第二章 花瓶を割らない日
目が覚めたとき、ニナは両手を握りしめていた。
何かを持っていた手だった。
冷たくて、丸くて、重たいもの。
指をひらいても、そこには何もなかった。
屋根裏の低い天井。梁の蜘蛛の巣。窓の外は、まだ暗い。
階段を降りる。
三段目を、ニナは跨いだ。
跨いでから、どうしてそうしたのかわからなくなって、二段目と四段目のあいだで立ち止まった。
胸の奥の引っかかりが、昨日よりも——昨日、とはいつのことだろう——大きい。
石を飲んだみたいに、そこにある。
今日は早く降りた。
マーサに言われる前に、台所の火を入れておこうと思ったのだ。
扉を開けると、マーサはもうそこにいて、銅のやかんから湯気が立っていた。
「遅い」
ニナは、壁の時計を見た。
いつもより半刻は早い。
マーサは時計を見なかった。
何も変だと思っていない顔で、やかんを火から下ろした。
「今日はお嬢様のお誕生日ですよ。花束が届いてるから、活けて持っていきなさい」
白と、淡い桃色の薔薇。
ニナはそれを抱えて、花瓶を探した。
玄関広間の暖炉の上に、青いガラスの花瓶があった。
空だった。
朝の光を透かして、水底のような色に光っていた。
ニナは手を伸ばした。
伸ばした手が、届く前に止まった。
止めたのではない。止まったのだ。
指先が花瓶に触れるぎりぎりのところで、腕が動かなくなった。
喉の奥が冷たくなって、歯の根が合わなくなった。
身体が、全部で、拒んでいた。
ニナは手を引っこめた。
暖炉に背を向けて、台所へ戻った。
「マーサさん、花瓶が——奥様のものしか、空いていなくて」
「奥様のものは駄目よ」
マーサは言った。
当然のことを言う声だった。
「水差しを使いなさい。ガラスのやつ。それで十分」
ガラスの水差しに水を張り、薔薇を活けた。
花瓶に比べれば不恰好で、けれど白と桃色はよく映えた。
ニナはそれを両手で持って、階段を上がった。
何かを避けたという感じが、はっきりとあった。
避けられたのだと、思った。
お嬢様の部屋の扉を開けると、鏡の中にお嬢様がいた。
ニナは、鏡を見なかった。
見てはいけない、と思った。
理由はわからない。
ただ目を伏せたまま窓辺のテーブルへ行き、水差しを置いた。
マーサが髪に花を挿している気配。
白い小さな花。白いレースの襟。それから——
「ニナ、こっち」
お嬢様の声だった。ニナは顔を上げた。
鏡越しに、目が合った。
奥様のものより淡い色の口紅。
結い上げた髪。
お嬢様はニナを見つけて、少しだけ笑った。
その笑い方を、ニナは知っていた。
知っていて、泣きたくなった。
「お嬢様、綺麗です」
口が、勝手に言った。
言ってから、慌てて花に目を戻した。
「あら、水差しなの」
マーサが言った。それだけだった。
「それ、どこから持ってきたの」
とは言わなかった。
ニナは、何かがひとつ外れた音を聞いた気がした。
「お父様から?」
お嬢様が椅子から立って、テーブルのカードを手に取る。
名前を読む。頬に、紅とは違う色がさした。
「わたしに。——ニナ、お父様が、わたしに」
お嬢様の声は小さかった。小さいまま、嬉しかった。
ニナはそれを見て、どうしてだか、怖くなった。
「お母様に見せてくる」
お嬢様が扉へ向かう。
だめ、とニナは思った。
けれどその理由も、言葉も、ニナのどこにもなかった。
お嬢様の手が、扉の把手にかかる前に——
扉が開いた。
奥様だった。
化粧をしていない顔。
白くて、目の下だけが薄く青い。
奥様は床を見た。何もなかった。
乾いた床板だけがあった。
それから窓辺の水差しと、お嬢様の手の中のカードを見た。
最後に、お嬢様を見た。
結い上げた髪。白いレースの襟。奥様のものより淡い色の、口紅。
長い時間だった。
「マーサ」
奥様が言った。
「下がりなさい」
マーサは、何も言わずに部屋を出た。
お嬢様を見なかった。さっき
「お母様には内緒ですよ」
と言って笑った人が、振り返りもしなかった。扉が閉まる。ニナは、まだそこにいた。
「——誰が、その顔を」
お嬢様が下を向いた。
それから、顔を上げた。
「わたしが。わたしが、マーサに頼んだの」
