第八話 古い歯車と潮の匂い
深い群青色の夜の帳がしずしずと海原の底へ沈み込み、空の端がほんのりと薄群青色のベールを脱ぎ捨てる頃、ネッシー王女の泳ぎにわずかな、しかし確かな変化が訪れました。
これまで規則正しく世界を揺らしていた重厚なうねりが、すうっと滑らかに速度を落とし、まるで深い眠りの淵へ足を踏み入れるかのように穏やかな漂流へと変わっていきます。王女の長く美しい首が、まるで大地へ寄り添う祈りのように、ふわりと低く前方へ傾げられました。
その巨大な顎が、周囲の海水を白く泡立てることなく、ひそやかに浅い海底の砂地へとそっと着地します。
——降りる刻。
それは、海原を旅するこの街の住人たちが、ほんのひとときだけ、王女の頭の上という小さな宇宙から降りて、外側の広い世界に足を踏み下ろすことができる、かけがえのない時間でした。
王冠の中央に鎮座するポロット長老のダイヤモンドは、夜の冷気を受けて一層冴え渡るような鋭い透明度を帯び、その内部でチーン……と澄み切った鐘のような高音を響かせています。その幾何学的なカット面が朝陽の最初のひと筋を捉え、まばゆい黄金色の光を周囲の苔むした岩肌へと放ちました。
「みなさん、足元をお確かめください。長老のダイヤから、浅瀬への接近を告げる光の波が落ちてきましたよ」
言語学者マダマダの落ち着いた声が、まだ寝静まりきっていない横丁の空気を心地よく叩きます。フウセンキノコの丸い屋根たちが、ぽよん、ぽよんとリズミカルに揺れながら、住人たちを目覚めさせるように軽い音を立てました。
「わあ……! 地面だ、ほんとうに動かない地面だよ!」
スウはフウセンキノコの玄関から飛び出すなり、王女の滑らかな首の傾斜をぴょんぴょんと飛び跳ねるように駆け下りていきました。
最後にたどり着いた王女の首の付け根、海水と陸地の境界線にある湿った土の上に、スウの小さな素足がぴとっと着地します。フウセンキノコの弾力ある感触とは違う、ずっしりと重たくて冷たい、動かない大地の感触が足の裏から伝わってきました。胸元では、青い水玉模様の硝子ビーズが、大地の冷気を受けて一層あたたかな温度を放っています。
スウが振り返ると、黄金の王冠のてっぺんでポロット長老のダイヤがキラリと眩しく光っていました。
「スウちゃん、あまり遠くへ行ってはいけないよ! 陸地には、海の生き物には分からない不思議な仕掛けがたくさんあるからね」
少し遅れて、モンが慌ただしい足音を立てながら下りてきました。モンの両手には、特製の「振動検知器」ではなく、陸地の植物や石ころを採取するための小さな麻袋と、錆びにくい真鍮の小さなスコップが握られています。モンの顔には、今日も今日とて探検への純粋な期待が満ちており、嘘や打算の影は一片もありませんでした。
「モン、見て見て! この石、まるでお星さまみたいに青く光ってる!」
「本当だ! それはきっと……ええと、陸地の古い鉱物が長い年月をかけて雨に洗われたものだね。長老のダイヤとはまた違った、ざらざらした温かみがある!」
モンがしゃがみ込み、スウと一緒に地面の石を珍しそうに眺めているその少し離れた場所で、ひとつの影が静かに歩みを進めていました。
——カタメでした。
つばの広い帽子を目深にかぶり、古い旅人のコートの裾を潮風になびかせながら、カタメは静かに陸地の奥へと続く獣道に入り込んでいました。言葉を交わさずとも、その背中はどこか遠い記憶の風景を辿っているかのように、厳かでありながらも深い優しさを湛えています。
カタメは足を止め、苔むした古い石垣の脇にしゃがみ込みました。そこには、長い年月の中で風雨に晒され、すっかり錆びついた小さな機械の歯車がぽつんと転がっていました。
人間の手で作られ、やがて忘れ去られたその金属の欠片を、カタメは大きな手でそっと拾い上げました。
そのとき、カタメの胸元に下げられた唐草模様の硝子が、ひんやりとした青い光を放ちました。同時に、遠く離れた場所で遊んでいたスウの胸元にある、水玉模様の硝子ビーズがぽっとあたたかな熱を持ちます。
『……スウ。古いものにも、かつてそこに誰かが生きていた体温がちゃんと残っているんだよ』
スウの頭の中に、ハッカの風のようなカタメの静かな声が直接届きました。スウは石を拾う手を止め、カタメのいる方へとトコトコと歩いていきました。
「カタメ、それなぁに?」
スウが首をかしげると、カタメは言葉を発する代わりに、錆びた歯車を手のひらに乗せてそっと差し出しました。
「わあ、歯車だ。モンの工房にあるのとそっくり!」
「そうだね」と、カタメの代わりに、いつの間にか近づいてきていたマダマダが穏やかな声で言いました。「古い時代に、誰かが時間を測るため、あるいは何かを動かすために使っていた大切な道具の部品です。役目を終えて土に還ろうとしていても、そこに刻まれた正確な噛み合わせの跡は消えません」
マダマダは大きな眼鏡をくいと押し上げ、足元の土を踏みしめました。
「私たちは普段、ネッシー王女という大きな生命の背中に乗って海を渡っています。けれど、この地球のあちこちには、かつて大地の上で暮らしていた無数の命の足跡や、小さな祈りの欠片がこうして眠っているのです」
モンもスコップを脇に置き、その錆びた歯車をしげしげと眺めました。
「すごいなあ。僕が作る機械の歯車も、いつか何百年か経ったときに、こうやって誰かの足元で見つかるのかなあ……あ、でも僕の作ったバルブはすぐ錆びて水漏れしちゃったから、土の中でもすぐにボロボロになっちゃうか!」
モンの包み隠さない正直な言葉に、スウがくすくすと声をあげて笑いました。
カタメは静かにうなずくと、その錆びた歯車をごわっとしたポケットの奥に大切にしまい込みました。捨てられたもの、忘れ去られたもの、そして行き場をなくした小さな命たちが、この世界のあちこちにひそやかに息を潜めている。けれど、だからこそ今、この王女の頭の上で出会えた者同士が、こうして互いの手を温め合えることの尊さが、一層際立つのでした。
「さあ、日が高くなる前に、次の水脈のための真水をキノコモドキに蓄えておきましょう」
マダマダが声をかけると、住人たちはそれぞれの持ち場へと戻り始めました。
王冠の中心ではポロット長老のダイヤモンドが眩い光を放ち続け、カタメの船のテントの影からは、静かな薄紫色の煙がふわりと空へ昇っていきます。
ネッシー王女の背中に乗ったカラガラ横丁は、古い歯車と新しい潮の匂いを胸に抱きながら、静かな大地の広がりをあとにふたたび果てしない青い海原へと、滑らかに漕ぎ出していくのでした。




