終章 割れる【NORMAL END】
※ここから先、物語は三つのエンディングに分岐します。
NORMALではこのままお楽しみいただけます。
「TRUE」「BAD」を読む場合は、それぞれの別版を開き、第四章の最後の一行から続けてお読みください。
音は、今までのどれよりも、高かった。
花瓶が割れた。鏡が割れた。
どちらが先だったのか、わからなかった。
青と銀が同時に砕けて、朝の光を跳ね返して、それはほんの一瞬、綺麗だった。
燭台の火が、消えた。
止まったのではなかった。
消えたのだ。
床板の継ぎ目が開いて、部屋が内側へ折れて、窓の外の庭が紙のように丸まって、お嬢様の背中と、十二歳の顔と、白い小さな花と、扉と、廊下の奥様たちと、台所の止まった湯気と、全部が一枚になって、一枚が二枚に、四枚に、数えられない数に——
割れた。
寒かった。
ニナは、立っていた。
右手に、青いガラスの首が残っていた。
花瓶だったものの、いちばん上の部分。
縁がぎざぎざで、そこから血が垂れていた。
ニナの血だった。
右手の指のあいだを伝って、手首へ、袖の中へ。
左手には、古い傷があった。
手のひらを横切る、白い線。
埃の匂いがした。
部屋は、暗かった。燭台はなかった。
窓から薄曇りの光が入って、床の埃を照らしていた。
床板は、継ぎ目が開いていなかった。
古くて、乾いていて、ところどころ色が変わっていた。
床に、灰色のシーツが落ちていた。
その横に、青いガラスの破片と、水と、薔薇。白と、ごく淡い桃色の。
鏡台の、楕円の枠の中に、鏡はなかった。
蔦の彫刻だけが、何も映さない空洞を囲んでいた。
破片は、床じゅうに散っていた。
お嬢様が、立っていた。
鏡台の前に。背中を向けて。
白い寝間着ではなかった。
濃い色の、簡素な服。髪は結い上げていなかった。
肩の下まで、まっすぐに。
ニナは、花瓶の首を、床に置いた。
小さな音がした。
お嬢様が、振り返った。
頬に三本。額に一本。
こめかみから顎へ、長く一本。
引き攣れた白い線の走る、十八歳の顔が、ニナを見た。
ニナは、その顔を知っていた。
六年、見てきた顔だった。
「ニナ」
お嬢様が言った。
「はい」
部屋を横切ったのは、たぶん、三歩だった。
お嬢様が布を落として、鏡を見て、何かを言って、その横顔から目の色が消えるのを見て、ニナは窓辺のテーブルの花瓶を掴んで、三歩で鏡台に着いた。
その三歩のあいだに、四度の朝があった。
「手が」
お嬢様が、言った。
「——大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
お嬢様は、膝をついた。
ニナの右手を取って、自分の袖を押し当てた。
濃い色の布が、もっと濃い色になった。
どこを押さえればいいのか、お嬢様の手は知っていた。
六年、知らなかった手が、知っていた。
「ニナ、花瓶で殴ったの」
「はい」
「鏡を」
「はい」
「——どうして」
ニナは、答えようとして、答えられなかった。
どこから話せばいいのか、わからなかった。
三段目の音から話せばいいのか。
グラスを落とした食料庫から。
それとも、鏡の中でニナを見ていた、包帯の顔から。
「お嬢様が、戻りたいとおっしゃったので」
ニナは、それだけ言った。
お嬢様は、しばらく黙っていた。
それから、ニナの手を押さえたまま、床に目を落とした。
破片が、そこにあった。
手のひらほどの大きさの、楕円の縁の一部。
蔦の彫刻の影が、まだ少しだけ残っていた。
薄曇りの光を受けて、それは、お嬢様の顔を映していた。
お嬢様は、それを見た。
長い時間だった。
目を逸らさなかった。
ニナは何も言わなかった。
言うことは、もう全部、言ってあった。
鏡の中で。四度目の朝に。
破片の中で、知っている女が、こちらを見ていた。
「——知らない人かと思っていたの」
お嬢様が、言った。
「六年、見なかったから。布を外したら、知らない人がいると思っていた。鏡の中に」
「はい」
「知ってる顔だった」
お嬢様は、言った。
「それだけ。ずっと怖かったのに、それだけだった」
ニナは、何も言わなかった。
言わなくていいと、思った。
お嬢様の目が、ニナの左手に移った。
手のひらの、白い線。
「それ、お母様の鋏の」
「はい」
「あの冬の」
「はい」
「わたしのせいね」
「違います」
ニナは、言った。
「私が掴んだんです。私の手です。奥様のものでも、お嬢様のものでもありません」
お嬢様が、顔を上げた。
傷のある顔が、少しだけ、動いた。
笑ったのだと、ニナにはわかった。
笑うと痛そうに頬を押さえる、あの笑い方で。
「ニナ、それ、わたしに言ったのと同じ言い方」
「はい」
「ずるいわ」
「はい」
お嬢様は、立ち上がった。
床の薔薇を、一本ずつ拾った。
白と、ごく淡い桃色。
水に濡れて、破片のあいだに落ちていたのを、丁寧に、刺さらないように。
全部で、十本と少し。
ニナも手伝おうとして、お嬢様に「手を押さえてて」と言われた。
「活けるものが、なくなったわね」
「青いのは、もうありませんから」
「ほかの花瓶も、全部、ないわ。鏡と一緒に、お母様が」
「はい」
「じゃあ」
お嬢様は、薔薇を胸に抱えた。
「持って歩けばいいわ」
階段を、降りた。
表の階段だった。
赤い絨毯は色褪せて、手すりの彫刻は埃をかぶっていた。
三段目は、どこも鳴らなかった。
この階段は、もともと鳴らない。
玄関広間の、暖炉の上の壁に、鏡の形をした四角があった。
周りより少しだけ白い。
そこに何があったのか、知らなければわからない。暖炉の上には、何もなかった。
お嬢様は、立ち止まらなかった。
扉を開けた。
風が、吹いた。
薄曇りの空の下で、庭の薔薇の植え込みが揺れていた。
葉が揺れていた。音がした。
塀の上に鳥が一羽止まっていて、二人が出てくるのを見て、羽を広げて——
飛んだ。
塀の向こうへ。
木立のほうへ。
木立は、同じ形の木が同じ間隔で続いてなどいなかった。
ただの、冬の終わりの、裸の木だった。
「ニナ」
お嬢様が、言った。
薔薇を抱えて。
風に髪を乱されて。
顔の傷を隠さずに。
「今日、何の日か知ってる?」
ニナは、答えた。
マーサの言葉で。
マーサが知らなかった言い方で。
「お嬢様の、お誕生日ですよ」
「そう」
お嬢様は、言った。
「十八歳」
それから、庭へ降りた。
塀のほうへ、歩いていった。
ニナは右手を押さえたまま、その後ろを歩いた。
塀の向こうに何があるのか、ニナは知っていた。
村へ続く道と、川と、春になると名前のない白い花が咲く、川べり。
お嬢様は、まだ知らなかった。
それが、ミラの十八歳の誕生日だった。
いちばんきれいな日では、なかった。
鳥が、飛んだ。




