第四話
アオイは怒り心頭だった。
杏の目から見ても、その小さな背中から目に見えない怒気が立ち上っているのが分かる。格納庫を飛び出してからというもの、彼女は一度も振り返ろうとしない。
「おい、待てって」
杏が声をかける。当然返事はない。ズンズンと歩くブーツの音が廊下に響くばかりだ。
「柚之原ぁ」
「リーパー」
「ちょっとアオイさん?」
ぴたりと彼女の足が止まった。肩越しに鋭い眼が杏を射抜く。
「…その呼び方、今一番腹立つんだけど」
「じゃあ何て呼べばいいんだよ」
「知らない」
ピシャリと言い捨てて、アオイはまた歩き出した。
「いやいや…あのさぁ」
杏はため息を吐きながら追いかける。が、アオイが向かった先を見て、足が止まってしまった。
更衣室。さすがにここへ踏み込めば、別の意味で社会的な死(あるいは物理的な死)が待っている。
杏は諦めてドアの向かいの壁に背を預け、腕を組んで待つことにした。
二十分もしないうちに、扉が開いた。
「…」
「…」
出てきたアオイは、シャワーを浴びたのかさっぱりした顔をしていた。少し湿った髪から、微かにシャンプーの匂いがする。
杏と目が合う。アオイはやはり、絵に描いたようなジト目だった。
「…」
「…」
声にならない声が、両者の間を漂う。杏が口を開こうとするが、アオイは完全に透明人間を扱うような素振りで彼の横を通り過ぎた。
「おい、まだ怒ってんのかよ」
彼女の向かった先は食堂だった。スタスタと歩き、物に当たる素振りも見せず、軽い手つきでパイプ椅子を引いて座る。
「?」
杏は少し迷ったが、給水機へ向かった。
戻ってきた時、その手には紙コップが二つ握られていた。
♢
コップの一つをアオイの前に置く。
「…なんで?」
アオイがコップを睨んだまま呟いた。
「茶」
「それは見れば分かる」
「飲めよ」
「命令すんの?」
「違げーよ」
杏はドカッと向かいの席に腰を下ろした。
「…ケンカであって殺し合いじゃない、だろ?」
少し間を置いてから付け足した。
「これは建前だけどな」
二人の間に沈黙が続く。周囲のテーブルからは、整備員や事務員たちの声が消えていた。誰もが息を潜め、この一触即発の二人の行く末を野次馬根性で見守っている。
やがてアオイが口を開いた。
「…お腹すいた」
「はい?」
「お腹すいたって言ったの」
杏は一瞬ぽかんとした後、吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
「…コロッケ定食なら奢るぜ」
「それで手打ちにしてあげるわ」
杏はやれやれ、といった感じで立ち上がった。
「ちょっと待ってろ」
数分後。テーブルの上には、山盛りのキャベツと大きなコロッケが乗った皿が置かれていた。
サクサク、サクッ。 衣を噛み砕く小気味よい音が、静かな食堂にやけに響く。まるで杏の頭蓋骨でも齧っているかのような勢いで、アオイは無言のまま箸を動かしていた。
「…」
杏は腕を組んだまま、なんと説明をしたらいいか考えあぐねていた。
そんな目の前でウネウネしている男を気にすることなく、アオイが席を立つ。
「ごちそうさま」
「おう」
杏が返す。するとアオイは、一瞬だけ振り返って冷たく言い放った。
「アンタにじゃないわよ」
「?」
「おばちゃんに言ったの」
そう言って、食堂を出ていった。
「…ったく」
杏は少し遅れて立ち上がり再びアオイを追いかけた。
二人の姿が見えなくなって数秒後、食堂にはどっと息を吐き出す音と共に、またいつもの喧騒が戻ってきた。
♢
二人は格納庫へ戻ってきていた。
杏はいつもの癖で作業着のポケットから煙草を取り出し、一本咥える。
「タバコキライ」
「…」
「あと、ここ禁煙」
杏は咥えた煙草とアオイの顔を交互に見比べ——やれやれと肩をすくめ、何も言わずに箱へしまった。
器用に換装パーツの上に座ったアオイは、顎で上を指す。
「綺麗になったね」
そこには、修復されたANGERが立っていた。以前に杏が見たときと変わらぬハデな赤と白のペインティング。
ここのクルーになって日は浅いが、もちろん彼も携わっている。
「まあな」
杏も見上げる。
彼女はANGERに顔を向けながら話しかける。
「今は外殻で見えないけど、あそこの奥に魔導リアクターがあるの」
「図面はみたなぁ」
「どうしても出力が大きいから、耐性が必要なの」
「それが?」
「ANGERパイロットの条件その1」
「へえ」
アオイはそこで視線を機体から外し、杏を真っ直ぐに見下ろした。少しだけ、目が細められる。
「だから」
「?」
「魔法を使われると、気づいちゃうんだよね」
杏の動きが止まった。
「…」
「ねえ——」
アオイが何か言おうとした。その瞬間。
——ビーッ! ビーッ! ビーッ!
基地全体の空気を切り裂くように、警報が鳴り響いた。格納庫の照明が落ち、赤いエマージェンシーランプが激しく点滅を始める。
『アノマリー反応を確認!』
館内放送が続く。
『北東方面より接近中!』
「なになになに!?また敵襲!?」
杏が慌てて周囲を見回したときには、アオイはすでにパイロットの顔になり、キャットウォークへ向かって駆け出していた。
格納庫の中央。動き出した魔導リアクターの重低音と行き交う怒声の中で。
ANGERの目に再び、光が灯る。




