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捧げる供物には、もうなりません  作者: 秋月 もみじ


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第3話 初めて、応えられた


裂け目の向こうで、夜より暗いものが、ゆっくりと息をした。


その夜、塔の鐘が刻も告げずに打ち鳴らされた。緊急を報せるためだけのその音を、わたしは生まれてはじめて聞いた。鐘の響きは祈りの塔の石壁を伝って、骨の奥にまで届いてくる。神官たちに急かされて結界の間へ駆け込むと、北の空が、ぐずりと膿んだような色に染まっていた。


虚の裂け目から噴き出した瘴気が、大結界の一角を内側からぐうっと押し上げている。光の膜が、過ぎた重みに耐えかねて、ぎし、ぎし、と軋んでいた。


膜のすぐ向こうで、何かがうごめいていた。輪郭のさだまらない、夜よりも暗い影。それも一つではなく、幾つも。あれが膜を破って王都へなだれ込めば眠っている民がどうなるのか、本の中の絵でしか世界を知らないわたしにさえ、いやというほどわかった。


結界の間は、ふだんの静けさが嘘のように殺気立っていた。神官たちが祭壇のまわりを慌ただしく行き交い、衛兵たちは武器を握りしめて北の空を見上げている。誰もが、わたしが祭壇に立つのを待っていた。いつものように。わたしが身を削りさえすれば、それで何もかも収まるのだと、疑いもせずに。


「御子よ、捧げなさい。もっと、ありったけを」


神官長セヴランが、いつもの磨かれた声をかなぐり捨てて叫ぶ。


わたしは祭壇に手を置いて、いつものように魔力を引き出させた。引き出されるというより、根こそぎ毟り取られていく感覚で、指の先がたちまち痺れて白くなっていく。喉が渇いて、息が浅くなる。それでも、どれだけ捧げても、膜のきしみはいっこうに止まらなかった。


足りない、ともっと欲しがる。


削られて倒れかけているこの身に、この人たちはいつだって、もっと差し出せと言うのだ。空になった器を逆さに振りまわして、まだ出るはずだ、まだ出るはずだと、振り続けるみたいに。何年ものあいだわたしを神聖だ尊いと呼んでおきながら、その神聖さというのは、どうやらわたしが何かを絞り出しているあいだだけのものらしかった。


絞り出すものが尽きかけて、膝から力が抜けていく。視界の端が、すうっと暗んでいった。その、ときだった。


「——おやめください。そのやり方では、結界は応えません」


ヴェルナー様だった。濃藍の外套を肩に戻したその人が、止めようとする神官たちを割って、わたしのかたわらに片膝をついた。


「魔導師どの、なりません、御子の務めに他国の方が立ち入られては——」


「いまその務めとやらで、結界は崩れかけている。違いますか」


セヴランの言葉を、ヴェルナー様は静かに、それでいて一歩も退かずに遮った。それから声をやわらげて、わたしのほうへ向き直る。


「ファルネーゼ嬢。捧げるのではありません。合わせるのです」


「合わせる、とは……」


「あなたの魔力を、無理に押し出さないでください。私のものに、ただ重ねてくだされば、それでいい。——大丈夫です。私が、います」


前例のないことだった。神官たちがなおも何かを喚いていたけれど、膜はもう限界で、迷っていられる時間はどこにも残されていなかった。わたしは差し出された彼の手のひらに、震える自分の手を重ねた。


その瞬間、これまで一度も経験したことのないことが起きた。


いつもなら一方的に吸い上げられていくだけの魔力が、彼の魔力に触れたとたん、引かれるのをやめたのだ。押し出すのでも毟り取られるのでもなく、こちらの律動に向こうが応え、向こうの律動にこちらが応える。重なって、響き合って、二人のあいだで魔力が、やわらかくほどけ合っていく。


わたしの銀の光と、ヴェルナー様の藍の光が、撚り合わさるように渦を巻いて、祭壇から高く立ちのぼった。それは、毎夜わたしが独りきりで捧げてきたあの濁った光とは、似ても似つかない眺めだった。触れ合った手のひらから、彼の魔力の確かな鼓動が伝わってくる。落ち着いていて、それでいて、わたしを下から支えようとするように力強い。一人ではないということが、こんなにも違うものなのだと、わたしははじめて知った。


胸の奥を、温かいものではなく、もっと鋭いものが走り抜けていった。電流に似た、それでいて少しも痛くない昂揚。削られるたびにただ失われていくだけだったはずの魔力が、いま生まれてはじめて、わたしのなかを巡って戻ってくるみたいだった。


満ちる、という感覚を、わたしはこれまで知らずにいた。


幼いころ、塔のたった一つきりの窓から一度だけ見た雪解けを思い出した。凍りついて二度と動かないものだと思っていた川面が、遠い春の音を立ててほどけ、ゆっくりと流れはじめた、あの朝のことを。


これは、捧げて消えるためのものではないのかもしれない。誰かに差し出して尽きるためではなく、もしかしたら、わたしのものなのかもしれない。そんな考えが、共鳴の熱に押し上げられるようにして、生まれてはじめて胸に浮かんだ。


ほどけ合った光が膜の一角に届くと、あれほど軋んでいた結界が、嘘のように静まりかえっていった。濁りの一つもない、澄んだ銀藍の光。膜の向こうでうごめいていた幾つもの影が、たじろぐように後ずさって、裂け目の奥へと沈んでいく。


詰めていた衛兵たちが、誰からともなく息を呑むのが聞こえた。こんなに澄んだ結界の光は見たことがない、と誰かが声をふるわせて呟いている。わたしも、はじめて目にする光だった。毎夜わたしが捧げてきたあの濁った光が、ほんとうはどこかまちがっていたのだと、その澄んだ輝きが、どんな言葉よりもはっきりと教えていた。


神官たちは、声もなく立ちつくしていた。あれほど捧げよと急き立てた強制の祈りではなく、よその国の魔導師と手を合わせただけで結界が鎮まってしまったことを、どう呑み込めばいいのか分からない顔をしている。ただセヴランだけが、唇をきつく引き結んだまま、わたしとヴェルナー様の重なった手を、まばたきもせずにじっと見つめていた。


光がしずまってからも、わたしたちはしばらく動くことができなかった。


重ねた手のひらには、共鳴の余韻がまだとくとくと残っていて、指の先を熱くしている。ヴェルナー様もまた、いつもの観測の手帳を開くことすら忘れたように、ただ重なったままのわたしの手を見つめていた。その横顔が、わたしと同じくらい何かに打たれているように見えて、わたしはなぜだか、その人から目をそらすことができなかった。


卓の上では、いつのまにか香茶の碗から湯気が消えて、すっかり冷たくなってしまっている。


わたしは、手のなかに残ったその熱を、そっと握りしめた。


毎晩、惜しいと思う間さえ与えられないまま奪われ続けてきた魔力を——わたしは生まれてはじめて、惜しいと思った。もう少しだけ、この熱を、手放したくないと。

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