第九話 古い羊皮紙の余白
浅瀬での短い休息を終え、ネッシー王女の巨大な体が再び深い青の海原へと滑り出すと、カラガラ横丁の丸い屋根たちは、心地よい潮風を受けてふたたび軽やかな揺れを取り戻しました。
広場の一角、ポロット長老のダイヤモンドが放つ幾何学的な光をさえぎらない絶妙な日陰に置かれたマダマダの作業机の上には、先ほど陸地で手に入れたばかりの古い羊皮紙や、旅の道中で集められた記録の束が綺麗に広げられていました。
「ふむ……やはり、あの双子の岩山の先にある水脈のデータと、この古文書の記述は完全に一致していますね」
マダマダは眼鏡のブリッジを指先でクイと押し上げ、真鍮の烏口の先に深い群青色のスミをたっぷりと含ませました。
その手元を、フウセンキノコの軽やかな足音とともにやってきたスウが、じっと覗き込んでいます。スウの胸元では、青い水玉模様の硝子ビーズが朝の光を受けてきらきらと細やかな光の粒を跳ね返していました。
「マダマダさん、その紙に書かれているのは、いよいよネス湖のお話?」
「ええ、そうです、スウちゃん。この羊皮紙の古い余白にはね、かつて王女さまの祖先たちがこの海域を旅していた頃の、とても重要な『水温の記録』が残されているのです」
マダマダは烏口の先を羊皮紙の余白に滑らせ、繊細な文字を書き足しながら穏やかに微笑みました。
「湖という場所はね、海とは違って周囲を陸地に囲まれています。だから、外の海の潮風がどんなに冷たくても、湖の深みには独自のあたたかな水脈がじっと隠れているものなのですよ。王女さまがずっと探し続けている我が子も、きっとそのあたたかな水脈の底で、お母さんの帰りを今か今かと待っているはずです」
「お母さんが帰ってくるのを、ずっと待ってるんだ……」
スウは自分の胸元にある水玉硝子にそっと小さな指先を触れました。夜の間にカタメから届いた温もりや、街の仲間たちと交わした笑顔の記憶が、その硝子を通じるようにじわりと胸の奥をあたためます。
待つことの切なさと、いつか必ず会えるという確信。そのふたつがどれほど尊いものであるかを、スウは言葉にしなくても心の底でしっかりと受け止めていました。
そのとき、黄金の王冠の淵、街のいちばん端に建てられた「ひっくり返した船のテント」の影から、ふわりと一筋の薄紫色の煙が立ち上りました。
古びた旅人のコートをまとい、つばの広い帽子を目深にかぶったカタメが、長管の煙管を指に挟みながら、ゆっくりとマダマダの机の方へと歩いてきました。
カタメは言葉を発しません。けれど、彼の足音が近づくにつれ、胸元に下げられた唐草模様の硝子がひんやりとした青い光を放ちました。
マダマダの眼鏡のフレームに埋め込まれた小さな硝子と、スウの水玉硝子が同時にあたたかな温度を帯び、カタメの静かな声がふたりの心に直接響きます。
『……マダマダ。その余白の記録によれば、次の双子の岩山を抜けた先は、潮の満ち引きが消え、風の匂いが完全に変わる領域だな』
カタメのテレパシーを受け取ったマダマダは、烏口をそっと置き、羊皮紙の束の中から別の古い図面を一枚引き抜いてうなずいてみせました。
「さすがですね、カタメさん。その通りです。あそこを越えれば、いよいよ塩の結晶が消え、純粋な淡気の霧が私たちを包み込むことになります。王女さまの皮膚の張りも、少しずつ和らいでいるのが分かりますよ」
『ああ。王女の鼓動も、昨夜より一段と力強くなっている。……目的地は、もうすぐ目の前だ』
カタメが帽子に軽く手をやり、遠くの水平線を見つめると、王冠の中心に鎮座するポロット長老のダイヤモンドの体が、まるで呼応するかのようにチーン……と澄んだ音を響かせました。
長老の体内から放たれた七色の光がマダマダの羊皮紙の面を滑り、そこに書かれた古代の文字の隙間を優しく照らし出します。
言葉を持たぬ王女を導く長老の光。
その光を詩的な言葉と古文書の記録に編み上げるマダマダ。
そして、硝子の糸で街全体の心を一つに結びながら、旅の先頭に立ち続けるカタメ。
それぞれの役割を持った住人たちが、誰一人として取り残されることなく、ひとつの大きな絆の輪の中で生きている——その確かな手ざたが、清らかな朝の空気に溶け込んでいました。
「よし、今日の記録の整理はここまでにしておきましょう」
マダマダは烏口をきれいに拭き取り、丁寧に羊皮紙の束を巻き上げました。
「スウちゃん、モンを探してきなさい。次の水脈に入る前に、キノコモドキの真水の蓄えと、街全体の結び目をもう一度しっかり確かめておかなければいけませんからね」
「はーい! モンを捕まえてくる!」
スウは元気いっぱいに返事をすると、王女の首の上の苔の絨毯をぴょんぴょんと跳ねながら、モンの工房の方へと駆けていきました。
その後ろ姿を、カタメは静かな片目の影で見送り、マダマダは穏やかな笑みを浮かべて古文書の束を抱え直しました。
ネッシー王女の背中に乗ったカラガラ横丁は、古い羊皮紙の余白に記された未来の希望を胸に抱きながら、新しい潮流の中をどこまでもまっすぐに前へと進んでいくのでした。