嘘だった。ニナにはわかった。
奥様にも、たぶんわかっていた。
奥様の目が、ほんの少しだけ、細くなった。
「そう」
奥様は言った。
「じゃあ、座りなさい。手直しが必要ね」
お嬢様が、鏡台の前の椅子に座った。
奥様はその後ろに立った。
鏡の中に、二人の顔が並んだ。似ていた。
目の形も、鼻筋も。
けれど奥様はそれを見ていなかった。
見ているのは、お嬢様の顔だけだった。
奥様の指が、髪から白い花を一つ、抜いた。
床に落ちた。もう一つ。もう一つ。
結い上げた髪がほどけて、肩に落ちた。
それから奥様は親指で、お嬢様の唇をなぞった。
淡い紅が、頬のほうへ広がって、滲んだ。
「こんな色」
奥様は言った。
鏡台の上に、銀の小さな鋏があった。
マーサがリボンを切るのに使った、化粧鋏。
奥様の手が、それを取った。
ニナの中で、何かが鳴った。
ガラスの音ではなかった。
もっと小さな、金属の、開いて閉じる音。
聞いたことがある。聞いたことなど、あるはずがない。
「奥様——」
「下がりなさい、ニナ」
名前を呼ばれたのは、初めてだった。
奥様がニナの名前を知っていることを、ニナは知らなかった。
鏡の中で、奥様が、お嬢様の顔を見ていた。
「あの人の顔ね」
鋏が、開いて、閉じた。
音は小さかった。
布を切る音より、小さかった。
鏡の中のお嬢様の頬に、紅で引いたような線が一本、現れた。
それは紅よりも濃くて、ゆっくりと、下へ垂れた。
「動かないで」
お嬢様は、動かなかった。
奥様が「動かないで」と言ったからだ。
ニナは、動いた。
身体が勝手に前へ出て、奥様の手首を掴んでいた。
細くて、冷たかった。
奥様が振り返る。その目を見た瞬間、ニナは自分が何をしているのか理解して、それでも手を離さなかった。
奥様の、もう一方の手が、ニナの頬を打った。
ニナは、後ろへ倒れた。
窓辺のテーブルの角が腰に当たって、テーブルが傾いて、ガラスの水差しが——
——音が、ニナの中で、何かを割った。
青い花瓶。床に散った破片。
「それは奥様の」
しゃがんで震える両手。扉が開く。
「奥様、あの——」「……なんでもないです」
細い指から垂れる血。白いレースの上の赤。
「片付けなさい。全部」
燭台の火が止まる。
絵のように平らになる、お嬢様の背中。
二度目だ。
ニナは、濡れた床に手をついたまま、それを理解した。
この日は、二度目だ。
前は花瓶を割って、そして——
顔を上げた。
奥様は、もう終えていた。
鋏を鏡台の上に戻す。
元あった場所に、きちんと揃えて。
お嬢様は椅子に座ったまま、動かなかった。
白いレースの襟が、色を変えていた。
ほどけた髪が、顔の半分を隠していた。
隠れていないほうの半分で、十分だった。
「片付けなさい」
奥様が、ニナに言った。
「全部」
扉が、閉まった。
ニナは立ち上がって、鏡台のレースの敷物を掴んで、引いた。
香水瓶と櫛と鋏が床に落ちた。
ニナは敷物を、楕円の鏡に掛けた。
手が震えて、二度落として、三度目で掛かった。
「ニナ」
お嬢様が言った。
「見せて」
「だめです」
「ニナ、お願い」
「だめです。見ないでください。見なくていいです。お医者様を呼びますから、それまで——」
「見ないと、わからないから」
お嬢様の声は、静かだった。
奥様の声に似ていた。
「どのくらい、綺麗じゃなくなったか」
ニナは、答えなかった。
エプロンを外して、お嬢様の顔に当てた。
どこを押さえればいいのかわからないほど、傷は多かった。
昨日と、同じだけ多かった。
晩餐は、取りやめになった。
お嬢様は体調を崩されたのだと、奥様はそう言った。
戻ってきた旦那様は、何も訊かなかった。
医者が来て、ニナは部屋から出された。
「二度とお嬢様の部屋に入らないで」
と奥様は言った。
奥様に手を上げたのだから、屋敷を追い出されないだけましだと、ニナは思った。
台所でマーサが言った。
「花瓶を割ったからよ。奥様の花瓶を」
「——割っていません」
ニナは言った。
マーサは、やかんを磨く手を止めた。
少しのあいだ、何も言わなかった。
「……そうだったかしら」
