終章 映らないひと【TRUE END】
(ここから終章は三つに分岐する。本編はエンディングA。別版「トゥルーエンド」「バッドエンド」は、第四章の最後の一行から続けて読む)
「待って」
お嬢様が、言った。
ニナの腕は、振り上げたまま止まった。
花瓶は重くて、冷たくて、腕が震えた。
お嬢様は鏡を見ていた。
鏡の中の十二歳の自分ではなく、その後ろの、花瓶を抱えたニナを。
「さっき、六年見ていたと言ったわね」
「——はい」
「『きれいね』の日も。十八歳の朝も」
「はい」
「あなたは、見ていない」
ニナは、意味がわからなかった。
見ていた。
鍵穴から。扉の外から。
それは、さっき自分の口で言ったことだった。
「ニナ。この鏡の中にしか、あなた、いないのよ」
「玄関広間の鏡に、あなたは映らなかったでしょう。お母様がいた。廊下の窓にも。花瓶のガラスにも。——あなたは、この鏡にしか映らない。わたしが、あなたを見るための鏡にしか」
ニナは、鏡を見た。
鏡の中に、ニナがいた。
白いエプロン。
十七歳の頬。
花瓶を抱えた腕。
それは確かにそこにいて、けれどニナは、今朝、玄関広間の鏡の前を通ったときのことを、思い出した。
鏡の中にニナはいなかった。
奥様がいた。
奥様がどこにでもいるからだと、思った。
違ったのだ。
「お嬢様」
「わたしの覚えている分だけ、あなたはいるの。この家が、わたしの知っている分だけの大きさしかないのと、同じように」
お嬢様は、言った。
十二歳の声で。
十八歳の目で。
「最初から。四度とも」
床板の継ぎ目が、広がった。
天井から埃が落ちた。
ニナはそれを、聞いていなかった。
「あの冬のことを、話すわ」
お嬢様は、鏡から目を離さなかった。
離したら、ニナが消えると知っているみたいに。
「お母様が鋏を上げて、あなたはわたしの前に立った。動かなかった。『どきなさい』と言われても。三度目の朝と、同じだった。——お母様はもう老いていて、昔のような力はなかったけれど、鋏は鋏だった」
ニナは、何も言わなかった。
言葉が、どこにもなかった。
「医者は来なかった。呼びに行く人がいなかった。わたしが、朝まで押さえていた。どこを押さえればいいのか、わからなかった。わからないまま、全部を押さえようとした。——あなたは、朝までもたなかった」
水の底が、見えた。
濁っていたものが、晴れた。
晴れた水の底に、それはあった。
ずっとそこにあったのだ。
手を伸ばすたびに濁ったのは、ニナが見たくなかったからではなかった。
お嬢様が、見せたくなかったからだ。
「そのあと、鏡に布を掛けたのは、わたし。あなたがいなくなったから、自分で掛けた。お母様の最後の日も、わたしひとりで階段を降りた。『きれいね』と言われて、ひとりで聞いた。十八歳の朝、庭で薔薇を切ったのもわたし。青い花瓶に活けたのも。部屋に運んで、『今日は何の日だったかしら』と言って——」
お嬢様の声が、初めて、揺れた。
「答えたのは、わたしの中の、あなた」
鏡の中のニナが、揺れていた。
輪郭が。燭台の火みたいに。
「お母様に見てほしかったのは、本当よ。殴るためでも、って言ったのも、本当。でも、全部じゃない。——この朝にはあなたがいるの。花瓶を持って入ってきて、鏡越しに目が合って、『お嬢様、綺麗です』って言って、言ってから慌てて花を見る。ニナ、わたし、この朝に戻りたかったのは、それが見たかったからでもあるの」
ニナは、花瓶を下ろした。
腕が、重かった。
重いということが、ニナにはまだ、あった。
「私は」
ニナは、言った。
声が、出た。
「お嬢様の、記憶ですか」
「記憶じゃないわ」
お嬢様は、首を振った。
「——わたしが、覚えているあなた」
長い時間だった。
部屋が軋んで、窓の外で鳥が落ちて、台所の湯気と書斎の滲みと玄関広間の奥様たちが、どこかで一枚ずつ剥がれていく音がした。
それでもその時間は、長かった。
ニナは、鏡を見た。
鏡の中のニナが、ニナを見返した。
十七歳の顔。傷のない頬。
この六年、お嬢様が覚えていてくれた顔。
ニナ自身はもう、六年前にこの顔を失っていて、ここにあるのはお嬢様が覚えていてくれた分だけの、ニナだった。
この家が、お嬢様の知っている分だけの大きさしかないように。
「お嬢様」
「——なに」
「それでも、割ります」
