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第三章 覆われた鏡

 耳の奥で、何かが割れる音がしていた。


目を開けても、音は止まなかった。

屋根裏の低い天井。梁の蜘蛛の巣。

窓の外は、まだ暗い。

ニナは身体を起こして、耳を押さえた。

押さえても、音は内側から鳴っていた。

高くて、短くて、水の匂いがする音。


何の音なのか、わからなかった。


知っている、ということだけが、わかった。


 階段を降りる。三段目は跨いだ。

考えてからではなく、足が勝手に。

胸の奥の石は、もう石ではなかった。

もっと重くて、もっと冷たい何かが、肋骨の下に座っていた。


台所の扉に手をかけて、ニナは立ち止まった。


「遅い」


声に出してみた。扉を開ける。


「遅い」


マーサが言った。

やかんから湯気が立っていた。

マーサはニナが先に言ったことに、気づいていなかった。気づく顔をしていなかった。


「マーサさん」


「今日はお嬢様のお誕生日ですよ」


「マーサさん、昨日は、何の日でしたか」


マーサの手が、やかんの取っ手の上で止まった。ほんの一瞬。

それから、いつもどおりの顔で、ニナを見た。


「今日はお嬢様のお誕生日ですよ。花束が届いてるから、活けて持っていきなさい」


調理台の上に、花束があった。


 白と——


ニナは目を凝らした。

白い薔薇は、数えるほどしかなかった。

残りは桃色で、桃色というには、濃すぎた。

花びらの縁が、乾いた血の色をしていた。

マーサはそれを見ていない。

マーサは何も見ていない。


 ニナは花束を取らなかった。


棚から、グラスを一つ下ろした。

厚手の、何の変哲もない水飲みグラス。

それを持って、食料庫へ入った。

扉を閉めた。

石の床に、朝の光が細く差していた。


 耳の奥の音。


知っているのに取り出せないものが、自分の中にある。

それだけはわかる。

手が覚えている。足が覚えている。胸の重さが覚えている。

頭だけが、何も覚えていない。


そして、この音。


ニナは、グラスを持った手を、石の床の上に差し出した。


指を、ひらいた。


落としたのではなかった。

ひらいたのだ。意図して。


音が、ニナの中で、何かを割った。


 ——青い花瓶。

「それは奥様の」


しゃがんだ膝。扉が開く。

「……なんでもないです」


 ——ガラスの水差し。銀の鋏。

「下がりなさい、ニナ」


シーツを掛ける手

「目を閉じて」


燭台の火が止まる。


 ——そして。


灰色の布を掛けられた鏡。鍵のかかった扉。

扉の前で、鍵穴に耳を当てる自分。

エプロンの下に隠した本。冷めたスープ。

皿に残ったケーキの跡。鋏。

耳の上で切り揃えられた髪。

「髪はまた伸びるから」


玄関広間の壁に残った、鏡の形の、日に焼けていない四角。

奥様の手が、年ごとに細くなっていく。

奥様の指輪が、年ごとに増えていく。

「要らないから」


二年。三年。四年。

誰も来ない部屋で、お嬢様が窓から庭を見ている。

五年。


 ——そして。


そこで、途切れた。


ニナは、石の床に座り込んでいた。

手のひらに、小さな破片が刺さっていた。

血が一筋、手首のほうへ伝った。

それを見て、ニナは、泣いていることに気づいた。


 予感では、なかった。


 これは、記憶だ。


私はこの日のあとを、六年、生きている。


お嬢様の顔に、あの傷がついたあとを。

鍵のかかった部屋の外で。

灰色の布の、こちら側で。


ニナは、破片を手のひらから抜いた。

立ち上がった。


二度、やり直して、二度とも駄目だった。

花瓶を割らなくても、傷はついた。

鋏だった。鋏がなければ、たぶん別のものだ。

奥様が部屋に入った時点で、もう遅い。


なら、部屋から出す。


奥様が来る前に。この家から。


お嬢様の部屋の扉を開けると、鏡の中にお嬢様がいた。


マーサが髪に花を挿している。

白い小さな花。白いレースの襟。奥様のものより淡い色の口紅。


ニナは、今度は、まっすぐに見た。


傷のない顔だった。


六年、ニナが見てきた顔ではなかった。

ニナが知っているのは、頬に三本、額に一本、こめかみから顎へ長く一本、引き攣れた線の走る顔だ。

笑うと痛そうに頬を押さえる顔だ。

それが、なかった。

そこにあるのは十二歳の、ただの、綺麗な女の子の顔で、ニナはそれを今日という日にしか見たことがないのだと、わかった。