それから、また磨きはじめた。
夜更け、ニナは屋根裏から降りた。
三段目を跨いだ。
洗濯室から、いちばん古いシーツを一枚、持ち出した。
どうしてそれを選んだのかはわからない。
手が、知っていた。
お嬢様の部屋の鍵は、かかっていなかった。
お嬢様は、寝台に座っていた。
包帯を巻かれた顔。白い寝間着。
鏡台には、ニナが掛けたレースの敷物がまだ掛かっていたけれど、薄くて、向こう側が透けていた。
ニナはその上から、シーツを掛けた。
重たく、垂れた。
「見張りに来たの?」
お嬢様が訊いた。
「はい」
「お母様に言いつけられるわよ」
「はい」
ニナは、寝台の脇の床に座った。
お嬢様は何も言わなかった。
燭台の火が一つ、揺れていた。
「ニナの村の話をして」
ニナは、話した。
川があること。春になると川べりに白い小さな花が咲いて、名前は誰も知らないこと。
母親がよく物を落とす人で、ニナもそれを引き継いだこと。
弟が三人いて、いちばん下はまだ字が読めないこと。
お嬢様は時々「それで?」と言った。
それ以外は、黙って聞いていた。
話が途切れたとき、お嬢様が言った。
「屋根裏の階段、三段目が鳴るんでしょう」
ニナは、お嬢様を見た。
「——どうして、ご存じなんですか」
お嬢様は、少しのあいだ、答えなかった。
「……前に、聞いた気がする」
ニナが屋根裏の話をしたことは、一度もなかった。
どのくらい話したか、わからない。
燭台の蝋がだいぶ短くなったころ、お嬢様が言った。
「ニナ、目を閉じて」
「どうしてですか」
「泣くところを、見られたくないの」
ニナは、目を閉じた。
布の擦れる音がした。
寝台から降りる、小さな足音。
それから、重たいものが、床に落ちる音。
ニナは、目を開けた。
お嬢様は、鏡台の前に立っていた。
シーツが足元に落ちていた。レースの敷物も。
楕円の鏡が、燭台の火を一つ映して、包帯の顔を、映していた。お嬢様は泣いていなかった。
燭台の火が、動くのをやめた。
ニナは、天井を見ていた。
屋根裏の低い天井。梁の蜘蛛の巣。
両手を握りしめていて、指をひらいても、何もなかった。
階段を降りる。三段目を跨いだ。
跨いでから、立ち止まった。
どうして、と思った。思っても、何も出てこなかった。
胸の奥に石があった。昨日よりも、重い。
台所の扉を開ける。
「遅い」
マーサが言った。
やかんから湯気が立っていた。
「今日はお嬢様のお誕生日ですよ。花束が届いてるから、活けて持っていきなさい」
白と、淡い桃色の薔薇。
ニナは花束を抱えて、少しのあいだ、動けなかった。
桃色が、こんなに濃かっただろうか。
断片・二
お嬢様が十五歳の春、奥様は五人目の旦那様を迎えた。
お嬢様は式に出なかった。奥様がそう決めた。
「体調が悪いから」
と、旦那様には伝えられた。
新しい旦那様は一度もお嬢様の部屋に来なかった。
この屋敷に娘がいることを、知っていたのかどうかもわからない。
お嬢様は窓から、庭の宴を見ていた。
私は厨房から、ケーキを一切れ、エプロンの下に隠して運んだ。
お嬢様はそれを少しずつ食べながら、訊いた。
「お母様、きれいだった?」
私は、はい、と答えた。本当だった。
奥様はいつも、きれいだった。
それをお嬢様に言うのが、どういうことなのか、私はまだわかっていなかった。
皿が見つかったのは、翌朝だった。
奥様は何も言わなかった。
私を叱りもしなかった。
ただお嬢様の部屋に入って、鏡台の鋏を取って、お嬢様の髪を切った。
肩の下まであった髪が、耳の上までになった。
「結い上げる髪があるから、こんなことになる」
と、奥様は言った。何のことなのか、私にはわからなかった。
お嬢様は、泣かなかった。
あとで私にこう言った。
「髪はまた伸びるから。顔より、いいでしょう」
私を慰めていた。
十五歳のお嬢様が、私を。
その年の夏、奥様は屋敷じゅうの鏡を外させた。
玄関広間の大きな鏡も、客間の鏡も、洗面所のものまで。
「要らないから」
と、奥様は言った。
お嬢様の部屋の鏡台だけが、残された。
布を掛けることは、許されなかった。




