序章 十二歳の朝
鏡の中で、知らない女の子が笑っていた。
マーサの指が最後の花をひとつ、髪に挿す。
白い小さな花だった。
名前はミラも知らない。
「お嬢様、できましたよ」
知らない女の子はミラだった。
十二歳になった朝のミラだった。
白いレースの襟。結い上げられて、はじめて外に出た首筋。
それから、母のものより淡い色の口紅。
マーサは紅をのせたあとで鏡越しにミラの目を見て、「お母様には内緒ですよ」と言い、ほんの少しだけ笑った。
マーサが笑うのは珍しい。だからミラはそれを、誕生日の最初の贈り物だと思うことにした。
鏡台は、母のものだった。
正確には、母がまだミラの父と暮らしていたころ、父が母に贈ったものだ。
楕円の鏡を囲む枠には蔦の彫刻があり、裏側に小さな真鍮の板が打ってある。
〈世界でいちばん美しい人へ〉
ミラは八歳のときに、その字を覚えた。
母がこの鏡台を自分の部屋から出して、ミラの部屋へ運ばせた年だ。
「私にはもう要らないから」
母はそう言った。
要らないものがどうしてこんなに綺麗なのか、ミラにはわからなかった。
鏡台が来てからというもの、ミラは夜、寝る前に裏の真鍮板を指でなぞる癖がついた。
それが誰に宛てられた言葉なのかは知っている。知っていて、なぞった。
父の顔を、ミラは覚えていない。
覚えているのは、そのあとに来た人たちだ。
二人目のお父様は背が高くて、ミラを膝に乗せて本を読んでくれた。
三人目のお父様は、ミラを見るたび「人形みたいだ」と言った。
母はそのとき、紅茶のカップを持ち上げかけた手を、途中で止めた。
お父様たちはみんな、ミラに優しかった。
そしてその優しさの分だけ、母の目は少しずつ、冷たくなっていった。
ミラが何かをしたわけではない。ただ、そこにいただけだ。
今のお父様は四人目で、いちばん静かな人だった。大きな声を出さない。
ミラの顔をじっと見ることもない。
ただ、廊下ですれ違うとき、小さく頷く。
それだけの人だった。それだけの人が、今朝、花を贈ってきた。
背後で、ニナが花瓶に花を活けている。
お父様から届いた花束だった。
お父様は夜明け前に町へ発って、夕方の小さな晩餐には戻ると言い残していったらしい。花はその代わりだ。
白と、ごく淡い桃色の薔薇。添えられたカードには母の名前ではなく、ミラの名前が書いてあった。
それが何を意味するのか、十二歳のミラはまだ知らない。知っているのは鏡だけだった。
ニナは三か月前に村から来た新しいメイドで、屋敷の誰よりも若く、誰よりもよく物を落とした。皿、燭台、洗濯籠。
マーサには毎日のように叱られているけれど、叱られながら唇を噛むニナの顔が、ミラは嫌いではなかった。
この屋敷で、顔に感情が出る人はニナしかいなかったから。
「お嬢様、綺麗です」
鏡越しに目が合うと、ニナはそう言った。
言ってから、言ってはいけないことを言ったみたいに、花に目を戻した。
「ニナ。それ、どこから持ってきたの」
マーサの声が低くなった。
ニナの手の中で、青いガラスの花瓶が止まる。
玄関広間の、暖炉の上に置いてあるもの。
母がこの屋敷に来たときから、あの場所にあったもの。
「あの、空いていたので——」
「それは奥様の」
言い終わる前に、ニナの手から花瓶が落ちた。
音は、思ったより高かった。
水が床板に広がって、薔薇が散らばって、青い破片が朝の光を跳ね返した。
それはほんの一瞬、綺麗だった。
ミラは思わず椅子から立ち上がりかけて、マーサに肩を押さえられた。
「お嬢様はそのままで。——ニナ、動かないで。箒を取ってきます」
マーサが出ていく。扉が閉まる。
ニナは床にしゃがんだまま、顔を上げなかった。
両手が、膝の上で小さく震えている。
「ニナ、怪我は」
「……大丈夫です。すみません、お嬢様、すみません」
ミラは椅子を降りて、ニナの隣に膝をついた。
大きな破片を一つ拾う。
濡れていて、冷たくて、縁が光っている。
「わたしも手伝う。マーサが戻る前に片付けてしまえば、お母様には——」
扉が開いた。
母だった。
朝の支度を終えていない母を、ミラは久しぶりに見た。
化粧をしていない顔は白く、目の下だけが薄く青い。母はまず床を見た。
それから窓辺のテーブルに置かれた花束と、カードを見た。
カードの文字は、扉のところからでも読める大きさだった。
最後に、ミラを見た。
結い上げた髪を。白いレースの襟を。母のものより淡い色の、口紅を。
長い時間だった。
ミラはその間、息をするのを忘れていた。
母が自分をこんなに長く見るのは、いつぶりだろうと考えていた。
「——誰が」
母の声は静かだった。
「誰が、その顔を」
ニナが口を開きかけて、閉じた。
ミラは母の目を見ていられなくなって、下を向いた。
手の中の破片が、小さく震えた。
「お母様、わたし——マーサを呼んできます」
ミラは立ち上がって、扉へ向かった。
母の横をすり抜けようとした。
腕を掴まれた。
音はしなかった。
熱かった。頬に、額に、こめかみに、何かが走った。一度ではなかった。
ミラが数えられたのは三度までで、そのあとは、数えることをやめた。
母の手の中に、青い破片があった。
いつ拾ったのか、わからなかった。
母の指からも血が垂れていた。それを母は見なかった。
母が見ていたのはミラの顔だけで、その目は、鏡を見るときの目と同じだった。
熱いものが、濡れたものに変わった。
白いレースの襟が、ゆっくりと色を変えていくのが、下を向いたまま見えた。
「あの人の顔ね」
母は言った。
誰のことか、ミラにはわからなかった。
四人目のお父様のことではないのは、わかった。
腕が離された。ミラは床に膝をついた。床は水と薔薇と破片で濡れていて、そこにミラの血が混ざった。
母は破片を床に落とした。
それはもう一度、小さな音を立てて割れた。
「片付けなさい」
ニナに向かって、母は言った。
「全部」
扉が閉まった。
長いあいだ、部屋は静かだった。
ニナが動かなかった。ミラも動かなかった。
頬が熱くて、脈打つたびに熱が増して、そのあいだを冷たいものが伝った。
血なのか、涙なのか、どちらでもあるのか、わからなかった。
ミラは、顔を上げた。
鏡台は、扉のすぐ向かいにある。膝をついたままの高さでも、楕円の鏡はちょうどミラの顔を映した。
鏡の中で、知らない女の子が、こちらを見ていた。
白い小さな花が、髪から一つ、落ちた。
それが、ミラの十二歳の誕生日だった。
今までで、いちばんきれいな日だった。




