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忘れられた公爵令嬢  作者: 結城 洋乃
第二部

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22. 従者の葛藤

 カマドに温かな火が灯るフィーネ班から、少し離れた広場。第一王子であるアヴィの班でも、野外炊飯の調理が進んでいた。


「さすがアヴィ様ですね! こんなに綺麗な、煤ひとつ出ない最適な火を起こしてくださるなんて!」


 サラがはしゃいだ声を上げる。アヴィが指先ひとつでカマドに灯した炎は、調理に最も適した一定の熱量を保ち、美しく揺らめいていた。当代随一と称される彼の火属性魔法の制御技術は、野外炊飯の場でも遺憾なく発揮されている。


「これなら、私が作るスープも絶対に美味しくなりますね」


 サラは嬉々としてカマドの前に立つが、男爵家とはいえ貴族令嬢として育った彼女の手際は、お世辞にも良いとは言えなかった。野菜の切り方は不揃いで、火が通る前にスープの味を調えようと、高級なスパイスを闇雲に鍋へと放り込んでいく。

 やがて完成したのは、スパイスの刺激臭が鼻を突く、ひどく味の濃いスープだった。


「少し、辛くなってしまったかしら……? アヴィ様、どうぞ」


 サラが不安げに差し出した器。アヴィはそれを手に取ると、穏やかで優しい微笑みを浮かべたまま、一口、また一口と、何の躊躇いもなく口へと運んだ。


「ありがとう、サラ。君が一生懸命作ってくれたのだから、何よりも格別だよ」


 それは、彼の脳内の記憶が『最愛の婚約者へ贈るべき言葉』として提示した、完璧な肯定だった。サラはほっとしたように「よかった」と喜びの笑みを浮かべるが、その様子を後ろで静かに見つめていたウィリアムは、胃の腑に冷たい泥を流し込まれたような寒気に襲われていた。


(……嘘だ。殿下は、これほど刺激の強い食べ物は苦手だったはずだ……)


 それなのに、今のアヴィは眉一つ動かさず、まるで最初からそれが好物であったかのように、作り物のような微笑みを湛えてスープを飲み干している。


 かつての記憶の改竄であれば、サラとフィーネの「主語」がすり替わっただけだった。だからこそ、そこにはまだアヴィの人間らしい感情の揺らぎや、時折のズレに伴う激しい頭痛が存在していた。だが、今の彼にはそれがない。完璧に穏やかで、完璧に優しく、そして完璧に――()()()()()()()()


 カマドの炎が、そんなアヴィの端正な横顔を赤く照らす。しかし、その瞳の奥は、どれほどサラが甘えても、凍てついた闇のように冷たく静まり返ったままだった。


「……殿下。申し訳ありません、少し薪の追加を確保してまいります」


 これ以上、その精巧な人形のような主の傍らに佇んでいることに耐えかね、ウィリアムは喉の奥から絞り出すような声で告げた。アヴィは「ああ、頼むよ、ウィリアム」と、やはり非の打ち所がない声音で静かに頷いた。


 明るいカマドの傍を足早に離れ、鬱蒼と茂る夜の森の暗がりへと足を踏み入れる。

 完全に周囲の喧騒が遮断された闇の中で、ウィリアムは立ち止まった。


「……ハッ、……あ……」


 我慢していた口から漏れたのは、まるで過呼吸のような、冷たく浅い呼吸だった。ウィリアムは静かに、近くの太い木の幹に片手を突き、そのまま頭を押し付けた。


 涙は出なかった。だが、彼の全身は、まるで極寒の地に放り出されたかのように、小刻みに、激しく震えていた。

 自身の腰に携えた短剣――アヴィとフィーネから、あの幸せな日に「一番の親友、侍従としてよろしく頼む」と贈られた、あの特別な短剣。その柄を、指が白くなるほどに強く握りしめた。


