23. 迫りくる災厄の足音
野外炊飯の賑やかな時間が終わり、夜の帳が完全にキャンプ地を包み込む頃。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返ったコテージの敷地を、フィーネは一人、冷たい夜風に吹かれながら静かに歩いていた。シンシアと、そしてウィリアムの話を聞いてから、少し感傷的になっているのかもしれない。
天上では、先ほどウィリアムとともに見上げていた時よりも少し高い位置に登った半月が、静かに白い光を放っている。
フィーネは左手首――そこにあるブレスレットの、アヴィの瞳と同じ碧色の石を無意識にそっと指先でなぞった。
(――アヴィ様。今の貴方に、私の声は届いていますか……?)
夜会で直接触れ合ったあの瞬間、彼が見せた激しい動揺と、その後に見せた剥き出しの執着。世界中が偽りの記憶に塗り潰されても、アヴィの魂は確かに自分を求めて叫んでいた。
その確信があるからこそ、フィーネの心には、冷たい風の中でも消えない希望の火が灯っていた。
だが――
不意に、静寂の向こうから、穏やかな話し声が聞こえてきた。
「――ああ、そうだよ、サラ。明日の演習は、私の目の届く範囲にいるといい。必ず私が君を守るからね」
「嬉しい! アヴィ様が守ってくださるなら、私、何も怖くありませんわ」
木漏れ日を模したランプの光に照らされて歩いてきたのは、白銀の月光を浴びて輝く金髪の少年――アヴィだった。
その隣には、彼の手を当然のように握りしめ、甘えるように寄り添うサラ・スレイヤーの姿がある。
フィーネは思わず、その場に立ち尽くし、手首のブレスレットを握りしめた。しかし、アヴィの澄み切った碧色の瞳は、真っ直ぐに隣のサラだけを見つめていた。
目の前にフィーネが立っているというのに、アヴィはただの一瞬も、その視線を彼女へと向けることはなかった。眉一つ動かさず、意識を向けることすらなく、ただの数多いる生徒の一人という背景のような存在として、フィーネを無視して傍らを通り過ぎていく。
すれ違いざま。サラだけが、フィーネの存在に気づき、見せ付けるようにアヴィの腕をさらに強い力で抱きしめた。
そしてアヴィの死角から、フィーネに向けて、歪んだ優越感に満ちた、ゾッとするような冷たい嘲笑を投げつけてみせた。
「さあ、行こうか、サラ。夜風が冷たくなってきた」
「ええ、アヴィ様」
アヴィはサラのそんな浅ましい悪意に気づくことすらなく、ただ穏やかに微笑み、そのまま夜の帳へと消えていく。
完全に冷え切った、美しき人形のような後ろ姿。その背中を見つめたまま、フィーネは全身の血が凍りつくような寒気に襲われていた。
アヴィに「無視された」ことの傷みなど、とうに通り越していた。言葉を交わすことすら叶わない、あの完璧な呪縛の深さに、ただ底知れない恐怖が背筋を這い上がる。
(……ああ、こういうことだったのね……)
脳裏に、つい先ほど、冷たい森の暗闇の中で、血の滲む拳を幹に叩きつけて憤っていた、ウィリアムの姿が鮮烈に蘇る。
『自分は何一つ、お守りできていない……!』
そう言って、喉を詰まらせていた彼の、あの剥き出しの絶望。
アヴィにとって、自分はもう存在しない『背景』に過ぎない。違和感も、頭痛も、ノイズすら起こさず、ただ完璧な『サラの婚約者』として、穏やかに――死んだように微笑んでいる。
かつての、あの誰よりも優しく温かかったアヴィの心を、その瞳の色を、一番近くで知るウィリアムが、正気を保ったまま、この『冷え切った人形』のような彼に毎日仕え続けることが、どれほど残酷な地獄であったか。
己の無力さを突きつけられ、心がどれほどズタズタに引き裂かれていたか――。
アヴィの絶対的な無関心をその肌で浴びた今、フィーネには、彼の抱えていた絶望の深さが、痛いほど理解できた。
(半月前のあの日から、アヴィ様の中に生じていた記憶に対する違和感も感情も、本当に、欠片一つ残さず綺麗に消し去られたままなのね……)
悲しみに押しつぶされそうな自分を押し留めるように、キュッと胸元を握りしめた。
(待っていてください、アヴィ様。そして、ウィリアム様……。私は、絶対に諦めない。何をしてでも、あの方のお心を、取り戻してみせるわ)
去っていくアヴィの冷たい背中を見つめながら、フィーネの紫水晶の瞳には、かつてないほど強固な決意の光が宿るのだった。
◇◇◇
翌朝。
一泊二日の野外総合演習のいよいよ本番である実技試験の幕が上がった。
普段は厳重な結界で封鎖されている王立学園所有の「演習森林」。
高くそびえ立つ巨木が入り乱れ、冷たく湿った空気が漂うその場所へ、生徒たちは班ごとに足を踏み入れていく。
生徒に何かあってはいけないため、各班には演習専用の魔導端末が貸与されている。これにより、魔獣討伐のポイントのカウント、緊急時の通信、そして、各班の位置を常時教官が把握できるようになっているのだ。もしも班員のレベルでは対処できない魔獣のいるエリアに踏み込もうとすれば、即座に教官が止めるという手筈になっている。
