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第一章 ガラスの音

ニナは、階段が鳴る前に、階段が鳴ることを知っていた。


三段目。右足を乗せると、低く軋む。

屋根裏の女中部屋から台所へ降りる、いつもの階段だ。

三か月、毎朝降りている。音を覚えていたって不思議はない。


それなのに、三段目に足を置いたとき、ニナは思わず手すりを握った。


 ——知っている。


音だけではなかった。

台所の扉の向こうでマーサが「遅い」と言うことも。

その手に、湯気の立つ銅のやかんが握られていることも。

扉を開ける半秒前に、ニナはそれを知っていた。


「遅い」


マーサが言った。

やかんから湯気が立っていた。


今日は、お嬢様のお誕生日だった。


旦那様は夜明け前に町へ発ち、台所には配達の花束が届いていた。

白と、淡い桃色の薔薇。

「お嬢様の部屋へ。活けてから持っていきなさい」とマーサが言う。


ニナは花束を抱えて、花瓶を探した。


台所の棚には、水差しと空き瓶しかなかった。食堂の花瓶はもう季節の花で埋まっている。

廊下に出て、玄関広間を横切ろうとしたとき、暖炉の上の青いガラスの花瓶が目に入った。


空だった。

朝の光を透かして、水底みたいな色に光っていた。


ニナは手を伸ばして、止めた。


 ——だめ。


どうしてだかわからない。

胸の奥で、小さく何かが引っかかった。

けれど花瓶は空で、ほかに探している時間はなくて、マーサの「遅い」がまだ耳に残っていた。ニナは花瓶を取った。


お嬢様の部屋の扉を開けると、鏡の中にお嬢様がいた。


マーサが髪に花を挿している。

白い小さな花。白いレースの襟。それから、奥様のものより淡い色の口紅。


ニナは、花瓶を落としそうになった。


見たことがある。


この光景を、この角度から、花瓶の冷たさを両手に感じながら、見たことがある。

鏡の中のお嬢様が、ニナに気づいて少し笑う。その笑い方まで知っていた。

知っていて

——理由はまったくわからないのに——

ニナは、泣きたくなった。


「ニナ? 何してるの、早く活けて」


「は、はい」


窓辺のテーブルに花瓶を置き、水差しの水を注ぎ、薔薇を一本ずつ入れていく。手が動く。

手は何も覚えていないみたいに、ちゃんと動いた。


「お嬢様、綺麗です」


鏡越しに目が合ったとき、ニナはそう言っていた。

言ってから、慌てて花に目を戻した。それもまた、知っている動きだった。


お嬢様は、この屋敷でただ一人、ニナに名前で話しかける人だった。


皿を割ったとき、燭台を倒したとき、洗濯籠をひっくり返したとき。

マーサに叱られるニナを廊下の角から見ていて、あとで「痛くなかった?」と訊きに来る人だった。

訊くことしかできないのを、たぶんお嬢様自身がいちばんわかっていた。

この屋敷でお嬢様に許されていることは、とても少なかった。


「ニナ。それ、どこから持ってきたの」


マーサの声が低くなった。


「あの、空いていたので——」


「それは奥様の」


 ニナの手から、花瓶が落ちた。


 音が、ニナの中で、何かを割った。


 ——赤。白いレースの上に広がる、赤。


 ——「片付けなさい。全部」


 ——誰かの手。細くて白くて、指から血が垂れている。


 ——灰色の布を掛けられた、鏡。


最後の一つだけが、わからなかった。

この部屋の鏡台には布など掛かっていない。

けれどそれは確かにこの鏡台で、布は埃を吸って重たく垂れていて、ニナはそれを見て——見て、何を思ったのだったか。


床に広がった水が、ニナの膝を濡らした。

いつのまにかしゃがんでいた。

両手が震えていた。


このあと、よくないことが起こる。


それだけが、はっきりとわかった。

何が起こるのかはわからない。

わからないのに、身体が先に知っていて、震えている。


「お嬢様はそのままで。——ニナ、動かないで。箒を取ってきます」


マーサが出ていく。


だめだ、とニナは思った。

行かないで。

何がだめなのかわからないまま、口を開いた。けれどマーサはもう扉の向こうだった。


「ニナ、怪我は」


お嬢様が、椅子を降りて隣に膝をついていた。ニナは慌てて首を振った。


「……大丈夫です。すみません、お嬢様、すみません。——あ、触っちゃだめです、手が」


お嬢様が大きな破片を一つ拾っていた。

濡れて、冷たそうで、縁が光っている。


「わたしも手伝う。マーサが戻る前に片付けてしまえば、お母様には——」


扉が開いた。


奥様だった。


化粧をしていない奥様の顔を、ニナは初めて見た。

白くて、目の下だけが薄く青くて、それでも奥様は美しかった。

奥様はまず床を見て、それから窓辺の花束とカードを見て、最後にお嬢様を見た。


長い時間だった。


ニナの中で、断片が暴れていた。赤。片付けなさい。細い指から垂れる血。灰色の布。何かが起こる。いま起こる。言わなければ。


ニナは立ち上がった。


「奥様、あの——」