「ニナ? どうしたの。花は?」


鏡の中のお嬢様が、少し笑って、それから笑うのをやめた。

ニナの顔を見たからだ。


「泣いてるの?」


「お嬢様」


ニナは、部屋を横切った。

マーサの横を抜けて、お嬢様の前に膝をついた。


「一緒に、来てください。今すぐ」


「——どこに」


「どこでもいいです。この部屋の外。この家の外」


「何を言っているの、ニナ」


マーサの声は、低くなかった。

叱る声ではなかった。ただ平らだった。

マーサの両手が、お嬢様の肩に置かれていた。


「お嬢様はそのままで」


「マーサさん、お願いです」


「お嬢様はそのままで」


「マーサさん」


「お嬢様はそのままで」


同じ高さ、同じ速さで、三度。

マーサの目は、ニナを見ているのに、ニナを見ていなかった。

ニナはマーサの指を、お嬢様の肩から一本ずつ、剥がした。

蝋のように冷たくて、抵抗しなかった。

剥がし終えても、マーサは両手を肩の形に浮かせたまま、そこに立っていた。


お嬢様は、それを見ていた。


それから、ニナの手を取った。


「いいわ。行く」


どうして、とニナは訊きそうになって、やめた。

お嬢様の手は、小さくて、少し汗ばんでいた。


 使用人の階段を、降りた。


屋根裏から台所へ続く、ニナが毎朝降りる階段だ。

三段目が鳴る。

降りきって、扉を開ければ台所で、台所を抜ければ裏口で、裏口の先は庭で、庭の先は——


扉を開けた。


鏡の中に、お嬢様がいた。


お嬢様の部屋だった。

マーサが、両手を肩の形に浮かせたまま、立っていた。

花瓶のない窓辺のテーブル。

白い小さな花が、床に一つ落ちていた。


ニナは扉を閉めた。

もう一度開けた。お嬢様の部屋だった。


「ニナ」


「大丈夫です。別の道から」


表の階段を使った。

赤い絨毯。手すりの彫刻。

一階へ降りて、玄関広間へ——


二階の廊下だった。

お嬢様の部屋の扉が、少し先に開いていた。

中に、マーサの背中が見えた。


「ニナ、ここ——」


「大丈夫です」


大丈夫ではなかった。

ニナは廊下の窓に駆け寄って、鍵を外して、押し開けた。


庭があった。


薔薇の植え込み。芝生。遠くに塀。

塀の向こうに、木立。

空は薄曇りで、音がなかった。

鳥が一羽、塀の上に止まっていた。

止まったまま、羽を広げていた。

広げたまま、動かなかった。

風がなかった。葉が一枚も揺れなかった。

塀の向こうの木立は、よく見ると、同じ形の木が同じ間隔で、ずっと続いていた。


「わたし」


お嬢様が、ニナの隣で、言った。


「塀の向こうに、行ったことがないの」


ニナは、窓を閉めた。


この家は、お嬢様の知っている分だけの、大きさしかない。


そう思ってから、思った自分に、寒気がした。


「ニナ」


「——はい」


「お父様のところへ、行ってみる?」


旦那様は、夜明け前に町へ発ったはずだった。

それでも、二人は書斎へ向かった。

廊下は今度は、まっすぐに書斎へ続いた。

扉は開いていた。


旦那様は、いた。


机の前に立っていた。

足元に、革の鞄が一つ、口を開けて置いてあった。

鞄には、何も入っていなかった。

旦那様がこちらを向いた。


顔が、なかった。


ないのではなかった。あるべき場所にあった。

けれどそこは、雨の日の窓みたいに滲んでいて、目がどこにあるのか、口がどこにあるのか、見ようとすると流れた。

ニナはその人を、三か月、毎日見てきたはずだった。

思い出せなかった。


「ミラ」


旦那様は言った。

声だけは、優しかった。


「誕生日おめでとう」


それだけだった。


「旦那様。お願いです。お嬢様を、連れて出てください。この家から。今日だけでいいんです。奥様が——奥様が、お嬢様に——」


旦那様は、窓のほうを向いた。


小さく、頷いた。

廊下ですれ違うときの、あの頷きだった。

それから、もう振り向かなかった。

滲んだ横顔が、窓の外の動かない庭を、見ていた。


「旦那様——」


「いいの、ニナ」


お嬢様が、ニナの袖を引いた。


「この人は、いつもこうだから」


怒っていなかった。

悲しんでもいなかった。

知っていることを言う声だった。

ニナはその声のほうが、滲んだ顔よりも怖かった。


廊下の奥から、足音がした。


階段を上がってくる、低い踵の音。

急いでいない。急ぐ必要がないからだ。


