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捧げる供物には、もうなりません  作者: 秋月 もみじ


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第2話 燃料ではない


この国の結界は、澱んだ水のような匂いがした。


魔力に匂いなどないと笑う者もいるけれど、長く術に身を浸していれば、結界の良し悪しは理屈より先に鼻が教えてくれる。私の国ヴェスリアの結界は、よく晴れた朝の銀木犀に似た、澄んでよく通る香りを帯びている。それにくらべてこの王都リューゲンの大結界は、淀んで、どこか饐えた匂いがした。


竜冠の祭壇に魔導観測の羅針を向けながら、私はその匂いの出どころを探していた。昨夜、塔に着いたばかりの私が回廊から見上げたとき、祭壇から昇っていく祈りの光は、ある高さでふいに濁った。神聖な儀式の光がなぜ濁るのか、この国の誰一人として不思議に思っていない様子だったことのほうが、私にはよほど引っかかっていた。


私がはるばる国境を越えてここまで来たのは、虚の裂け目から漏れる瘴気がこの数年で目に見えて濃くなり、いずれ私の国にも及ぶと見たからだった。その源がこの淀んだ結界にあることは、もう疑いようがない。一人の娘から魔力を搾り取り、その娘が若くして燃え尽きるたびに次の娘を据える。それを神聖な務めと呼んでこの国は何百年も保ってきたのだと、宮廷の者たちは誇らしげに語った。私はうまく相槌を返せなかった。誇るべきところを、どう探しても見つけられなかったからだ。


「魔導師どの。観測は、そのあたりでよろしいかと存じます」


かたわらに控えた神官長セヴランは、終始やわらかな笑みを崩さなかった。崩さなすぎる、と言ってもいい。神聖を穢されては困りますと彼は何度も繰り返したけれど、磨き抜かれた祭壇をこれほど見られたくない人間というのは、たいてい、守りたいのが宝ではなく秘密のほうだった。


それに、おかしなことがもう一つある。この国の王も王太子も、祭壇には決して手を触れようとしないのだ。結界は王家が代々守り伝えてきたものだと聞かされたが、昨夜の王は床の縁に立って命じただけで、魔力の一筋すら動かしてはいなかった。守るというのと、自分の手で扱えるというのは、まるで別のことだ。国の根を一本の祈りに預けておきながら、その祈りを継ぐ血筋が魔力を持たないというのは、外から来た私の目には、ずいぶん心もとない話に映った。


     ◇ ◇ ◇


塔の一室で、私はようやくその人と正面から向き合った。


昨夜、あの祭壇で魔力を吸い上げられていた娘だった。白い祭衣のまま、青ざめた頬をして、それでも背筋だけはまっすぐに伸ばしている。神官たちは彼女を御子と呼び、王は供物と呼んだ。名のある公爵令嬢を、この国では誰一人、その名で呼ばないらしかった。


「ファルネーゼ嬢、と伺いました。少しだけ、あなたの魔力を診せていただけませんか」


「……供物の魔力で、お役に立つのでしたら」


その言い方が、私にはどうにも気に入らなかった。


「私は供物を診に来たのではありません。一人の魔導師の魔力を診せていただきたいと、そう申し上げています」


彼女はわずかに目を見開いて、それから何かをこらえるように、一度だけまばたきをした。


許しを得て、私は自分の魔力をそっと差し向けた。診断のための、ごく淡い接触のはずだった。触れた瞬間、私は思わず手を止めていた。


吸い上げられるばかりだと聞いていたその魔力は、こちらが触れても、奪おうとも奪われようともしていなかった。ただ何かを包んで守ろうとするように、静かで、それでいて芯のある律動でこちらに応えてくる。奪われるために生まれた力ではない。何かを、あるいは誰かを守るために巡る力だ。それを毎夜、無理やり吸い上げられ続けてきたのだと思うと、観測者であるはずの私の指先が、知らぬうちにこわばっていた。


——これは燃料ではない。守り手の共鳴だ。


私の鼓動が、ほんの一拍だけ調子を外した気がした。私はそれを観測の昂りだと思うことにして、使い込んで角の丸くなった革表紙の携帯魔導書を開いた。動揺すると記録に逃げるのは、昔からの悪い癖だった。


「あなたの共鳴は、私がこれまで診てきたどの術者よりも、安定しています」


言ってから、私は自分の物言いの味気なさに気づいた。称賛のつもりだったのに、まるで器の寸法でも測ったような響きになっている。案の定、彼女の顔は、それを褒め言葉として受け取ったようには見えなかった。私はもう少しましな言い方を探したけれど、結局、何も見つけられなかった。


「ファルネーゼ嬢。あなたは長くこの祭壇で祈ってこられた。——結界の様子に、何か気づいたことはありませんか」


彼女は少し迷ってから、ためらいがちに口を開いた。


「……祈りの光が、いつも同じ高さで濁るのです。幼いころからずっと、それが気にかかっていました。けれど、濁って見えるのはお前の目のせいだと、そう言われて育ちましたから」


私は手を止めた。宮廷の誰も気づかなかった、いや、気づかぬふりを続けてきたものを、毎夜その身を削られてきたこの娘だけが、ずっと正しく見ていたのだ。


「あなたの目は、何も間違っていません」


気づけば、私はそう口にしていた。


「むしろこの国で、結界を正しく見ていた目は、あなたのものだけです」


室の冷えのせいか、その肩がかすかに震えていた。魔力を多く失ったあとは体温が下がる。私は濃藍の外套を脱いで、ためらいよりも早く、彼女の肩にかけていた。これは理屈のある処置なのだと、わざわざ自分に言い聞かせながら。


「ヴェスリアでは、供物というものを使いません」


手のうちの羅針を見るふりをして、私は続けた。


「幾人もの魔導師が、それぞれ自分の意思で魔力を差し出し、その共鳴を環のように繋いで結界を保っています。たった一人を削り尽くさなければならない理由など、どこにもないのです」


彼女は何も答えなかった。けれど外套の下で、その手がほんの少しだけ強く握りしめられたのを、私は見ていた。


     ◇ ◇ ◇


異変が起きたのは、その直後だった。


誰も祭壇に触れていないというのに、塔の芯を伝って、大結界が低く軋んだのだ。


腹の底に響くような、長い軋み。続いてあの澱んだ水の匂いが一段と濃くなって、窓の外の空気がゆらりと歪んだ。国境の裂け目から瘴気が押し寄せてくるときの、あの圧だった。私は羅針を握り直した。針は、これまで見たこともない速さで、濁りのほうへ大きく振れていく。


この結界は、もう長くはもたない。


放っておけばいずれ瘴気は壁を越え、国境の村々を、そして私の国までも呑み込むだろう。それでもいま私の頭を占めていたのは、一国の存亡よりも、もっと小さくて、もっと許しがたい一つの事実のほうだった。


崩れかけたこの結界を、たった一人で支えさせられているのは——いまだ誰にも名を呼ばれない、目の前のこの娘なのだった。

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