24. 強き瞳
木々のざわめきが完全に途絶え、静まり返った演習森林の最奥。
不気味な沈黙を切り裂くように、すさまじい地響きが鳴り響いた。
――ズドォォォンッ!!!
「――っ、何!? この悍ましいほどの魔力は……!」
シンシアが悲鳴のような声を上げ、頭上の巨木を見上げる。
次の瞬間、鬱蒼と茂る巨木をなぎ倒しながら、彼らの前に見上げるような大きな影が躍り出た。それは、全身を硬質の漆黒の鱗のようなもので覆われた、見たこともない異形の大型魔獣だった。額からは禍々しい一本の角が伸び、濁った紅色の双眸には、底知れない狂暴さと飢餓感が漲っている。
「……特級変異種!? なぜ、演習区域内に……!」
ユアンが息を呑み、青ざめた。演習中の生徒が立ち入るエリアには、教官たちによる厳重な結界が張られている。これほど強大な力を持つ魔獣がエリア内に存在すること自体、あり得ない事態だった。
「ガルゥゥゥアアアッ!!!」
魔獣が咆哮を上げると、凄まじい衝撃波が一帯を襲った。あまりの風圧に、魔法の結界を持たないフィーネは呼吸を詰まらせ、その場に跪きそうになる。
「フィーネ嬢、下がってください!」
その細い肩を力強く押し戻し、前に躍り出たのはルベールだった。
ワインレッドの髪を揺らし、彼は背中の大剣を引き抜く。その瞳には、ただ一人の気高き騎士としての決意が宿っていた。
「ここは俺が食い止める! ユアン、シンシア嬢、フィーネ嬢を連れて早く下がれ!」
「――『雷光よ、我が呼びかけに応じ障壁となれ』!」
ユアンが必死の形相で、バリバリと空間を鳴らす雷光による守護の障壁を展開する。だが、魔獣の圧倒的な力に障壁は容易く粉砕された。
「くっ……ああっ!」
障壁の崩壊に伴う衝撃波を浴び、ユアンが血を吐いて地面に倒れ伏す。
「ユアン様! ――『水よ、奔流となりて敵を穿て』!!」
シンシアが絶叫し、これまでの連戦で残り少なくなっていた魔力の、その最後の一滴までをすべて絞り出すようにして、最大威力の水流を放った。しかし、激流を真っ向から浴びた魔獣は、不快そうに首を振っただけで、その硬質な鱗には傷一つ付いていない。
「嘘……上級魔法が、全く効かないなんて……」
シンシアが絶望に目を瞠る。彼女の魔力は既に底を突きかけており、膝が小刻みに震えていた。
「ガルゥゥアアッ!」
魔獣が再び前足を振り上げ、無防備なシンシアへと迫る。その凶刃を遮るように割り込んだのは、ルベールだった。
「おおおおおっ!」
全身の力を大剣に注ぎ込み、魔獣の強烈な一撃を真っ向から受け止める。凄まじい衝撃音が響き渡り、火花が散った。
しかし、相手の質量と魔力は圧倒的だった。ルベールの大剣は悲鳴を上げるようにして弾き飛ばされ、遠くの茂みへと突き刺さる。ルベールの身体もまた、衝撃に耐えかねて地面を激しく転がった。
「サイモン様!」
ユアンは気を失っており、シンシアも魔力切れでその場に崩れ落ちる。魔獣は、武器を失って地に伏せるルベールを見下ろし、容赦のない爪を振り下ろそうとした。
(――しまっ、サイモン様が!)
「サイモン様!!」
フィーネが叫んだその瞬間。
「……――まだ、だっ!!」
ルベールは血に塗れた顔を上げ、凄まじい執念で立ち上がった。限界をとうに超え、全身の骨が軋むような大ダメージを負っているはずだった。それでも彼は、丸腰のまま、フィーネの前に立ちはだかった。
「サ、サイモン様……? 大剣がありません、下がってください!」
「断る……! 俺は……俺の剣にかけて、命に代えても貴女を護ると誓ったんだ……!」
ルベールは一歩も退かなかった。
襲いかかる魔獣の鋭い爪。ルベールは大剣の代わりに自身の両腕を交差させ、捨て身の盾となってその攻撃を真正面から受け止めた。ザシュッ!と肉が裂ける悍ましい音が響く。
「がはっ……!」
ルベールの口から鮮血が噴き出す。それでも彼は倒れず、魔獣の巨体に体当たりをするようにして、その前進を力ずくで押し留めた。
「サイモン様……! もういいです、もう、いいですから……!」
「よく……ない……! 俺が、俺がここで退けば……貴女が、死んでしまう……!」
凄まじい爪撃が、何度もルベールの肩や背中を切り裂く。彼の演習着は一瞬にして赤黒く染まり、その生命の火は今にも消え入りそうに細くなっていた。
それでも、彼はフィーネを背中に庇い、震える腕を広げて魔獣を睨みつけ続けた。
それは、命をかけて誓いを全うしようとする、本物の騎士の姿だった。
(……サイモン様が死んでしまう。私を……魔法も剣も使えない私を護るために、本当に命を投げ出そうとしている……!)