ニナはお嬢様の手を引いて、書斎を出た。

廊下を走った。

どの扉を開けても、開く扉は一つしかないことを、ニナはもう知っていた。


鏡の中に、お嬢様がいた。


マーサは、いなかった。

花瓶のないテーブル。床に落ちた白い花。

鏡台の上に、銀の鋏が、きちんと揃えて置いてあった。


ニナはお嬢様を部屋の奥へ押しやって、扉を背にして立った。


足音が、扉の前で止まった。


扉が開いた。


奥様だった。


化粧をしていない顔。

白くて、目の下だけが薄く青い。

それは三度とも同じで、けれど今朝の奥様は、どこかが違っていた。

ニナにはすぐにわからなかった。

奥様が床を見て、テーブルを見て、お嬢様を見て、それから——

ニナを見たとき、わかった。


瞬きを、していなかった。


「——誰が」


声が、唇より少し早く、届いた。


「誰が、その顔を」


「奥様」


ニナは、言った。


「お嬢様は、何もしていません」


奥様の目が、ニナの上で止まった。


「この顔は、お嬢様のものです。奥様のものでも、旦那様のものでも、ほかの誰のものでもありません。奥様がどう思われても、それは——」


「どきなさい」


「どきません」


奥様が、鏡台へ歩いた。

鋏を取った。ニナは動かなかった。

お嬢様が、ニナの背中の後ろで、小さく息を吸った。


「お母様」


お嬢様が言った。


「わたしが——」


お嬢様が、ニナの脇をすり抜けようとした。

奥様のほうへ。

ニナはその腕を掴んで、引き戻した。

自分の背中の後ろへ押し込んだ。

背中にお嬢様の額が当たるのを感じた。


奥様が、目の前に立った。


「どきなさい」


「どきません」


鋏が、開いて、閉じた。


熱かった。


頬だった。

ニナは目を閉じなかった。

閉じたら、お嬢様が前に出る。

それだけを考えていた。

奥様の顔が、すぐそこにあった。

瞬きをしない目。

その目は、ニナの顔を見ていた。

見ているのに、見ていなかった。

何か別のものを見るための目で、ニナの顔は、そこにたまたまあっただけだった。


「どきなさい」


額。


「どきなさい」


こめかみ。


濡れたものが、顎を伝った。

何本だったのか、ニナは数えなかった。

背中の後ろで、お嬢様の額が、ニナの背骨に押し当てられていた。

震えていた。ニナは震えなかった。

震えたら、お嬢様が前に出る。


奥様の手が、止まった。


奥様は、ニナの肩越しに、お嬢様を見た。


長い時間だった。


お嬢様の顔には、何もなかった。

奥様はそれを見ていた。

瞬きのない目で、見ていた。

何かを探すように。

見つからないように。


「——あの人の顔ね」


奥様は、ニナの顔を見て、そう言った。


それから、鋏を鏡台の上に戻した。

元あった場所に、きちんと揃えて。


「片付けなさい」


誰に向かって言ったのか、わからなかった。


「全部」


扉が、閉まった。


ニナは、膝をついた。


床が近づいて、それから、お嬢様の両手が、ニナの顔を挟んだ。

小さくて、汗ばんでいて、震えていた。


「ニナ。ニナ、顔が」


「——大丈夫です」


「大丈夫じゃない。ニナ、顔が、たくさん」


お嬢様が、ニナのエプロンを外して、ニナの顔に当てた。

どこを押さえればいいのかわからないほど、傷は多かった。

お嬢様の手は、場所を知らなかった。

知らないまま、全部を押さえようとした。


「お嬢様の顔じゃなくて、よかった」


ニナは言った。本当にそう思った。

お嬢様は、答えなかった。


お嬢様の目から、何かが落ちて、ニナの頬の傷に沁みた。


ニナは、お嬢様が泣くのを、初めて見た。


晩餐は、取りやめになった。


新しいメイドが階段で転んだのだと、奥様はそう言った。

医者は来なかった。

マーサが、黙って、包帯を巻いた。

マーサの指は正確で、冷たかった。

「花瓶を割ったからよ」

と、マーサは言わなかった。

何も言わなかった。


 夜更け、ニナはお嬢様の部屋にいた。


追い出されなかった。

奥様は何も言わなかった。

ニナが部屋にいることを、気にしていないみたいだった。

それが、ニナには、いちばん恐ろしかった。


 鏡台には、何も掛けなかった。


代わりに、ニナが前に立った。

鏡に背を向けて。

お嬢様が寝台から鏡を見ようとすれば、ニナの身体が間にあるように。


「ニナ」


お嬢様は、寝台に座っていた。

白い寝間着。

顔には、何もなかった。