奥様の目が、ニナに向いた。


言葉が、喉で止まった。


何を言えばいいのか、わからなかった。

見たことがあります、とは言えない。

何を見たのか言えないからだ。

このあとよくないことが、とも言えない。

それが何なのか、ニナ自身が知らないからだ。

知っているはずなのに、手を伸ばすとそれは水の底に沈んでいて、指先が触れる前に濁ってしまう。


「……なんでもないです」


ニナは、そう言った。


奥様の目がニナから離れて、お嬢様に戻った。


「——誰が」


静かな声だった。


「誰が、その顔を」


お嬢様が下を向く。


「お母様、わたし——マーサを呼んできます」


お嬢様が立ち上がる。扉へ向かう。


 ——だめ。


声にならなかった。

ニナが見ていたのは、奥様の手だった。

いつのまにか、床から拾い上げた青い破片を握っている。

細くて白い指。その指の間から、もう血が垂れていた。


見たことがある。


ああ、とニナは思った。これだ。


気づいたときには、お嬢様の腕が掴まれていた。


ニナはそれを、全部見ていた。


身体が動かなかった。叫ばなかった。

声の出し方を忘れたみたいに、ただ立っていた。

あとになって何度も思い返す。

どうしてあのとき、間に入らなかったのか。

けれどそのときのニナには、わかっていたのだ。

これは起こることだ。もう起こったことだ。だから——


だから、何だというのだろう。


奥様が破片を落とす。それがもう一度、小さく割れる。

その音で、ニナの指先がようやく動いた。


「片付けなさい」


奥様がニナに言った。


「全部」


扉が閉まる。


ニナは、お嬢様の隣に膝をついた。


白いレースの襟が、赤く染まっていく。

ニナはエプロンを外して、お嬢様の顔に当てた。

どこを押さえればいいのかわからないほど、傷は多かった。

お嬢様は泣いていなかった。泣いていないのが、いちばん怖かった。


「お嬢様、お嬢様、見ないで、こっち向いてて——」


お嬢様の目が、ニナを通り越して、どこかを見ている。ニナは振り返った。


鏡台。


楕円の鏡が、膝をついた二人の高さで、ちょうどお嬢様の顔を映していた。


灰色の布を、とニナは思った。

布を掛けなければ。どうしてそう思ったのかはわからない。

けれどこの部屋にそんな布はなくて、ニナのエプロンはもう赤くて、お嬢様の目はもう、鏡の中の女の子を見てしまっていた。


その日の晩餐は、取りやめになった。


お嬢様は体調を崩されたのだと、奥様はそう言った。

戻ってきた旦那様は何も訊かなかった。

マーサは医者を呼び、ニナは部屋から出された。

「二度とお嬢様の部屋に入らないで」

と奥様に言われた。

花瓶を割ったからだと、誰もが思った。

ニナ自身もそう思おうとした。


 夜更け、ニナは屋根裏から降りた。三段目が鳴った。


お嬢様の部屋の扉の前に立つ。

鍵はかかっていなかった。わずかに開ける。


お嬢様は、鏡台の前に立っていた。


包帯を巻かれた顔。白い寝間着。燭台の火が一つ。

お嬢様は何も言わず、鏡の中の自分を見ていた。

ニナが来たことに気づいているのかどうか、わからなかった。


 ニナは、何か言おうとした。


燭台の火が、動くのをやめた。


ゆらめいていた炎が、絵に描かれたみたいに、その形のまま止まった。音がなくなった。

時計の針が止まる音さえ、しなかった。

お嬢様の背中が、鏡の中のお嬢様の顔が、扉の隙間ごと、一枚の絵のように平らになっていって——


ニナは、天井を見ていた。


屋根裏の、低い天井だった。

梁に蜘蛛の巣があった。

窓の外は、まだ暗い。


階段を降りる。三段目が鳴る。


知っている、と思った。

けれど何を知っているのか、思い出せなかった。

胸の奥に小さな引っかかりがあって、それだけが残っていた。


 台所の扉を開ける。


「遅い」


マーサが言った。

やかんから湯気が立っていた。


「今日はお嬢様のお誕生日ですよ。花束が届いてるから、活けて持っていきなさい」


断片・一


 鏡に布を掛けたのは、私だ。


お嬢様の十三歳の誕生日。

奥様は晩餐を開かなかった。

旦那様は、もういなかった。

春に荷物をまとめて、お嬢様の部屋の前で一度だけ立ち止まって、何も言わずに階段を降りていった。

あの人の顔を、私はよく思い出せない。


 お嬢様は、「鏡を見たくない」とは一度も言わなかった。

ただ鏡台の前を通るとき、目を閉じて歩くようになった。

だから私は洗濯室からいちばん古いシーツを持ってきて、楕円の鏡に掛けた。

奥様に見つかれば、今度こそ屋敷を出されるとわかっていた。


 お嬢様はそれを見て、一年ぶりに笑った。


笑うと傷が引き攣れて、お嬢様は痛そうに頬を押さえて、それでも笑っていた。


「ニナ、ありがとう」


私はそのとき、思ったのだ。この人のためなら、何度でも叱られていい。


 ——何度でも、と。

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