脳裏を、一つの最悪な仮説が過った。
(……まさか、彼女は最初から――)
その恐ろしい考えに、アヴィは全身の血液が凍りつくような感覚に襲われた。ありえない、そう否定したかった。
だが、激痛を伴って脳髄に蘇る違和感が、それこそが彼女の選ぶ手段だと叫んでいる。
(……彼女はいつだって――自分の身の危険など顧みずに、他人を助けようとしてしまう人なんだ……!)
なぜ、そんな確信があるのか、今の自分には分からない。彼女の過去も、本性も、何一つ知らないはずなのに。それでもなぜか、その魂の叫びだけは、絶対に間違っていないという確たる自信があった。
「ウィリアム! 速度を限界まで上げろ!」
「はい!」
アヴィは狂ったように、さらに馬力を上げて地を蹴った。




