第1話 捧げる夜
真夜中の祭壇はいつも氷の匂いがして、わたしはもう何年も、その匂いだけで一日の終わりを知るようになっていた。
竜冠の祭壇は祈りの塔のいちばん高いところにあって、磨かれた黒曜石の床がわたしの白い祭衣をぼんやりと冷たく映している。神官たちの低い詠唱が始まると胸の奥のあたりから何かを糸のように引き出される感覚がして、それが今夜も、わたしに与えられた務めだった。
「御子よ、竜冠に祈りを捧げなさい」
神官長セヴランの声は今夜もよく磨かれていて、慇懃で、わたしのためというよりはこの場の荘厳さのために整えられているのがわかる。わたしは目を伏せて手を組んだ。逆らう作法も、逆らったあとに行ける場所も、わたしははじめから持っていない。
引き出された魔力は淡い光になって祭壇を昇り、塔の天井を抜けて、王都リューゲンを覆う大結界へと吸われていく。
何年もこうして少しずつ削られてきて、削られた先の自分がどこへ行き着くのかを、わたしはあまり考えないようにしている。考えたところで返ってはこないのだし、返らないものを数えるのは、思っているよりずっと疲れることだった。
その光が、いつもの高さで濁る。
澄んだ白がふいに鈍く翳って、まるで綺麗な水に古い墨を一滴だけ落としたみたいに、にじんで広がっていくのだ。わたしはこれを物心ついたころからずっと見ている。塔の蔵書で読んだ他国の結界術には、正しい結界の光は澄んでよく通るのだと書かれていた。わたしのこの光は、よく通らない。
わたしが結界術などという小難しいものを知っているのは、この塔に、誰も気に留めなかった古い蔵書がそのまま残されていたからだった。供物に与えられたただ一つの窓は王都の屋根しか映さなくて、外の世界のことはほとんど、その黴くさい頁から覚えた。魔力も時間も命も王家のものだと取り上げておきながら、誰も、本だけは取り上げようとは思いつかなかったらしい。御子が文字を覚えて何になるとも考えなかったのだろう。おかげでわたしは、自分の身に起きていることの名前を、少しずつ知ってしまった。
だれにも言ったことはない。言ったところで御子の役目は祈ることであって、首をかしげることではなかったから。
詠唱がやむころには指の先から順に冷えていって、立っているだけでやっとになる。
肩にそっと毛布がかけられた。
「……お部屋にお戻りになれますか、リーディア様」
マレナだった。五十を越えたこの侍女は、わたしが青ざめて揺れる晩にいつもこうして毛布をかけるだけで、それ以上のことは何も言わない。言えないことがどれだけあるのかを、たぶんこの人がいちばんよく知っていて、だからその手は、毛布の縁を直すあいだ、ほんの少しだけ震えていた。
控えの間に戻ると、味のしない白い粥が湯気を立てて置いてあった。
清めのための食事なのだと教えられて育って、清めというのはどうやら、舌に何も覚えさせないでおくことらしかった。蜂蜜の味も熟れた果実の味も、わたしは言葉のうえでしか知らない。幼いころに一度だけ、甘いとはどういう味かと神官に尋ねたことがあって、御子に必要のない味です、と短く返されたのをいまでも覚えている。必要かどうかで味まで分けてしまえるのだと、そのときはじめて知った。
匙を取ろうとした手が止まったのは、回廊のほうから硬い足音が近づいてきたからだ。
◇ ◇ ◇
「——供物。まだそこにいたのか」
国王ジェラルド二世だった。
陛下はわたしを供物と呼ぶ。お目にかかるようになって何年も経つのに、ただの一度も、わたしの名を口にしたことがない。慣れたつもりでいて、それでも毎晩こうして胸の内でその回数を数えてしまう程度には、まだちっとも慣れていなかった。
わたしは粥の椀を脇に置いて膝を折った。
「陛下。夜分に、恐れ入ります」
「励んでいるな。お前の魔力は王家のものだ。この国を守るための、尊い務めなのだから」
わたしの魔力は王家のもので、たぶんわたしの時間も、その先にあったはずのわたしの一生も、ひとまとめにして王家のものなのだろう。持ち主がそう言うのだから、きっとそういうことになっている。
務め、という言葉を、陛下はいつもどこか気持ちよさそうに口にする。一人の身を削って万人を守るのは尊いことなのだと心から信じている人の声をしていて、たぶんそれは、本気で信じていなければとても言えない種類の言葉だった。
陛下は祭壇には近づかない。昇っていく光のほうへ手を伸ばすこともなく、いつだって床の縁に立って、ただ見ているだけだ。竜冠の祈りは王家が代々守り伝えてきたものなのだと聞かされて育ったけれど、守るというのと、自分の手で扱えるというのは、どうやら同じことではないらしかった。
そのことにも、わたしはずっと前から気づいている。気づいているということも、やはりだれにも言わない。
「……御心のままに」
そう答えておくのがいちばん波風が立たなかった。立てたくないというよりは、立てたところでわたしの行き先が一寸も変わらないことを、わたしはとうに知っていたのだ。
陛下は満足そうにうなずいて、衣擦れの音とともに去っていった。あとには氷の匂いと、冷めかけた白い粥と、濁ったまま天井へ消えていったあの光の残像だけが残された。
◇ ◇ ◇
その人に気づいたのは、陛下の足音が完全に遠ざかってからだった。
回廊の柱の陰に、見慣れない背の高い人影が立っている。濃藍の外套は王宮の誰のものとも仕立てが違っていて、襟もとには、この国の紋ではない銀の意匠が控えめに光っていた。隣国から来た客人らしいと、衛兵たちのひそめた話し声でなんとなく知っていた。国境の瘴気がこのところ目に見えて悪くなっていて、それを調べるために訪れた魔導国ヴェスリアの使節なのだと。
客人は、わたしのほうを見てはいなかった。
その人が見上げていたのは、祭壇から昇っていって、いつものとおりに濁っていくあの光だった。落ち着いた目をした人で、何かを値踏みするでもなく、ただ静かに、光の濁っていく一点をじっと追っている。
そうして、わずかに眉をひそめたのだ。
それはなんでもない仕草だったのに、わたしは息をするのを忘れていた。
この国の誰もが、あの濁りをあたりまえのものとして見上げてきた。神聖なものだということになっていて、清いものだということになっている。濁って見えるのはお前の目のせいだと、まだ幼かったころに一度だけそう口にして、ひどく叱られたこともあった。
それなのに、この国に来てまだ幾日も経っていないその人は、塔に上がったその夜のうちに、あの光を見上げて眉をひそめてみせた。まるでそこに、何かおかしなものをはっきりと見つけてしまったみたいに。
わたしがもう何年も、たった一人きりで見つけ続けてきたものを。
その人の唇が、かすかに動いた。誰に言うともない、独り言のような呟きだった。それなのに、詠唱の絶えた塔のなかは静まりかえっていて、その低い声は、不思議なくらいはっきりと、わたしの耳に届いてしまった。
「——これは、祈りなどではない」
ひとことだけ。それきり、その人は外套をひるがえし、衛兵に促されるようにして、回廊の奥へと消えていった。
祈りでは、ない。では、わたしがこの何年も、あの祭壇で捧げつづけてきたものは、いったい何だったというのだろう。冷えきっていたはずの喉の奥が、なぜだか小さくつかえて、わたしはしばらく、その場から動くことができなかった。




