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終章 おめかし【BAD END】

「ニナ、やめて」


叫ばなかった。


お嬢様は、鏡を見たまま、静かに言った。

叱る声でも、怯える声でもなかった。

皿を割ったニナに「痛くなかった?」と訊くときの声だった。


「お願い」


ニナの腕が、下りた。


下ろしたのではなかった。

下りたのだ。

六年、お嬢様の「お願い」を、ニナは一度も断ったことがなかった。

鍵穴の外で。扉の内側で。

手が、それを覚えていた。

頭が割ろうと決めても、手が覚えているほうが、早かった。


お嬢様が、振り返った。


ニナの手から、花瓶を取った。

両手で。

重そうに。

それを窓辺のテーブルに、置いた。

朝の光が青いガラスを透かして、水底のような色を、テーブルの上に落とした。


「ここにいて」


お嬢様は、言った。


「何もしなくていいの。見ているだけでいいから」


床板の継ぎ目が、閉じていった。


天井から落ちていた埃が、途中で止まって、戻った。窓の外で、塀から落ちかけていた鳥が、羽を広げたまま、塀の上に戻った。

廊下の奥から、ことり、と音がした。

マーサの持つやかんの、湯気が、また立ちはじめる音だった。


お嬢様は、鏡台の前の椅子に、座った。


鏡の中のお嬢様が、先に笑った。


鏡の外のお嬢様が、少し遅れて、笑った。


「ニナ」


「——はい」


「花を活けて。いつもみたいに」


ニナは、台所へ降りた。

三段目は鳴らなかった。

マーサは「遅い」と言った。

やかんから湯気が立っていた。

調理台の上に、赤い薔薇があった。

触れると濡れていて、水の匂いはしなかった。ニナはそれを抱えて、階段を上がった。


青い花瓶に、水を注いだ。

赤い薔薇を、一本ずつ入れた。

花瓶は、割れなかった。


「お嬢様、綺麗です」


鏡越しに目が合ったとき、ニナはそう言っていた。口が、言った。


お嬢様は、笑った。


扉が、開いた。


足音は、しなかった。

奥様は扉のところにいて、それから鏡台の前にいた。化粧をしていない顔。

白くて、目の下だけが薄く青い。

瞬きをしない目が、床を見て、花瓶を見て、お嬢様を見た。


長い時間だった。


お嬢様は、息を止めていた。

見られているあいだ、ずっと。

見られて、いた。


「——誰が」


声が、唇より早く届いた。


「誰が、その顔を」


お嬢様は、下を向かなかった。

鏡の中の、奥様の目を見ていた。

奥様は鋏を取った。

お嬢様は、動かなかった。

「動かないで」と言われる前から、動かなかった。


ニナは、見ていた。


見ているだけでいい、と言われた。

何もしなくていい、と。

前に出なかった。

手首を掴まなかった。

背中の後ろに押し込まなかった。

それをしても戻る。

それをしなくても戻る。

どちらでも、お嬢様は、ここにいる。


鋏が、開いて、閉じた。


鏡の中のお嬢様の頬に、紅で引いたような線が、一本。


お嬢様は、泣いていなかった。


笑っていた。


「ニナ」


お嬢様が言った。

鏡の中から。

奥様の手が、額へ動くあいだに。


「目を閉じて」


ニナは、目を閉じなかった。


「お願い」


ニナは、目を閉じた。


布の擦れる音がした。


開けると、寒かった。


埃の匂いがした。

薄曇りの光が、床を照らしていた。

床には、灰色のシーツが一枚、落ちていた。

それだけだった。


破片は、なかった。


窓辺のテーブルに、青い花瓶があった。

割れていなかった。

水が張られて、白と、ごく淡い桃色の薔薇が、活けてあった。


鏡台の、楕円の枠の中に、鏡があった。

割れていなかった。

蔦の彫刻が、朝の光を鈍く返していた。


お嬢様が、その前に座っていた。


濃い色の、簡素な服。

肩の下まで、まっすぐに下りた髪。

ニナのいる扉のところからは、背中しか見えなかった。


「お嬢様」


ニナは言った。


お嬢様は、振り返らなかった。


ニナは部屋を横切った。

三歩だった。

お嬢様の横に立って、顔を見た。

頬に三本。額に一本。

こめかみから顎へ、長く一本。

十八歳の顔。

目は開いていた。

瞬きをしていた。

息をしていた。


笑っていた。


ほんの少しだけ。

笑うと痛そうに頬を押さえる、あの笑い方で。

けれど手は膝の上に置かれたまま、頬を押さえなかった。

痛くないみたいだった。


「お嬢様」


ニナは、お嬢様の肩に手を置いた。

温かかった。

お嬢様は、鏡を見ていた。


ニナは、鏡を見た。


鏡の中に、お嬢様がいた。


白いレースの襟。結い上げた髪。

白い小さな花。奥様のものより淡い色の口紅。

傷のない頬。

十二歳のお嬢様が、鏡の中で、少し笑っていた。


その後ろに、メイドが立っていた。


白いエプロン。十七歳の頬。

青い花瓶を抱えた腕。

鏡の中のメイドは、鏡の外のニナを見なかった。

ニナがいることに、気づいていなかった。

十二歳のお嬢様だけを見ていた。

鏡越しに目が合って、何か言って、慌てて花に目を戻した。


鏡の中のお嬢様が、笑った。


鏡の外のお嬢様が、少し遅れて、笑った。


ニナは、鏡から目を離した。

鏡の外のお嬢様の顔を見た。

十八歳の、傷のある顔。

笑っていた。

鏡の中の十二歳の自分を見て。

鏡の中の、十七歳のニナを見て。


鏡の外のニナのことは、見ていなかった。


ニナは、床のシーツを拾った。


埃を吸って、重たく垂れた。

それを、楕円の鏡に掛けた。

手が震えて、二度落として、三度目で掛かった。


お嬢様は、シーツを見ていた。


同じ顔で。同じ笑い方で。

灰色の布の、向こう側を。


ニナは、お嬢様の横に、膝をついた。


床は冷たかった。

窓の外で、風が吹いていた。

葉が揺れて、音がした。

塀の上に鳥が一羽止まっていて、羽を広げて、飛んでいった。

お嬢様は、それを見なかった。


ニナは、そこにいた。


それから。


朝になると、ニナは庭に出て、薔薇を切る。

白と、ごく淡い桃色。

それを青い花瓶に活けて、階段を上がる。

三段目は鳴らない。

この階段は、もともと鳴らない。


お嬢様の部屋の扉を開けると、鏡台の前に、お嬢様がいる。


シーツは、床に落ちている。


毎朝、落ちている。

ニナが夜に掛けて、朝に落ちている。

誰が落とすのか、ニナは訊かなかった。

訊く相手が、いなかった。


ニナは花瓶を窓辺のテーブルに置いて、昨日の薔薇を捨てて、今日の薔薇を活ける。

花瓶は割れない。

お嬢様の後ろに立って、鏡を見ない。


お嬢様の肩に、手を置く。

温かい。


「今日は、お嬢様のお誕生日ですよ」


ニナは、毎朝、そう言う。


お嬢様は、笑っていた。

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