髪はまだ、半分だけ結い上がっていた。


「鏡を見るだけよ。わたしの顔は、今日は何もないのに」


「それでも、だめです」


「どうして」


「——わかりません」


ニナは、本当のことを言った。


「でも、見ると、戻るんです」


お嬢様は、しばらく黙っていた。

燭台の火が一つ、揺れていた。


「戻るって、どこに」


「この朝に」


お嬢様は、何も言わなかった。

驚いた顔を、しなかった。

ニナは、それに気づいた。

気づいて、気づかなかったことにした。


「ニナは、戻りたくないの?」


「戻りたくないです」


「どうして」


「お嬢様が、傷つくから」


「今日は、傷ついてないわ」


「はい」


ニナは言った。


「だから、今日で、終わりにしたいんです」


お嬢様は、ニナの顔の包帯を見ていた。

長いあいだ。

それから、小さく頷いて、横になった。壁のほうを向いた。


「おやすみ、ニナ」


「おやすみなさい、お嬢様」


ニナは、鏡に背を向けたまま、立っていた。


足が痛くなった。頬の傷が脈打った。

燭台の蝋が短くなった。

お嬢様は動かなかった。

寝息が聞こえた。

本当に眠っているのかどうか、ニナにはわからなかった。

わからないまま、立っていた。

終わりにする、と思っていた。

今日で。この朝を、二度と——


 燭台の火が、動くのをやめた。


ニナは、振り返った。


お嬢様は、寝台にいた。

壁のほうを向いて、動かなかった。


鏡の中に、お嬢様がいた。


立っていた。

鏡の中で。包帯の顔で。

白い寝間着で。ほどけた髪で。

鏡の中のお嬢様は、鏡の外の、寝台の上の、傷のないお嬢様を見ていなかった。


ニナを見ていた。


包帯の下から、こちらを。


ニナは、鏡の中に、自分の姿を探さなかった。

探す時間はなかった。

鏡の中のお嬢様の目が、燭台の止まった火を映して、それから部屋ごと、扉ごと、絵のように平らに——


 ニナは、天井を見ていた。


屋根裏の、低い天井。

梁の蜘蛛の巣。


手を、顔に当てた。

何もなかった。

つるりとした、十七歳の頬だった。

それなのに指が、勝手に、頬に三本、額に一本、こめかみから顎へ長く一本、傷の位置をなぞった。


傷を防いでも、戻る。


その言葉だけが、どこから来たのかわからないまま、胸の重い場所に、残っていた。


じゃあ——

この日を繰り返しているのは、誰の望みだ。


 階段を降りる。三段目は跨いだ。


台所の扉を開ける。


「遅い」


マーサが言った。

やかんから湯気が立っていた。


「今日はお嬢様のお誕生日ですよ。花束が届いてるから、活けて持っていきなさい」


調理台の上の花束は、赤かった。


白い薔薇は、一本も、なかった。


断片・三


 お嬢様が十七歳の冬、奥様は寝込むようになった。


五人目の旦那様は、前の年に屋敷を出ていた。

六人目は来なかった。

奥様の部屋には鏡がなく、医者が来るたび、奥様は医者の目を見ないで話した。

自分の顔がそこに映っていると、思っていたのかもしれない。


 私は二十二歳になっていた。

お嬢様の部屋に通うことを、もう誰も止めなかった。

止める人が、いなくなっていた。

マーサは前の年に暇を取って村へ帰り、残った使用人は私と、料理番の老人だけだった。


その夜、奥様はひとりで階段を上がってきた。


杖をついて。寝間着のまま。

髪は白いものが混じって、化粧をしていない顔は、白くて、目の下だけが青かった。

手に、鋏を持っていた。

鏡台の、銀の鋏。いつ持ち出していたのか、私は知らなかった。


 お嬢様は、寝台に座っていた。

奥様を見て、立ち上がらなかった。

逃げなかった。

十七歳のお嬢様の顔には、五年前の傷が、引き攣れた白い線になって残っていた。

奥様はその顔を見て、言った。


「まだ、あの人の顔ね」


五年、顔を見なかったのに。

傷をつけても、髪を切っても、鏡を外しても、まだ。


奥様が、鋏を上げた。


私は——


私は、そこで、思い出せない。


思い出せないのではなく、思い出すことを、何かが止めている。

手を伸ばすと、水の底に沈んで、濁る。

あの朝、花瓶の音を聞いたときと、同じ濁り方で。


わかっているのは、一つだけだ。


そのあとの一年を、お嬢様は、鏡に布を掛けて過ごした。


掛けたのは、私ではなかった。

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