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捧げる供物には、もうなりません  作者: 秋月 もみじ


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第6話 澱みの代償


辺境の空が、灰の色に滲みはじめていた。


拒んだ翌日のことだった。結界の間に駆けつけたわたしの目に飛び込んできたのは、あれほど澄んでいたはずの大結界の、北の一角だった。光の膜が、まるで古傷がひらくように、じわりと綻んでいる。その裂け目から、夜のあいだに溜まった瘴気が、外の空へとゆっくり滲み出していた。


瘴気が流れた先は、辺境の村アシュレだった。


衛兵が運んできた報せは、短くて、それでいて重かった。村を覆った瘴気で井戸が濁り、家畜が倒れ、年寄りと子どもから、息をするのも苦しいと訴える者が出はじめている、と。証拠のように差し出されたのは、灰色に枯れた竜胆の花が、たった一輪。


本来なら、秋の終わりに濃い青を咲かせるはずの花だった。それが、色をすべて吸い取られたように灰になって、わたしの手のなかで、脆く崩れていく。塔のたった一つの窓から、何度も眺めた花畑だった。触れることは、ついぞ一度も叶わなかった、遠い青。あの花が、こんな色になって、いま自分の手のなかにある。膝が、わずかに震えた。


正しいことをしたはずだった。それなのに——。


謁見の間に呼ばれたわたしを、陛下は青ざめた顔で待っていた。青ざめながら、その目だけは、どこか勝ち誇るような色をしている。


「見たか。お前が一晩、注ぐのをやめただけで、これだ。結界は綻び、民が死にかけている。これでもまだ、供物は要らぬなどと、戯言を抜かすつもりか」


陛下の声は、震えていた。怒りでというよりは、恐れで。


「……私とて、好きでお前を、あの祭壇に縛りつけているのではない」


ふいに、陛下の声の調子が、変わった。


「私が幼いころ、結界の漏れで、母が——王妃が、死んだ。あの夜、一人の御子が命を削って結界を保たなければ、王都は、まるごと瘴気に呑まれていた。私は、それをこの目で見て、育ったのだ。だからこそ、わかる。一人の娘の涙と、万人の命と、王が、どちらを選ばねばならぬかを」


その目には、たしかに、本気の信念があった。残酷なことを命じている自覚すら、ある。それでも、この人は信じきっているのだ。一人を祭壇に捧げることが、この国を救う唯一の道なのだと。——それが、書き換えられた一語の上に積み上げられた、空っぽの信仰だとも知らずに。


だからこそ、その姿は、ただの暴君よりも、ずっと怖かった。


「お前は、選ばれた御子だ。分をわきまえて、祭壇へ戻れ。それが、万人を生かす道なのだ」


いつもなら、わたしは目を伏せて、ただ受け流していた。けれど今日は、どうしてだろう、口が、勝手に動いていた。


「陛下」


わたしは、静かに顔を上げた。


「この大結界、わたしのほかに支えられる方は、いらっしゃいますか」


謁見の間が、しんと静まりかえった。


陛下は、答えなかった。答えられなかった、と言うほうが正しい。王家の方々が、祭壇の光に手を触れることすらできないのを、わたしは幼いころから、ずっと見てきた。万人を生かす道だと陛下が信じるその根を、たった一人の御子の祈りに、まるごと預けるしかない。——その矛盾を、ほかの誰でもない陛下自身が、いちばんよくわかっているはずだった。


陛下の頬が、屈辱に赤く染まり、すぐにまた青くなった。けれど、わたしの心は、少しも晴れはしなかった。言い返したところで、アシュレの空は、灰色のままだったからだ。


祭壇へ向かうわたしの足は、鉛のように重かった。


そこには、ヴェルナー様がいた。卓の上の、わたしが手をつけられないまま冷えてしまった香茶の碗に気づくと、彼は何も言わずにそれを下げて、湯気の立つ新しいものと、静かに取り替えた。


その碗の横には、いつかのバルカが、小皿に添えられていた。けれど、わたしは、それに手を伸ばすことが、どうしてもできなかった。


「……わたしだけが、甘いものを口にしてしまっていいのでしょうか」


あの蜜の味を知ってしまった舌が、いまはただ、後ろめたかった。わたしが甘さに頬をゆるめていたそのあいだにも、アシュレでは、年寄りや子どもが、息を詰まらせていたのだ。


