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第四章 鏡の中の誕生日

 音は、もう止まなかった。


 目を開ける前から鳴っていた。

目を開けても鳴っていた。

屋根裏の低い天井。梁の蜘蛛の巣。

窓の外は、まだ暗い。

ニナは身体を起こして、耳を押さえなかった。

押さえても無駄だと、知っていた。


 知っている、ということに、もう驚かなかった。


階段を降りる前に、ニナは屋根裏の小さな窓の前に立った。

曇ったガラスが一枚。

向こうに、まだ明けない庭。


 左手の拳を、ガラスに打ちつけた。


音が、ニナの中で、全部を割った。


断片・四


 お嬢様が十七歳の冬のことは、まだ濁っている。


奥様が鋏を上げて、私は——

そこから先は、水の底だ。

手を伸ばすと濁る。

濁ったまま、一年が過ぎる。

わかっているのは、その一年、お嬢様が鏡に布を掛けていたこと。

掛けたのが私ではなかったこと。


 奥様は、春を越えなかった。


最後の月、奥様はお嬢様を呼んだ。

五年ぶりに、名前で。

お嬢様は階段を降りた。私は、見ていた。


 奥様は寝台の上で、お嬢様の顔を見た。


長い時間だった。

傷のある顔を、瞬きをしながら、見た。

あの朝のような目ではなかった。

何かを探す目でもなかった。

ただ見ていた。それから、言った。


「きれいね」


お嬢様は、何も答えなかった。


 奥様は三日後に亡くなった。

葬式には誰も来なかった。

六人の旦那様の誰も。

指輪は箱に入ったまま、誰も開けなかった。


屋敷は静かになった。


 お嬢様の十八歳の誕生日の朝、お嬢様は庭に出た。


六年ぶりだった。

誰も止める人がいなかった。

お嬢様は庭の薔薇を切った。

白と、ごく淡い桃色。

それを、玄関広間の暖炉の上から降ろした青い花瓶に活けた。

誰のものでもなくなった花瓶に。


それを両手で持って、お嬢様は階段を上がった。

自分の部屋へ。鏡台の前へ。


私は、見ていた。


どこに立っていたのかは、思い出せない。


花瓶を窓辺のテーブルに置いて、お嬢様は、鏡台の灰色の布に手をかけた。


「今日は、何の日だったかしら」


誰にともなく、お嬢様は言った。


「——お嬢様の、お誕生日ですよ」


布が、落ちた。


楕円の鏡が、十八歳のお嬢様の顔を映した。

頬に三本。額に一本。

こめかみから顎へ、長く一本。

六年ぶりに、お嬢様はそれを見た。


長い時間だった。


それから、お嬢様は言った。


「戻りたい」


小さな声だった。

誰にも聞かせない声だった。


「あの朝に。——あの朝の、お母様が扉を開けるまでに」


鏡が、応えた。


鏡の中で、十二歳のお嬢様が、笑っていた。


ニナは、屋根裏の床に座っていた。


左手の甲から、血が垂れていた。

割れた窓から、音のない庭の冷気が入ってきた。

それでも耳の奥の音は、もう鳴っていなかった。

鳴る必要がなくなっていた。

全部、ここにあった。


 この日を繰り返しているのは、お嬢様だ。


十二歳のお嬢様ではない。

十八歳の、鏡の前の。


ニナは立ち上がった。

エプロンの裾を裂いて、左手に巻いた。

それから、階段を降りた。


三段目を、踏んだ。


音が、しなかった。


ニナは立ち止まって、もう一度、踏んだ。

何も鳴らなかった。

三か月、毎朝鳴っていた音が。

四度の朝、知っていると思った音が。

この家はもう、それを覚えていなかった。


 台所の扉を開けた。


「遅い」


マーサが言った。

やかんから湯気が立っていた。

立ったまま、動かなかった。

白い、形のある煙が、やかんの口から天井へ向かって、止まっていた。


