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ヵラガラ 横丁  作者: ヘヨカ
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第五話 古い船の底の夜



 カラガラ横丁に夜が訪れると、世界は静かな群青の底へと沈み込んでいきます。

 ネッシー王女の泳ぎは、夜の潮流に合わせてゆったりとした揺りかごのようになり、頭上の街には、波が弾ける「ざざぁ……」という低い心地よい音が響いていました。フウセンキノコの家々の窓からは、柔らかい黄色い明かりが漏れ、丸い屋根がぽよぽよと夜風になびいています。

 その街のいちばん端、黄金の王冠の太い淵が海に向かって緩やかな弧を描く場所に、カタメの「ひっくり返した船のテント」は静かに佇んでいました。

 使い古され、塩風と陽光で黒く磨き上げられた木の船底。空を突くはずだった竜骨(キール)は今や屋根の棟となり、上からの雨や波飛沫を滑らかに左右へ受け流しています。船底の縁から地表に向けては、頑丈な帆布と太い麻ロープが何本も張り巡らされ、王女の皮膚を覆う柔らかな苔の上にしっかりとペグで固定されていました。

 テントの入り口の前には、小さな石で組まれた囲炉裏があり、そこから細い薄紫色の煙が一本、静かに夜空へ立ち上っています。

 長管の煙管を指に挟み、その囲炉裏の傍らに腰を下ろしていたカタメは、目深にかぶった帽子の下から、遠くの暗い海を見つめていました。

「ねえカタメ、お夕飯のスープ、もうできた?」

 フウセンキノコの靴音を忍ばせながら、スウが闇の中からひょっこり姿を現しました。スウの手には、干したフウセンキノコで作った小さな柄付きのカップが二つ握られています。

 カタメは口を開きません。ただ、囲炉裏の上で小さく煮立っている小鍋のふたを、木のスプーンでそっと持ち上げました。鍋の中では、陸地で採れた甘い根菜と、キノコモドキの真水で煮込んだ透きとおったスープが、ポトポトとやさしい音を立てています。

 カタメが胸元の唐草模様の硝子にそっと指先を触れると、スウの胸元にある水玉の青い硝子が、ぽっと温かな温度を持ちました。

『……スウ。熱いから、よくふーふーして飲むんだよ』

 脳裏に響くハッカの風のような声に、スウは「はーい!」と嬉しそうに頷き、カタメの隣の小さな丸太へ腰を下ろしました。

 カタメの「ひっくり返した船のテント」は、いつでもどこへでも行ける「旅人の舟」の姿をしながら、このカラガラ横丁という街にどっしりと根を下ろした、彼の唯一の帰る場所でした。

 他の住人たちがフウセンキノコの家で暮らす中、なぜカタメだけが船をひっくり返したテントに住んでいるのか。スウは温かいスープを啜りながら、ずっと気になっていた素朴な疑問を口にしました。

「ねえカタメ。なんでカタメのお家は、お船をひっくり返してあるの? お船は、海の上に浮かべるものでしょう?」

 カタメは煙管を一度口から離し、小さなスプーンで自分のスープを一口味わうと、ふわりと白い煙を夜の海へ逃がしました。

 帽子のかげに隠された深く閉ざされた片目。その静寂の奥には、語られることのない古い傷痕と、どんな孤独も包み込む深い優しさが静かに揺れています。

 カタメの硝子から、スウへ向けて静かなメッセージが届きます。

『……船っていうのはな、スウ。水の上に浮かんでいるときは、どこかへ向かって走り続けなきゃいけない。留まることを許されない生きものなんだ』

「立ち止まっちゃダメなの?」

『ああ。波に流されて、流木になっちまうからね。……だが、こうやってひっくり返して大地や王冠の上に据え置いてやれば、船は“家”になる。どこへも逃げ出さず、ここに住むみんなを雨風から守る、頑丈な屋根になれるんだよ』

 スウはスープの入ったカップを抱えたまま、カタメのひっくり返った船底を見上げました。長年、波と戦ってきた太い木骨。幾重にも打たれた真鍮の釘が、月明かりを受けて滑らかに光っています。

「船さん、ここでお休みしてるんだね」

『……そうだ。そしてな、ここから陸地へ旅に出て、またここへ帰ってくる。ぼくにとっても、この横丁にとっても、ここは“帰るための船”なんだ』

 そのとき、暗がりからガサゴソと音がして、大きな検知器のパーツを抱えたモンがやってきました。

「やあ、カタメさん、スウちゃん! スープのいい匂いに誘われて来ちゃいました!……あっ、嘘です! 長老の夜の振動を測るついでに、お腹が減ったから来ました!」

 素直すぎるモンの白状に、スウがくすくすと声をあげて笑いました。

「モン、嘘がつけないからすぐ分かっちゃう!」

「だって嘘をつくと、胸のネジがギギッて鳴る気がするんだもん! カタメさん、僕にもスープを一口もらえますか?」

 カタメは黙って苦笑いを浮かべると、予備のフウセンキノコのカップを取り出し、なみなみとスープを注いでモンへ手渡しました。

 モンはアチチと息を吹きながらスープを呑み込み、ふうと大きな満足の息を吐きました。

「ふう……おいしい。カタメさんの船のテントに来ると、なんだか心が落ち着きます。王女さまの背中も、この船みたいに大きくて、僕たちを守ってくれているんですよね」

 モンが呟いた言葉に、長老の座す広場の方から、チーン……と澄んだ光が夜空へ届きました。

 ポロット長老のダイヤモンドの体が、月明かりと囲炉裏の火を拾い、体内のカット面で黄金色の光を静かに明滅させています。

 長老の微振動と、カタメの硝子が夜の静寂の中で共鳴し、カタメを通じて全員へ長老のやさしい言葉が通訳されました。

『……王女の背中も、このひっくり返した船と同じだよ。守るべき大切な街があるからこそ、王女は果てしない海を泳ぎ続けることができる。そして……王女が探している我が子もまた、母の背中を、ずっと待ち続けているのだよ』

 長老の言葉に、スウは胸の水玉硝子をぎゅっと抱きしめました。

「王女さまの子どもも、お母さんに会いたいのかな?」

『ああ。きっと今も、どこかの静かな水底で、お母さんの温かいハッカの息の匂いを思い出しているはずさ』

 カタメの声が、静かに夜の海へ溶けていきます。

 かつて離れ離れになってしまった母と子。それは決して愛が潰えたからではなく、抗えぬ潮の流れと、世界の気まぐれが引き起こした切ない行き違い——。

 けれど、探すことを諦めない母と、待ち続ける子どもがいる限り、その旅路の果てには必ず、すべての孤独を洗い流す「救い」が待っているのだと、カタメの佇まいは静かに語りかけていました。

 ひっくり返した船のテントの前で、スープの湯気が優しく立ち上り、住人たちの小さな温もりが夜の静寂を包み込んでいきます。

 ネッシー王女の吐き出すハッカの息が、夜風に乗って街を撫でていきました。カラガラ横丁の夜は、どこまでも深く、どこまでも暖かな光に満ちたまま、明日という新しい旅路へ向かって静かに更けていくのでした。

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