お嬢様の目が、閉じかけて、開いた。
「割ったら、あなたは」
「はい」
「二度と」
「二度と」
同じ言葉だった。
さっき、お嬢様の顔のことで交わした言葉と。
お嬢様はそれに気づいて、気づいたまま、何も言わなかった。
「私は六年、見ていました」
ニナは、言った。
「鍵穴から。扉の外から。ずっと、お嬢様を。——それは本当です。お嬢様が覚えていてくださるから、本当です。私が本当にいたかどうかとは、関係なく」
お嬢様の目から、何かが落ちた。
「布を掛けたのが、お嬢様の手だったのなら」
ニナは、花瓶を持ち上げた。
「外すのも、お嬢様の手です。私の手じゃなくて。——この鏡はもう、お嬢様の顔を映すためのものじゃなくて、私を映すためのものになっています。それは、だめです。お嬢様が十八歳で、お嬢様の顔がお嬢様のもので、それを見るのに、鏡の中に私がいる必要はありません」
「必要よ」
「ありません」
ニナは、言った。
「お嬢様が、私を覚えていてくださるので」
花瓶を、振り上げた。
鏡の中のお嬢様が、こちらを見ていた。
鏡の中のニナが、こちらを見ていた。
二人とも、ほんの少しずつ遅れて、瞬きをした。
「お嬢様」
「——なに」
ニナは、言った。
旦那様の言葉で。
旦那様が知らなかった言い方で。
「お誕生日、おめでとうございます」
音は、今までのどれよりも、高かった。
部屋を横切ったのは、たぶん、三歩だった。
布を落として、鏡を見て、戻りたいと言って——それから自分の右手が、窓辺のテーブルの青い花瓶を掴んで、三歩で鏡台に戻った。
その三歩のあいだに、四度の朝があった。
鏡を割ったのは、ミラの手だった。
右手に、青いガラスの首が残っていた。
縁がぎざぎざで、血が垂れていた。
ミラの血だった。
寒かった。
埃の匂いがした。
薄曇りの光が、床の破片を照らしていた。
灰色のシーツ。水。
白と淡い桃色の薔薇。
蔦の彫刻に囲まれた、何も映さない空洞。
部屋には、ミラしかいなかった。
扉のところにも。
鏡台の横にも。窓辺にも。
六年、誰もいなかったのと同じように、誰もいなかった。
「ニナ」
ミラは、言った。
答える声は、なかった。
ミラは、花瓶の首を床に置いた。
小さな音がした。
膝をついた。
右手から血が垂れて、濡れた床に混ざった。
ミラは左の袖を、右手に押し当てた。
どこを押さえればいいのか、知っていた。
「——大丈夫」
自分で、言った。
ニナの言い方で。
床に、破片があった。
手のひらほどの大きさの、楕円の縁の一部。
蔦の彫刻の影が、まだ少しだけ残っている。
薄曇りの光を受けて、それは、ミラの顔を映していた。
破片の中で、知っている女が、こちらを見ていた。
頬に三本。額に一本。
こめかみから顎へ、長く一本。
ミラは、それを見た。
長い時間。
目を逸らさなかった。
破片の中の女の後ろには、埃の舞う部屋と、空の鏡台と、窓の光があるだけで、ほかには何もなかった。
誰も、いなかった。
それでも、見ていられた。
知っている顔だった。
それだけだった。
ずっと怖かったのに、それだけだった。
ミラは、薔薇を拾った。
一本ずつ。
白と、ごく淡い桃色。
破片のあいだから、刺さらないように。
全部で、十本と少し。
活けるものは、なかった。
鏡も、花瓶も。
この家には、もう何もない。
持って歩けばいい。
階段を降りた。
赤い絨毯。埃をかぶった手すり。
玄関広間の暖炉の上に、鏡の形をした白い四角。ミラは立ち止まらなかった。
扉を開けた。
風が、吹いた。
庭の薔薇が揺れて、葉が鳴って、塀の上の鳥が羽を広げて、飛んだ。
塀の向こうの木立は、ただの、冬の終わりの裸の木だった。
塀の向こうに何があるのか、ミラは知らなかった。
聞いたことは、あった。
村へ続く道。川。
春になると川べりに咲く、名前のない白い花。
いちばん下の弟は、まだ字が読めないこと。
六年のあいだに、鍵穴越しに、扉の外から、何度も。
行ってみよう、と思った。
名前のない花を、見に。
「今日、何の日か知ってる?」
誰にともなく、ミラは言った。
風が吹いた。
答える人は、いなかった。
「——お嬢様の、お誕生日ですよ」
自分で、答えた。ニナの言い方で。
それが、ミラの十八歳の誕生日だった。
いちばんきれいな日では、なかった。
鳥が、飛んだ。




