第7話 次の御子
白い祭衣を着せられたその子は、昔のわたしと、そっくり同じ目をしていた。
アシュレの騒ぎから、数日が過ぎていた。瘴気の漏れは共鳴でどうにか抑え込んだものの、結界の奥の澱みは、相変わらず、深く淀んだままだ。
その朝、わたしを神殿へ呼びつけたのは、神官長セヴランだった。
彼は、いつもの慇懃な笑みを、すっかり取り戻していた。あの夜、結界が崩れないのを見て口を引きつらせていた人とは、まるで別人のように。
「御子よ。先日の不安定は、あなたさまの祈りが乱れたせいにございましょう。心を乱した御子では、もはや務まりますまい。——ですから、新しい御子を、お迎えいたしました」
セヴランがそう言って、傍らの幕を払った。
そこに、その子は、いた。
八歳ほどの、小さな女の子だった。大人のために仕立てられた白絹の祭衣は、その子には大きすぎて、裾を踏んでしまいそうになっている。怯えた目で見知らぬ大人たちを見上げながら、胸のところで、家から持ってきたらしい木彫りの兎を、ぎゅっと握りしめていた。
その目を見た瞬間、わたしのなかで、長いあいだ固く閉じてきた何かが、音を立てて崩れた。
知っている。あの目を、わたしは知っている。何が起きているのかもわからないまま、ただ怖くて、それでも泣いてはいけないと、必死で堪えている目。鏡の中で、何年も見つづけてきた目だった。
はじめて祭壇に上げられた夜のことを、思い出した。何をされるのかもわからず、ただ大きすぎる祭衣の裾を握って、泣くまいと奥歯を噛んでいた、あの夜のことを。あのとき、誰ひとり、大丈夫だとは言ってくれなかった。怖かったね、とも。それから何年、わたしはあの夜を、たった一人きりで、繰り返してきたのだろう。
その子の傍らには、村の身なりをした女が、床に膝をついていた。ティナの、母親らしかった。青ざめた顔をして、それでも、娘の小さな背を、そっと祭壇のほうへ押しやろうとしている。
「……この子は、選ばれたんです」
女が、誰にともなく、呟くように言った。涙で、声が掠れている。
「御子様になれば、村は瘴気から救われるのだと……名誉なことなのだと、神官様が、そうおっしゃって。そうとでも思わなければ、わたしは、この子の手を、とても離せませんでした」
その言葉に、わたしは、胃の底が冷えていくのを感じた。この母親は、娘を売ったのではない。信じてしまったのだ。一人の子を捧げれば皆が救われるという、あの美しい嘘を。怪物は、王と神官だけでは、なかった。善良な人々もまた、美談に縋って、わが子を、あの祭壇へ差し出してしまう。——それこそが、この制度の、いちばん恐ろしいところなのかもしれなかった。
「……どうして」
声が、震えた。いつもなら整えられるはずの言葉が、形をなさないまま、ぼろぼろとこぼれ落ちていく。
「この子は、まだ、八つではありませんか。こんなに小さな子を、また、あの祭壇に……っ」
手にしていた扇が、指から力が抜けて、かたん、と床に落ちた。拾うことすら、思いつかなかった。
「御子よ、お声を荒らげなさいますな。これは神聖な——」
「神聖、ですって」
気づけば、わたしは、神官長の言葉を遮っていた。御子が神官長に逆らうことなど、これまで一度もなかったのに。
「あなたは、本当は、ご存じなのではありませんか。供物など、要らないということを。あの夜、わたしが拒んでも結界が崩れなかったのを、あなたも、見ていたでしょう。それを承知のうえで、この子を……」
セヴランの目が、また、あの夜のように、落ち着かなく揺れた。けれど、その口だけは、慇懃な笑みの形に貼りついたまま、ひとことも動かなかった。