「今日はお嬢様の。遅い。今日はお嬢様の。遅い。今日は」


マーサの口が動いていた。

目は動いていなかった。

ニナはマーサの横を通った。

マーサはニナを見なかった。


 調理台の上の薔薇は、赤かった。


触れると、濡れていた。

水の匂いが、しなかった。


ニナはそれを取らなかった。


玄関広間に、鏡があった。


暖炉の上。青い花瓶の後ろの壁。

六年後には日に焼けていない四角だけが残る、その場所に、大きな鏡が掛かっていた。

ニナがこの家に来たときからあった鏡だ。

ニナは毎朝、その前を通って、自分の髪が乱れていないか確かめていた。


 鏡の中に、ニナはいなかった。


奥様がいた。


化粧をしていない顔。

白くて、目の下だけが薄く青い。

瞬きをしない目が、鏡の中から、玄関広間を見ていた。

ニナが右へ動いても、左へ動いても、奥様の目はニナを追わなかった。

ニナを見ていなかった。

この家の、どこかを見ていた。


 ニナは、暖炉に近づいた。


青い花瓶が、そこにあった。


手を伸ばした。

身体が、拒んだ。

喉が冷たくなり、歯の根が合わなくなり、腕が止まった。


ニナは、止まった腕を、もう一方の手で掴んで、前へ押した。


指が、花瓶に触れた。

冷たかった。重かった。

両手で抱えた。

花瓶のガラスの曲面に、奥様の顔が小さく映っていた。

ニナはそれを見ないようにして、階段を上がった。


廊下の窓ガラスの一枚一枚に、奥様がいた。


書斎の扉が開いていて、机の前に、人の形をした滲みが座っていた。


「おめでとう」


と、それは言った。


「おめでとう。おめでとう。おめでとう」


ニナは立ち止まらなかった。


お嬢様の部屋の扉を開けると、鏡の中にお嬢様がいた。


マーサはいなかった。


お嬢様はもう、できあがっていた。

結い上げた髪。白い小さな花。

白いレースの襟。奥様のものより淡い色の口紅。

誰がしたのか、わからなかった。

朝が、そこから始まっていた。


鏡の中のお嬢様が、ニナに気づいて、笑った。


鏡の外のお嬢様が、それより少し遅れて、笑った。


「ニナ」


お嬢様が言った。


「花瓶、持ってきたのね」


ニナは、窓辺のテーブルに花瓶を置かなかった。

両手で抱えたまま、お嬢様の後ろに立った。

鏡の中に、二人の顔が並んだ。

似ていなかった。


 ニナは、言った。


「お嬢様。今日は、四度目です」


お嬢様は、鏡の中のニナを見ていた。

笑うのをやめなかった。


「知ってる」


ニナは、息を吸った。

知っていた。知っていて、聞くのは別のことだった。


「いつから、ですか」


「最初から」


お嬢様は、鏡から目を離さなかった。


「わたしが望んだんだもの。この朝を。——ニナが花瓶を割って、わたしが椅子から立ち上がりかけて、マーサが肩を押さえて。全部、知ってた。ニナが『なんでもないです』って言うのも」


「どうして、止めなかったんですか」


「止めたら、戻れないでしょう」


お嬢様は、言った。

十二歳の声で。


「この朝は、お母様が扉を開けるまでは、いちばんきれいなの。マーサが笑って、お父様が花をくれて、ニナが『綺麗です』って言ってくれて、鏡の中に、傷のないわたしがいて。そのあとに何があっても、ここに戻れば、全部ある。何度でも」


「そのあとに、奥様が来ます」


「来るわ」


「毎回、来ます。お嬢様の顔を」


「知ってる」


お嬢様は、鏡の中のニナを、まっすぐに見た。


「でも、来てくれるでしょう」


ニナは、何も言えなかった。


「お母様は、わたしを見ないの。五年。六年。廊下ですれ違っても、食事を運ばせても、見ないの。でもこの朝だけは、扉を開けて、わたしを見る。長い時間。息ができなくなるくらい、長く。——ニナ、わたし、あれが欲しいの」