今回の実技試験のルールは極めてシンプルだった。制限時間である夕刻までに、広大な森林内に設けられた複数の『チェックポイント』を順番に通過しつつ、遭遇した『魔獣』を討伐して、獲得した総合ポイントを競うというものだ。
勿論、生徒で対処できないような強力な魔獣が生息するようなエリアは演習の敷地外であり、平常時と変わらず結界が張り巡らされている。あくまで初級・中級・上級ランクまでの管理可能な魔獣のみが演習エリア内に放たれているにすぎなかった。
どのグループも非戦闘員である学術部門の班員を抱えている以上、このルールにおいて最も重要なのは、ただ無暗に魔獣を狩り続けることではない。「自分たちの技量を冷静に見極め、向かうべきエリアを判断する」、そして「いかに効率的な最短ルートを構築し、不必要な強敵との戦闘を回避しながら、各チェックポイントを確実に巡るか」という高度な知略だった。
――実技試験が開始されてから、数時間が経過した頃。
「サイモン様、右手の茂みです! 本命は風上から来ます!」
木々が複雑に光を遮る林の中で、フィーネの凛とした声が響き渡った。
「任せろ!」
ワインレッドの短髪を揺らし、ルベールが大剣を構えて地を蹴った。
フィーネが事前に予測した通り、右手の茂みから牙を剥いて飛び出してきた狼型の魔獣に対し、ルベールは僅かな迷いもなく大剣を一閃させる。凄まじい衝撃音と共に、魔獣は一撃で叩き伏せられた。
「ユアン様、左手の崖上から二匹目が来ます! シンシア、水流で足元を!」
「『紫電よ、我が呼びかけに応じ敵を貫け』!」
ユアンが瞬時に魔法陣を展開し、バチバチと激しい火花を散らす「雷の刃」を放って崖上の獲物を一撃で黒焦げにする。
「『清らかなる水よ、奔流となりて敵を足止めせよ』!」
同時にシンシアが華麗にステップを踏むと、足元から湧き出た激しい水流が、残りの魔獣たちの動きを完全に封じ込めた。そこへ再びルベールが踏み込み、大剣の薙ぎ払いでトドメを刺す。
息を呑むほどの完璧な連携。襲いかかってきた魔獣の群れは、一人の負傷者も出すことなく瞬く間に討伐され、大量のポイントが彼らの魔導端末へと加算されていく。
「ふぅ……! さすがね、フィーネ! 貴女が地形と風向きから、魔獣の回り込んでくる位置をすべて言い当ててくれるから、魔法を放つ的を絞るのが本当に楽だわ!」
シンシアが興奮気味にフィーネの手を取った。
「グランドール嬢の知識には、宮廷魔導師を目指す身としても驚かされるばかりだよ」
ユアンもまた、感嘆したように微笑む。
「……いや、俺が一番驚いている。フィーネ嬢の指示は、まるで戦場全体を上空から見下ろしているかのように的確だ。これなら、剣を振るうことだけに集中できる」
ルベールは大剣を背の鞘へと収めると、かつての独善的な傲慢さを完全に削ぎ落とした、一人の真摯な騎士としての敬意をその瞳に宿して、フィーネを見つめた。
「ありがとうございます、皆様。ですが、私はただ、この半月、頭の中に地形図と魔獣の生態を叩き込んでおいただけですわ。実際に戦う力を持たない私を、こうして完璧に護り、指示を形にしてくださる皆様がいてこそ得られた成果です」
フィーネは額の汗をそっと拭いながら、優しく微笑んだ。
魔法が使えない「無能」と揶揄されてきた自分。だが、半月前の結団式で教官が語った、始祖ゲインの革命の精神――。
魔法を使える者も、使えない者も、全員がそれぞれの持つ力を合わせて戦う。
今、自分は確かに、学問という己の力で仲間を支え、共に戦っている。その誇りが、彼女の心を力強く繋ぎ止めていた。
(――自分にも、できることがきっとあるわ)
手袋の下のブレスレットにそっと触れる。アヴィの色彩である碧色の石は、彼女の決意を肯定するように、木漏れ日を浴びて静かに輝いていた。
演習は極めて順調だった。各専門科目のエリートが揃うフィーネ班は、フィーネが構築した完璧なルートに沿って、最も高得点が期待できる上級魔獣が生息する森林最奥のチェックポイントへと、つつがなく歩みを進めていた。
しかし、陽が天頂を過ぎた頃、朝からの討伐で少しばかり疲れが出てきた彼女らが、そろそろ休息を取ろうか、と考え始めた、その時だった。
「……? 風の、流れがおかしいわ」
シンシアが、ふと不審そうに顔を上げた。
森林のざわめきが、ピタリと止んでいる。鳥のさえずりも、虫の羽音も、すべての自然の音が唐突に消失していた。
不気味なほどの沈黙の中、森林のさらに奥深く――通常は生徒が決して立ち入らないはずの、結界が張られた未開拓エリアの方向から、肌を粟立たせるような、昏く禍々しいプレッシャーが、霧のようにじわじわと漂い始めていた。
それは、通常の魔獣が放つものとは明らかに異なる、どこか知性的で、底知れない悪意を孕んだ気配。
フィーネの紫水晶の瞳が、本能的な恐怖に小さく揺れる。
美しく静寂に包まれていたはずの演習森林の奥で、運命の歯車が、最悪の災厄に向けて静かに回り始めようとしていた。




