第3章*逃亡
夕食の後片付けを終えた夜のことだった。
「ーー今まで、本当にありがとうございました」
その言葉を口にした瞬間、キッチンの空気が凍りついた。
優太は意を決して、リビングで書類に目を落としていたレオンハルトの前に立った。
手元には、先ほど自分の部屋からまとめてきた必要最低限の荷物が入ったバッグがある。
レオンハルトは書類をめくろうとした視線のまま、その動きを止めた。
ゆっくりとあがったその瞳には、何の感情も読めない。
「ーーそれは、どう言う冗談だ…?」
低く地を這うような声は、いつも優太を甘やかすように響く柔らかな響きはそこには微塵もなかった。
「冗談じゃありません…。
俺、昨日で18歳になりました…。
この世界では、もう1人前です…。
いつまでも、レオンハルトさんの好意に甘えている訳にはいきません…」
優太は必死に声を震わせないように、握りしめた拳に力を込めた。
「街の宿屋を、いくつか当たってみます…。
家政夫の経験なら、レオンハルトさんのおかげでたくさん積ませてもらいましたから…きっと、次の奉公先も…」
「ユウタ」
遮る声は静かだったが、心臓を直接掴まれたかのような威圧感があった。
レオンハルトは立ちあがると、長い脚で迷いなく優太との距離をつめてきた。
1歩、また1歩と迫っている彼の美貌は彫刻のように冷ややかで、どこか恐ろしかった。
「次の奉公先だと…?」
「は、はい…だから、レオンハルトさんも、公爵令嬢との結婚に集中してください…。
奥様がこられるなら、俺みたいな男の居候がずっといるのは絶対に迷惑ですし…」
そこまで言って、優太はハッと息を呑んだ。
レオンハルトの顔から、完全に“温度”が消えていたからだ。
「そうか…お前は、俺が他の誰かをこの家に迎えてお前を追い出すと思っているのか」
「えっ…だって、普通はそうで…」
「普通だと?」
レオンハルトがフッと自嘲気味に、けれどひどく昏い笑みを漏らした。
その瞳の奥で、じりじりと赤黒い執着の炎が燃えあがるのを優太は本能的に察知した。
身の危険を感じて、1歩後ろへ下がろうとした。
しかし、それよりも早く、レオンハルトの手が優太の肩を強く掴んだ。
「待って…レオンハルトさん、離して…」
「離さない…お前がそんなくだらないことを考えているなら、もう“いい兄”のフリをしてやる必要もないな」
「えっ…?」
優太が呆然とする暇もなく、レオンハルトは優太の手首をつかむと、そのまま彼を自室へと引きずり始めた。
騎士団長の圧倒的な筋力の前では、18歳になったばかりの優太の抵抗など羽虫の羽ばたきほどの意味も持たなかった。
「待って、レオンハルトさん!
痛い、離してください!」
叫び声も虚しく、部屋の扉が乱暴に開け放たれる。
そのままベッドへと押し込まれて、視界が激しく揺れた。
次の瞬間、優太の視界をふさいだのは…天井ではなく、自分を見下ろすレオンハルトの狂おしいほどに歪んだ美貌だった。