お嬢様の声は、震えていなかった。


「殴るためでも。切るためでも。あの人が、わたしを見てくれる朝が」


扉が、開いた。


足音は、しなかった。


奥様は、扉のところにいた。

それから、鏡台の前にいた。

間がなかった。

歩いた気配がなかった。

絵が一枚抜けたみたいに、そこにいた。

化粧をしていない顔。

白くて、目の下だけが薄く青い。

瞬きをしない目。


奥様の目は、鏡を見ていた。


鏡の中に、三人の顔があった。

お嬢様。ニナ。その後ろの、奥様。


鏡の中の奥様の顔に、傷があった。


頬に三本。額に一本。

こめかみから顎へ、長く一本。


ニナは、鏡から目を上げて、本物の奥様を見た。

傷はなかった。

鏡に目を戻した。傷があった。

鏡の中の奥様は、お嬢様と同じ顔で、お嬢様と同じ傷で、瞬きをせずに、お嬢様を見ていた。


「——誰が」


声が、唇より早く届いた。


「誰が、誰が、誰が、その顔を、誰が」


奥様の手が、鋏を取った。

鏡台の上の、銀の鋏。

奥様の口が「誰が」と動き続けていた。

もう、質問ではなかった。


ニナは、花瓶を抱えたまま、動かなかった。


前に出なかった。

奥様の手首を掴まなかった。

お嬢様を背中の後ろに押し込まなかった。

それをしても、戻る。

知っていた。


ニナは、奥様を見なかった。


鏡の中の、お嬢様を見た。


「お嬢様」


ニナは、言った。


「奥様は、もういらっしゃいません」


鋏が、止まった。


開いたまま。

お嬢様の頬の、すぐ手前で。


「去年の春に。寝台の上で。お嬢様の顔を見て、『きれいね』と言って、三日後に」


「やめて」


お嬢様が、言った。

鏡の中で。


「お嬢様は、十八歳です。十二歳じゃありません。この朝から、六年経っています。奥様はもういなくて、旦那様たちもいなくて、マーサは村に帰って、屋敷には誰も——」


「やめて」


「お嬢様が、布を外したんです。十八歳の誕生日に。庭の薔薇を切って、青い花瓶に活けて、この部屋に運んで。『今日は何の日だったかしら』と言って。それから鏡を見て、『戻りたい』と——」


「やめて!」


お嬢様が、振り向いた。


鏡の外で。十二歳の顔で。

鏡から目を離して、ニナを見上げた。


鋏が、床に落ちた。


奥様が、いなかった。


扉のところにも、鏡台の前にも。鏡の中にも。

鏡の中にいたのは、お嬢様の背中と、花瓶を抱えたニナと、それだけだった。

奥様の形をしていたものは、お嬢様が鏡から目を離した瞬間に、見ていた人がいなくなった絵のように、なくなっていた。


部屋が、軋んだ。


天井から、埃が落ちた。

床板の継ぎ目が、少しずつ開いていくのが見えた。

窓の外の、止まった庭の、止まった鳥が、傾いた。


「どうして言うの」


お嬢様が、言った。


「どうして。ニナは、わたしのために戻ってきてくれたんじゃないの。わたしが戻りたいって言ったから、一緒に来てくれたんじゃないの。それなのに、どうして、全部——」


「お嬢様のためだからです」


ニナは、花瓶を床に置いた。

膝をついた。

お嬢様の目の高さに、なった。


「奥様が見てくれる、とおっしゃいました」


「……言ったわ」


「見ていません」


ニナは、言った。


「奥様は、お嬢様を見ていませんでした。あの朝も。四度とも。奥様が見ていたのは、お嬢様の顔の向こうにいる、誰かでした。『あの人の顔ね』と、奥様は言いました。お嬢様に向かって言ったのではありません。私の顔を切ったときも、同じことを言いました。奥様は、顔がそこにあれば、誰でもよかったんです」


お嬢様の目が、揺れた。


「お嬢様が欲しいとおっしゃったものを、奥様は、一度も持っていませんでした。息ができなくなるくらい長く見られたのは、お嬢様ではなくて、お嬢様の顔です」


「——同じことよ」


「違います」


ニナは、お嬢様の手を取った。

小さくて、冷たかった。


「私は、六年、見ていました」


お嬢様は、何も言わなかった。


「鍵のかかった扉の外から。鍵穴から。本を運ぶとき。ケーキを運ぶとき。髪を切られた日。奥様が『きれいね』と言った日。十八歳の朝、庭で薔薇を切っていたとき。ずっと、見ていました。お嬢様の顔ではなくて、お嬢様を。——傷がついてから六年、私はお嬢様の顔を、一度も、顔以外のものとして見たことがありません」


お嬢様の目から、何かが落ちた。

口紅の色を、少しだけ、溶かした。


「それでも、綺麗なんて、言わなくていいです」


ニナは、言った。


「言われたくて、ここにいるのではないでしょう」


お嬢様は、長いあいだ、ニナの顔を見ていた。

十二歳の目で。十八歳の目で。

それから、床の花瓶を見た。

青いガラス。

朝の光を透かして、水底のような色。


「それで、割るの」


「はい」


「割ったら、この顔は」


「なくなります」


「二度と」


「二度と」


お嬢様は、鏡を振り返った。


鏡の中で、十二歳のお嬢様が、こちらを見ていた。

白いレースの襟。結い上げた髪。

白い小さな花。傷のない頬。

鏡の外のお嬢様より、ほんの少しだけ、遅れて、瞬きをした。


床板の継ぎ目が、広がった。

窓の外で、止まっていた鳥が、羽を広げたまま、塀から落ちた。


ニナは、花瓶を持ち上げた。


重かった。

冷たかった。

身体はもう、拒まなかった。


「ニナ」


お嬢様が、言った。鏡を見たまま。


「はい」


ニナは、花瓶を振り上げた。


※ここから先、物語は三つのエンディングに分岐します。

NORMALではこのままお楽しみいただけます。

「TRUE」「BAD」を読む場合は、それぞれの別版を開き、第四章の最後の一行から続けてお読みください。

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