ヴェルナー様は、それを無理に勧めはしなかった。ただ、温かい碗だけを、そっと、わたしの手のなかに収めてくれた。


「……わたしは、どうすればいいのでしょう」


問いというより、こぼれ落ちてしまった言葉だった。


「注げば、また澱みを増やします。拒めば、いま、村の人たちが死にます。わたしには、もう、どちらも選べない」


ヴェルナー様は、すぐに答えを押しつけたりはしなかった。


「どう選ぶかを、私が決めることはできません。これは、あなたの魔力で、あなたの選択ですから」


そう前置きしてから、彼は静かに続けた。


「ですが、いまこの瞬間、漏れ出している瘴気を抑えることなら、できます。——奪われるのでも、屈するのでもなく、もう一度だけ、私と」


迷っている時間は、どこにもなかった。わたしは、差し出された彼の手に、自分の手を重ねた。


銀と藍の光が、また撚り合わさって、綻んだ膜の一角へと伸びていく。流れ出していた瘴気がゆっくりと押し戻され、灰色の空に、わずかに青がにじみ返してきた。


けれど、共鳴のさなかで、わたしは、はっきりと感じてしまった。


結界の奥、竜脈のさらに深いところに、どろりと淀んだ、底の見えない澱みが、わだかまっている。あの夜、指を止めかけた、あの重たい何かだ。一夜や二夜の共鳴では、とても晴れきらない、途方もない深さ。何代もの御子が、無理やり捧げさせられ続けて、少しずつ、少しずつ、溜め込まれてきたもの。


わたしが要らないと証明しさえすれば、すべては終わるのだと、そう思っていた。けれど、本当の傷は、もっとずっと、深いところにあったのだ。


「……これは、あなたが拒んだせいではありません」


わたしの動揺を読み取ったように、ヴェルナー様が、低く言った。


「長いあいだ溜めこまれた澱みが、もう限界に近かった。無理強いの祈りを急にやめたことで、それが、いま一気に噴き出している。あなたのせいで結界が壊れているのではありません。むしろ、ずっと前から壊されてきたものが、ようやく膿を出しはじめたのです。——ただ、それを出しきるには、どうしても、時間がいる」


時間。けれど、いまのアシュレの民に、その時間を待つ余裕はない。


「ファルネーゼ嬢」


ヴェルナー様が、めずらしく、ためらいがちに口を開いた。


「……一つ、申し上げても、よいですか。あなたは、もう、これ以上この国に身を置くべきではない。あなたを供物と呼び、削りつづけてきた国です。——ヴェスリアへ、来てください。私が、必ず、お守りします」


それは、優しさだった。たぶん、この人にできる、精いっぱいの。けれど、わたしは、ゆっくりと、首を横に振った。


「……わたしが、ここから逃げたら。次は、また別の誰かが、あの祭壇に立たされます」


強制が澱みを生み、澱みが結界を蝕む。その仕組みが変わらないかぎり、わたしが消えたところで、神殿はまた、新しい御子を立てるだけだ。


「わたしだけが助かる道を、わたしは、救いとは、呼べません」


ヴェルナー様は、はっとしたように、口をつぐんだ。それから、深く、息を吐いた。


「……失礼を、言いました。私は、あなたを救うことばかり考えて、あなたが何を守ろうとしているのかを、見誤っていた」


めずらしく、この人が、自分の不明を認めた。その正直さが、なぜだか、わたしには嬉しかった。この人も、まちがえるのだ。そして、まちがえたと、ちゃんと言える人なのだ。完璧な救い手なんかより、そのほうが、ずっと信じられる気がした。


祭壇の下には、いつのまにか、アシュレから逃げてきた村人たちが、身を寄せ合っていた。すすけた顔をした彼らは、玉座の陛下にではなく、祭壇に立つわたしのほうへ、すがるような目を向けている。御子様、どうか、と誰かが掠れた声で呟いた。


注ぐか、拒むか。世界がその二つしか道を用意してくれないのなら、わたしは、まだ誰も知らない三つめの道を、自分の手で探すしかない。たとえ、それがどこにあるのかも、まだ何ひとつ、わからなくても。


わたしは、要らない存在なのだと、証明したかった。


なのに、現に、民が死にかけている。


——そのどちらもが、嘘ではなく、本当のことだった。

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