第十話 硝子の糸の結び目
カラガラ横丁の空気が、これまでの塩を含んだ重たい潮風から、かすかに湿った土と木々の眠る冷たい甘さに変わり始めた頃、街の時計塔——かつてモンが古い真鍮の歯車とゼンマイを組み合わせてこしらえた「時間の怪しげな物差し」が、チチチ……と乾いた音を立てて細やかな刻みを打ち鳴らしていました。
「おや、いけない。次の水脈に入る前に、もう少しだけゼンマイを巻いておかないと、時間の歩幅が狂っちゃうかな」
モンの工房の前で、モンは油まみれの手を小さな布で拭いながら、真鍮のネジを懸命に回していました。その顔には相変わらず偽りのない焦りと、世界に対する純粋な好奇心が浮かんでいます。モンが作った特製の歯車たちは、不器用ながらも必死に噛み合い、街の時間の流れを刻み続けていました。
ネッシー王女の背中は、いよいよ「双子の岩山」と呼ばれる海中の巨大な天然アーチに差し掛かっていました。岩の隙間をくぐり抜ける海水は、まるで山奥の雪解け水のようにひんやりと冷たく、王女の長く滑らかな首の皮膚を心地よく引き締めています。その巨大な皮膚のうねりに合わせて、街の丸い屋根たちが優しく揺れ動きました。
「モン、時計が止まっちゃったの?」
フウセンキノコの丸い屋根をぴょんと飛び越えてやってきたスウが、首をかしげてモンの手元を覗き込みました。スウの胸元では、青い水玉硝子が冷たい風を受けて一段と鮮やかなあたたかさを放っています。
「止まったというか、時間がゆっくりになり始めたんだよ、スウちゃん。ここから先は、海の時間がだんだん湖の時間に溶けていく場所だからね。機械の歯車も、少しテンポを変えなきゃいけないんだ」
モンが笑いながらネジを締め直すと、歯車は再び「チチチ、トコトコ」と心地よいリズムを取り戻しました。その音は、キノコモドキの筒から真水を汲み出すときの素朴な音とぴったり重なり合っていました。
その少し離れた場所、黄金の王冠の淵に陣取る「ひっくり返した船のテント」の影から、カタメが静かに姿を現しました。
つばの広い帽子を目深にかぶり、古い旅人のコートをまとったカタメは、長管の煙管から薄紫色の煙を吐き出しながら、双子の岩山の向こうに広がる景色を見つめています。その眼差しは、どこか遠い記憶の底をじっと覗き込んでいるかのように深げでした。カタメの胸元に下げられた小さな硝子細工には、繊細で美しい唐草模様が焼き付けられており、静かに青く濡れた光を放っています。
カタメは言葉を発せず、胸元にあるその唐草模様の硝子にそっと指先を触れました。
マダマダの眼鏡のフレームの硝子と、スウの水玉硝子が同時に温かくなり、カタメの静かな声がふたりの心に直接響きます。
『……スウ、モン。岩山の向こうを見てみなさい。水の色が、海の群青から深い翡翠色に変わっていくのが見えるかい』
カタメのテレパシーに従ってふたりが目を凝らすと、ネッシー王女の進む先の海面は、まるで一枚の巨大な緑柱石を溶かしたように、息をのむほど透明で深い色合いへと変化していました。
——そこは、海と湖が出会う場所。
波のうねりはすっかり消え失せ、水面は鏡のように周囲の空と岩山を映し出しています。
王冠の中心に鎮座するポロット長老のダイヤモンドが、その翡翠色の光を受けて、体内のファセット全体で一斉に青く美しい輝きをスパークさせました。長老の体から放たれた微振動が王女の頭骨を伝わり、街全体を優しく包み込みます。言葉を持たないその幾何学的な結晶は、ただそこに在るだけで、この旅の終着点が近づいていることを住人たちに告げていました。
「いよいよですね……」
大きな羊皮紙の束を胸に抱えたマダマダが、眼鏡のレンズを光らせながらゆっくりと歩いてきました。マダマダの顔には、長年の研究が結実しようとしている静かな興奮と、深い安堵の色が浮かんでいました。
「この双子の岩山を越えた先にある『静かなる水盆』。そここそが、古文書が示すネス湖の入り口であり、王女さまが何百年も求め続けた我が子の眠る場所です」
マダマダの言葉に、スウは自分の胸元にある硝子ビーズを両手でしっかりと包み込みました。
「王女さま、もうすぐだよ。すぐそこに、待っている子が居るんだよ……!」
スウの呼びかけに応じるように、ネッシー王女はこれまでにないほど深く、そして柔らかく息を吸い込みました。王女の胸の奥から溢れ出したハッカの香りの風が、カラガラ横丁の丸い屋根たちを一撫でし、双子の岩山の向こうへふわりと吹き抜けていきます。
カタメは煙管をゆっくりと置き、ポケットの奥に大切にしまい込んでいた、あの古い錆びた歯車にそっと触れました。
誰ひとり取り残さず、それぞれの傷や記憶を抱えたまま、この一つの街としてここまで旅をしてきた住人たち。その全員の心が、いま一つの透明な硝子の糸でしっかりと結ばれていました。
双子の岩山のアーチをくぐり抜けたネッシー王女の巨大な体が、鏡のような翡翠色の水面に、ゆっくりと、そして誇らしげにその全貌を滑らせていくのでした。




