第2章*不穏な影
あの転生ミスの大騒動から、早いもので3年の月日が流れた。
ーートントントン…
レオンハルト邸宅にある広々としたキッチンに小気味よい包丁の音が響いている。
「ーーよし、スープの味つけはこれでバッチリだ」
優太は大鍋のスープを木べらですくって、ふうふうと息を吹きかけてから口に含んだ。
スープの味つけに自然と笑みがこぼれた。
18歳ーーこの世界における“成人”を優太は昨日迎えたばかりだった。
鏡を見れば…ひょろひょろだった中学生の面影は消えて、それなりに引き締まった青年の体型になっていた。
黒髪は少し伸びて、異世界の暮らしにすっかり馴染んでいた。
元の世界では誰からも認識されない“透明人間”だった優太は…今、この邸宅で“家政夫”として働いている。
最初は神殿のミスに対する同情で雇われたのだとわかっていた…だからこそ、優太は必死に仕事を覚えた。
レオンハルトに“お荷物”だと思われたくなくて、異世界の食材を研究して、毎日部屋をピカピカに磨きあげた。
そんな優太の努力をレオンハルトは決して見逃さなかった。
「ユウタ、今日の料理も素晴らしいな。
お前がきてから、我が家の食卓が劇的に変わった」
「お前が淹れてくれるお茶が1日の中で1番の楽しみだ」
帰宅するたびにレオンハルトは極上の笑みを浮かべて、優太の黒髪を大きな手で愛おしそうに撫でてくれる。
美味しい、お前がいてくれて助かるーーその言葉をもらうたびに、優太の胸の奥はじわじわと温かい灯火が灯るように満たされていった。
(俺、この世界にいていいんだ…レオンハルトさんの役に立てるんだ…)
10歳上のレオンハルトは…いつしか優太にとって“兄のような恩人”を越えて、世界でとても大切な人になっていた。
…いや、本当は気づいていた。
出かけにネクタイを整えてあげる時に至近距離で見つめられる青色の瞳、彼が優しく自分の名前を呼ぶ低くて甘い声ーーその全てに、心臓が跳ねてしまう。
それが、決して叶うはずのない“初恋”であることに。
「ーーユウタ、ただいま戻った」
低く心地よい声が響いて、キッチンにレオンハルトが姿を現した。
相変わらず息を呑むほどに美しく、気品に満ちた佇まいだ。
「あ…レオンハルトさん、お帰りなさい!
今、ちょうど夕食ができたところで…」
笑顔で振り返った優太の手がピタリと止まった。
レオンハルトが手にしている上等な紙ーーそこには、王都の最高級貴族である“公爵家”の紋章が金色の蝋で厳重に封印されていた。
「レオンハルトさん、その手紙は…?」
「ああ、これか…神殿の帰りに、王宮の伝令から直々に渡されてな」
レオンハルトはひどく面倒くさそうに、その手紙をキッチンのカウンターに放り出した。
「また見合いの話だ」
心臓が冷たい氷水をかけられたようにひやりとした。
「先方は公爵令嬢ーー国を救った騎士団長の名誉のために、どうしても1回だけ会えとしつこくてな」
街でも最近、そんな噂を耳にしていた。
ーーレオンハルト団長ももう30手前だ、ついに公爵令嬢とお見合いをするらしい
ーー近々、めでたい結婚の知らせが聞けるかもな
「ーー見合い、ですか…やっぱり、結婚されるんですよね…?」
「まあ、年齢的にはそう周囲に急かされるな…だが」
レオンハルトが何かを言いかけたが、優太の耳にはもう届かなかった。
頭の中が真っ白になり、血の気が引いていく。
レオンハルトは、この国の英雄だ。
美しくて、強くて、立派な大人の男だ。
いつまでも、男の居候である自分と2人きりで暮らしていく訳がない。
いつかは美しい妻を迎えて、自分の本当の“家族”を作るのが当たり前だ。
(そっか…奥さんがこの家にきたら、俺みたいな“家政夫”なんてもう邪魔なだけだよね…)
胸の奥が、ギュッと締めつけられるように痛みだした。
レオンハルトが自分の家庭を持てば、自分はまた“いらない存在”に戻ってしまう。
「ユウタ、どうしたんだ?
顔色が悪いぞ」
心配そうに覗き込んでくるレオンハルトの美しい顔が一瞬で見えなくなるほどに、優太の視界は涙で歪みそうになっていた。
「な、何でもありません!
スープ、温め直しますね!」
優太は慌てて背を向けると、大鍋に向きあった。
気遣ってくれる彼に、こんな泣きそうな顔を見せる訳にはいかない。
けれど…優太の胸の内に宿った小さな絶望は、もう消すことができなかった。
(ーー俺、この家を出て行かなきゃいけないんだ…)
成人を迎えたばかりの翌日ーー優太の淡い初恋は、実る前に終わりを告げようとしていた。