わたしは、それ以上、その場にいられなかった。ティナを残して立ち去るのは、身を裂かれるようだったけれど、このままここにいては、自分が何を口走るか、わからなかった。わたしは、踵を返して、神殿を飛び出した。
——けれど、勢いよく飛び出したのはいいものの。
塔と祭壇と神殿のほかは、ろくに知らずに育ったわたしは、王宮の広い回廊で、たちまち、自分がいまどこにいるのかも、わからなくなってしまった。
涙でにじむ視界の先、見覚えのない角を曲がると、ひらけた中庭に出た。冬枯れのなかに、それでも丁寧に手入れされた小径と、石の噴水。王宮に、こんなに静かな場所があったのか。あれほど取り乱しているくせに、わたしは一瞬だけ、その景色に、ぼんやりと見惚れてしまった。
そうして、すぐに、心細さがぶり返してくる。戻る道も、わからない。
「——こんなところに、いらしたのですか」
声に振り向くと、ヴェルナー様が、回廊の向こうから歩いてくるところだった。
「ファルネーゼ嬢。神殿で行き違いになったと聞いて、探していました。……ずいぶん、遠くまで来られましたね」
その言い方に、責める色は、少しもなかった。わたしが方向音痴で迷子になったことを、笑いもせず、ただ、こうして見つけ出してくれただけだった。
彼は、わたしの隣に並んで、けれど、どうすべきだとも、こうしろとも、言わなかった。ただ、わたしの息がおさまるまで、何も言わずに、隣を歩いてくれた。決断を肩代わりしようとは、しない人だった。わたしが、自分で選べるように。その静かな距離が、いまのわたしには、どんな慰めの言葉よりも、ありがたかった。
「ヴェルナー様」
わたしは、足を止めないまま、ぽつりと言った。
「わたしは、もう、自分が降りるだけでは足りないのだと、わかってしまいました。あの子がいる限り、その次の子がいる限り……この制度がある限り」
ヴェルナー様は、すぐには相槌を打たなかった。やがて、低く、こう言った。
「それを終わらせるのは、たやすいことではありません。——ですが、もしあなたがその道を選ぶのなら、私は、あなたを一人にはしません」
一人にはしない。その言葉を、わたしは、胸の奥に、そっとしまった。
塔の一室で、ティナは、膝を抱えて座っていた。マレナが傍について、温かい飲み物を持たせている。マレナは、わたしを見ると、その目で、はっきりとこう語っていた。——もう、黙ってはいられません、と。
わたしは、ティナの前に膝をついて、その小さくて冷たい手を、両手でそっと包んだ。木彫りの兎が、わたしたちの手のあいだで、こつん、と小さく鳴る。
「……おうちに、かえりたい」
ティナが、消え入りそうな声で、そう呟いた。握りしめた兎を、さらに強く、胸に抱きしめて。
その一言が、胸の深いところに刺さった。帰りたいと願える場所すら、わたしは、もとから持っていなかった。けれど、この子には、帰る家がある。あの兎をくれた、誰かがいる。だったら、なおさら——。
「怖かったね」
わたしは言った。できるだけ、やさしく。
「もう、大丈夫。——あなたは、わたしのようには、させません。あの祭壇で、独りきりで削られる夜を、あなたには、ひと晩だって過ごさせない。約束します」
ティナの大きな目に、みるみる涙が盛り上がって、それから、こくり、と小さく頷いた。
その小さな頷きが、わたしのなかに残っていた、最後の迷いを、断ち切ってくれた。
わたし一人が、供物をやめさえすれば済む話だと、心のどこかで、思っていた。
けれど、違ったのだ。わたしが降りたところで、この制度がある限り、次のティナが、また、いくらでも選ばれてしまう。あの母親のように、わが子を差し出すことを名誉だと信じ込まされる人が、いる限り。
——この子を、わたしと同じ夜に置くくらいなら。わたしは、この制度を、それを支えてきた美しい嘘ごと、根こそぎ、終わらせる。




