表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
捧げる供物には、もうなりません  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/12

第5話 降ります


「お注ぎなさい」と命じられて、わたしは生まれてはじめて、首を横に振った。


その週も、いつもとなにひとつ変わらない夜のはずだった。竜冠の祭壇に灯がともされ、神官長セヴランが供出の支度をととのえ、床の縁には、いつものように国王陛下が立っている。ただひとつ違っていたのは、わたしの胸のなかに、数日前に聞いたあの言葉が、まだ消えずに灯っていたことだけだった。


あなたの魔力は、あなたのものです。


「御子よ、何をしている。早く祭壇に手を」


セヴランの声が、わずかに尖った。


手は、勝手に祭壇へ伸びようとした。何年ものあいだ繰り返してきた動きが、わたしの体には染みついている。命じられれば従う、という以外の生き方を、わたしは知らなかった。伸びかけたその手を、わたしは反対の手で、ぎゅっと押さえつけた。白絹の祭衣の裾を握り込むと、皺になっていく絹の感触だけが、いやに生々しく指に残る。


「……お断りいたします」


口にした瞬間、自分の声がこんなにも小さいことに、わたし自身が驚いていた。


「今夜は、捧げません」


時が止まったような沈黙のあと、最初に動いたのは、陛下だった。


「——なんだと」


声が、低く尾を引く。


「供物。いま、なんと言った。お前は自分の役目を忘れたのか。お前が注がねば結界は崩れる。王都の民が、瘴気に呑まれて死ぬのだぞ。それが、お前の望みか」


「御子よ」


セヴランが、陛下をなだめるふりをしながら、わたしのほうへ一歩、近づいた。


「血迷われましたか。あなたさまの務めは、お生まれになったときから定まっているのです。竜冠の祈りを絶やせば、この国は終わります。——どうか、つまらぬ世迷い言は、お忘れなさいませ」


慇懃な声だった。けれど、その目の奥が、いつもよりずっと落ち着かなく揺れているのを、わたしは見てしまった。


崩れる、死ぬ、お前のせいだ。陛下とセヴランの言葉は、いつだってそうやって、わたしの逃げ道を、ひとつずつ塞いでいく。


怖くないと言えば、嘘になる。本でしか見たことのないあの瘴気の影が、まぶたの裏を黒くよぎった。けれど——もし、捧げることそのものが、あの影を呼んでいたのだとしたら。何年も、わたしが律儀に注いできたものこそが、この国を蝕んできたのだとしたら。


わたしは、震える声で、それでも言葉を継いだ。


「もし、わたしが捧げないことで、ほんとうに結界が崩れるのなら……そのときは、どうぞ、わたしを罰してください。けれど、その前に一度だけ、確かめさせていただけませんか」


「確かめる、だと——」


「お注ぎするのではなく、わたしの意思で、結界に応えてみます」


そう言って、わたしは、かたわらに控えていたヴェルナー様へ目を向けた。瘴気の調査のため祭壇に立ち会っていたその人は、小さくうなずいて、迷わずわたしの隣に立った。


「合わせます。——あの夜と、同じように」


彼の声は静かで、その静けさが、わたしの震えをほんの少しだけ、なだめてくれた。


差し出された手に、自分の手を重ねる。今度は、毟り取られるための祈りではなかった。捧げるのでも、奪われるのでもなく、ただわたしの意思で、結界へと応える。銀と藍の光が、あの夜のように撚り合わさって、祭壇から静かに立ちのぼっていった。


そして、結界は——崩れなかった。


それどころか、無理やり捧げさせられていたときよりも、ずっと澄んだ、深い銀藍の光をたたえて、しんと安定していくのだ。濁りなど、どこにもなかった。膜を押していた瘴気の圧が、まるで満ち足りたように、ゆっくりと引いていく。


——けれど、応える光がいちばん深くまで届いたほんの一瞬、わたしは、妙な手応えに、指を止めかけた。竜脈のずっと奥のほうに、この澄んだ光をもってしても、びくともしない、重たく沈んだ何かが、わだかまっている。冷たくて、底が見えない。それが何なのか、そのときのわたしには、まだわからなかった。けれど、いまはそれを確かめている場合ではない。膜は、もう、ちゃんと安定している。わたしは、ぞわりとした予感を、急いで胸の奥へ押し戻した。


いつもなら、ここまで応えれば、わたしは立っていられないほど消耗していた。けれど今夜は、指の先まで、まだ自分のものとしてちゃんと残っている。削られたのではなく、ただ、応えただけだったから。


祭壇付きの下級神官たちが、ざわめきはじめた。彼らが見ていたのは、陛下の怒りではなく、「御子が拒んでも、結界が崩れない」という、本来あってはならないはずの光景のほうだった。崩れない。ほんとうに、崩れない。その囁きが、さざ波のように、灯りの下を広がっていく。


陛下の顔から、みるみる血の気が引いていった。


セヴランは、何か言いかけて、けれど言葉にならず、ただ口の端を引きつらせたまま、その澄んだ光を見上げている。長いあいだ「御子の務めは絶対」と説きつづけてきたその人が、いま、絶対であったはずのものが音もなく崩れていくのを、止めることもできずに見ていた。


わたしは、その光景を、自分でも不思議なほど静かな心持ちで眺めていた。


拒んでも、結界は崩れなかった。


ということは——明日も、わたしは、捧げなくていいのかもしれない。明後日も。そのまた次の日も。


ふいに、足元がふわりと浮くような心地がした。明日、何をしてもいいのだと、生まれてはじめて気づいてしまったのだ。けれど、何をしていいのか、わたしは何ひとつ知らなかった。欲しいものも、行きたい場所も、これまで考えてみたことすらなかった。自由というものは、こんなにも、よるべないものなのか。それでも、その心もとなさは、毎晩少しずつ削られていく痛みより、ずっとましだった。


その夜、塔の一室で、わたしはようやく、こらえていた震えを、ほんの少しだけ漏らした。


「……怖かった、です」


ヴェルナー様の前で、わたしは生まれてはじめて、弱音というものを口にした。


「あのまま結界が崩れていたら、と思うと、今でも手が震えます。わたしは、たくさんの人を、死なせてしまっていたかもしれない」


言葉にすると、震えは止まるどころか、かえってひどくなった。長いあいだ、わたしは怖いという気持ちにすら、固く蓋をしてきた。供物に、恐れる資格などないのだと思っていたから。


ヴェルナー様は、慰めの言葉を急いで並べたりはしなかった。ただ、わたしの震える手を、責めるでもなく静かに見て、それからこう言った。


「怖いと感じながら、それでもあなたは、拒んだ。——それは、弱さではありません。私が知るかぎり、いちばん難しいことです」


その言葉だけは、わたしは長いあいだ、忘れないだろうと思った。


拒んでも、結界は崩れなかった。


なら、これまでわたしが捧げ続けてきたあの「務め」は、いったい、何だったのだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