「俺は……何のために、あの方の傍にいるんだ……」


 押し殺した声は、信じられないほどに冷たく、掠れていた。アヴィの中の大切な記憶を、人間らしい感情すら消し去った魔女の呪縛。それに対する己の圧倒的な無力さに、ウィリアムはただ音もなく、ギリッと奥歯を噛み締めた。


「……ウィリアム様?」


 不意に、背後から響いた静かな声。

 ウィリアムは弾かれたように顔を上げて振り返った。その視線の先には、木々の隙間から差し込む細い月光を浴びて、白金の髪を柔らかく靡かせたフィーネの姿があった。


「フィーネ様……っ。なぜ、このような場所に」


 ウィリアムは、反射的に表情をいつもの冷静な自分へと戻そうとした。だが、怒りと悲しみで強張った顔はうまく動かず、ただ引き攣った泣き笑いのような表情が貼り付くだけだった。


「お見苦しいところを。……ご心配なく、私はただ、少し夜風にあたっていただけで――」

「ウィリアム様」


 フィーネは、取り繕おうとする彼の言葉を、静かに、けれど毅然とした声で遮った。カサリ、と落ち葉を踏みしめ、彼女はウィリアムのすぐ傍まで歩み寄る。そして、両手で大事そうに抱えていた、蓋付きの深めの木製マグをそっと差し出した。


「これ……私たちの班で作ったハーブシチューです。よろしければ、温かいうちに、召し上がってください」

「俺に……ですか?」

「ええ。冷たい森の中で、お一人で戦っていらっしゃる貴方に」


 そう告げるフィーネの瞳には、ウィリアムが何に苦しみ、嘆いているのか――今ウィリアムが抱えている絶望を、真っ向から受け止める、気高く強い光が宿っていた。


 ウィリアムは躊躇いがちにマグを受け取り、そっと木製の蓋を外した。夜のひんやりとした空気の中に白い湯気がふわりと立ち上り、ハーブの優しい香りが広がる。添えられたスプーンで一口すくい、息を吹きかけてからそっと口へと運んだ。

 口いっぱいに広がる野菜の甘みと、喉を通るじんわりとした温もり。それが、冷え切っていた彼の心と身体を、内側から優しく融かしていく。

 ウィリアムはマグを握る手にぎゅっと力を込め、ぽつり、と声を零した。


「……美味しい、です。あの、温かかった日々の味がします……」


 それは、ウィリアムの心の最奥から零れ落ちた本音だった。その呟きを、フィーネはふわりと、すべてを包み込むような優しい微笑みで受け止める。

 促されるように、再び無心にシチューを口に運ぶウィリアム。その姿をそっと静かに見守っていたフィーネは、やがて、夜空に浮かぶ半月へとゆっくり視線を移した。


「……お辛いのは当然ですわ、ウィリアム様。ずっと、たったお一人で……誰も真実を覚えていない世界の中で、アヴィ様の傍に立ってこられたのですから」


 その静かな一言が、ウィリアムの胸の最奥へとまっすぐに突き刺さった。彼が必死に保ち続けていた殿下の侍従としての防壁が、一瞬にして音を立てて崩れ去っていく。

 スプーンを握る指先がガタガタと震え、喉の奥が熱く締め付けられた。ウィリアムは自身の顔を覆うようにして、絞り出すように本音を零した。


「……俺は結局、何一つ、お守りできていない……! あの方は、俺を……親友だと言ってくださったのに……っ! 俺が、不甲斐ないせいで……っ!」


 悔しさに、ウィリアムは近くの幹を強く殴りつけた。ドン、と重い音が響き、彼の拳の皮が破れて微かに血が滲む。だが、その自暴自棄な焦燥を、フィーネは真っ直ぐに見つめ返した。


「……いいえ、それは違います」

「え……?」

「貴方が何一つ守れていないなんて、そんなことはあり得ません。貴方が今日まで、正しい記憶を保ったままアヴィ様の傍にいてくださったからこそ、私はこうしてもう一度前を向くことができたのですから」