ゾッとするような冷たい戦慄が、フィーネの背筋を駆け抜けた。後ろでは、ユアンが倒れたまま、シンシアも涙を流して震えている。
このままでは、ルベールは次の攻撃で確実に命を落とす。そして、その後は全員がこの怪物の餌食になる。
(そんなこと、絶対にさせない……!)
自分を命がけで護ってくれたルベールやユアンの、あの高潔な命を。そして昨夜、愛しい婚約者との結婚を嬉しそうに微笑みながら語った親友の未来を――それらを、こんな暗い森の奥で失うことなど、フィーネには到底、認められなかった。
自分は確かに無力だ。剣も振るえず、攻撃の魔法も使えない。だが――ただ黙って守られ、全員で全滅するのを待つだけの存在ではないはずだ。
(相手は魔獣……要は、理性のない獣よ)
観察していた限り、あの魔獣の知性は極めて低い。ただ本能のままに、目の前の生命を貪ろうとしているに過ぎない。
――それならば、おそらく。
「……シンシア」
フィーネは、驚くほど冷静で、凛とした声で親友を呼んだ。
「……え? フィー、ネ……?」
「今すぐ、残った僅かな魔力で、二人に最低限の回復魔法をかけて。……この場から動かせる程度でいいわ」
「な、何を言っているの? 魔獣が、目の前に――」
「あの魔獣は――私が引き付けるわ」
「なっ……! そんなの駄目に決まっているでしょう!? 貴女が一番、戦えないのよ!」
フィーネのあまりにも無謀な提案に、シンシアの顔が驚愕に染まる。
「シンシア。貴女には、ダニエル様との幸せな未来があるでしょう? こんな場所で命を落とすなんて、絶対にあってはならないの。サイモン様も、ファネージュ様も……戦えない私を、命懸けで守ろうとしてくださった、本当に高潔な方たちよ。そんな方たちを、こんな所で失うわけにはいかないわ」
「それは、でも! 貴女だって……!」
「お願い、私を信じて。貴女たちは絶対に生き残って」
涙を浮かべる親友に向け、フィーネはふわりと、かつてアヴィだけに見せていたような、気高く、そして美しい微笑みを浮かべてみせた。
「きっと、生き残ってね」
「嫌よ、そんな最後みたいな言い方しないで!」
「……そうね。じゃあ――きっと、生きてまた会いましょう」
フィーネはそう言い残すと、護身用として腰に帯びていた一本の小さなナイフを抜き払い、走り出した。魔獣の爪が届かないギリギリの距離を保ち、声を限りに叫ぶ。
「――こっちへ来なさい、この化け物!」
魔獣の巨大な頭部がギチリと音を立てて回り、その濁った双眸がフィーネを捉えた。
(――今よ!)
魔獣と視線が完全に交差した瞬間。フィーネは迷うことなく右手のナイフを走らせ、垂直に伸ばした自身の左腕の、剥き出しの皮膚を深く一文字に切り裂いた。
「っ、つぅ……!」
激痛が走り、苦痛に顔が歪む。しかし、狙い通りに傷口から鮮血が勢いよく噴き出し、生臭い鉄の臭いが冷たい風に乗って周囲へ拡散していく。
「ガルルルルッ……!?」
魔獣の鼻腔がピクリと動き、その凶悪な視線が、瀕死のルベールから、より新鮮で芳醇な『血の匂い』を放つフィーネへと完全に切り替わった。
ターゲットの強制転換。魔法が使えないフィーネが、手負いの仲間を確実に救うために導き出した、唯一無二の、命がけの知略だった。
(かかったわ……!)
意志の強い紫の瞳で、真っ直ぐに魔獣を見据える。魔獣は地上の手負いの獲物を捨て、最大の『ご馳走』であるフィーネへと向かって、狂暴な前足を上げた。
「待て……フィーネ、嬢……行くな……。俺が、護る、から……」
ルベールは朦朧とする意識の中で、血を吐きながら、去ろうとするフィーネに向けて必死に手を伸ばした。
しかし、その指先は彼女の白金の髪に届くことなく、ガクリと地面へと落ち、彼はそのまま深く意識を失った。
「……ルベール様、ありがとうございました。貴方はお約束通り、ちゃんと私を護ってくださいましたわ」
フィーネは心からの感謝を胸に、傷口を強く押さえると、踵を返し、森の奥深くを目指して全力で走り出した。
背後からは、獲物の血に狂った特級魔獣の、おぞましい足音がすぐ近くまで迫っていた。