 フィーネは、ウィリアムの血の滲む拳をそっと見つめ、それから彼と視線を合わせた。


「貴方が私の涙を拭い、『諦めないでほしい』と手を引いてくださった。だから、私は今、ここで戦う決意ができています。……どうかご自分を責めないでください。貴方は私にとって、かけがえのない大切な戦友なのですから」


 その紫水晶の瞳には、夜空の半月よりも気高く、絶対に折れない不屈の光が宿っていた。 ウィリアムは、彼女の言葉に、その圧倒的な精神の気高さに、冷え切っていた胸の底がカッと熱くなるのを感じた。彼を蝕んでいた焦燥と諦めという感情が、彼女の毅然とした「光」によって、跡形もなく霧散していく。


「……フィーネ様。貴女は本当に……強く、おなりなのですね」


 ひと月ほど前、アヴィの豹変した態度に傷つき、涙し、全てを諦めようとしていたか弱い彼女はもういなかった。

 ウィリアムは深く息を吐き、乱れていた呼吸を完全に整えると、生真面目な、けれど今度は「確固たる闘志」を宿した瞳で深く頭を下げた。


「無様な姿を見せてしまい、申し訳ありません。……ですが、もう迷いません。私のこの命と忠誠のすべてを懸けて、殿下を……本来あるべき貴女の隣へ、必ず連れ戻します」


 二人は木陰の暗闇の中で、誰にも気づかれぬよう、深く、静かに頷き合った。置き去りにされた二人の魂の共闘関係が、より一層強固に結ばれた瞬間だった。


◇◇◇


 コテージに戻ったフィーネは、テラスで夜空を見上げていたシンシアの隣に腰掛け、ハーブティーを口にした。


「ねえ、さっきはどこへ行っていたの? フィーネ」


 唐突にかけられた言葉に、フィーネはびくりと肩を揺らした。


「……あ、ええと、その、友人が思い詰めたような顔をしているのが見えたから、ちょっと、ね」


 ウィリアムの名前を出すわけにもいかず、フィーネは、誤魔化すようにそう言って手を振る。


「……そう。余ったシチューを取り分けて持っていきたいなんて言うからどうしたのかと思ったけど……まあ、あのシチューを食べたら、きっと気持ちも落ち着いたんじゃない?」

「……そうね、そうだと嬉しいのだけど」


 聞かれたくない話だと察したのか、シンシアはあまり深く追及はせず、くすっと笑った。そんな彼女に、フィーネも静かに頷いた。


「それにしても、最終学年の前期課程も、残すところはこの演習と来月の修了試験だけね。後期課程は……皆進路のことで忙しいから、イベントごとは少ないものね」


 シンシアが、手元のカップを見つめながらぽつりと寂しげに呟いた。


「そうね、それも終わればいよいよ卒業だわ」

「私は、卒業したらすぐに領地へ戻って結婚の準備ねぇ」

「お相手はダニエル様、だったかしら? 同じ公爵家の」

「ええ、そうよ。幼馴染で、昔からずっと私の我が儘に付き合ってくれている人」


 いつも凛として余裕たっぷりな親友が、白い頬をほんのりと朱に染めて幸せそうに微笑む。

 その姿を見つめながら、フィーネの胸の奥は、優しく温かな、けれど少しだけ切ない感情で満たされていった。

 心から愛する人と結ばれる、輝かしい約束された未来。それは、今のフィーネの手からは零れ落ちてしまったものだった。

 けれど、フィーネは目の前の大切な友人の幸福を、心から守りたいと強く思った。


「……本当に仲が良いのね。素敵な旦那様になりそうだわ」

「もう、からかわないで。でも……ええ、とても幸せよ」


 嬉しそうに目を細めるシンシアの手を、フィーネは微笑みながらそっと握りしめた。



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