第三話
事の起こりは、些細なことの積み重ねだった。
朝。寮の部屋を出ると、向かいの扉が同時に開く。
「…」
「…なによ」
「なんも言ってねーだろ」
食堂。
「げ、今日コロッケ定食?苦手なんだけど」
「俺コロッケ好きなんだけど」
「あっそ。お似合いね」
格納庫。
「ちょっと!交換パーツの置き方が雑!」
「昨日はこーやって置けっつったのお前だろが」
「言ってない!」
「言った!」
「言・っ・て・な・い!」
廊下ですれ違えば肩がぶつかり、挨拶をすれば舌を出され、差し入れのジュースを渡せば「ぬるい」と突き返される。
一週間。杏はよく保ったほうだと思う。ついにその日の昼、食堂の隅で堪忍袋の緒はブチィッと音を立てて切れた。
「おい小娘、表出ろや」
食堂がしんと静まり返る。アオイはうどんをすすりながら、上目遣いに杏を見た。
「なによ新入りがイキがっちゃって」
「ケンカ売ってんだよ。買えや」
ざわ、と周囲の空気が揺れた。ただしその揺れ方は、心配というよりも——
「おい、あそこの二人、試合決定で」
「マジか。お前どっちに張るんだよ」
完全に興行のあれそれだった。
「おうおう」
いつの間にか背後に立っていた先輩が、ツナギのポケットに手を突っ込んだまま言った。
「格納庫片付けといたぞ。やるならそこでやりな」
♢
格納庫には、すでに人だかりができていた。
整備員、事務方、調理場のおばちゃんまでいる。
誰かが即席で書いたらしいオッズ表がホワイトボードに貼り出され、札束ならぬ小銭と缶コーヒーが飛び交っていた。
「やっちまえリーパー!今月分の小遣い全部BETしてんだぞ!」
「言われてんぞ新入り!遠慮すんじゃねーぞ!」
(この基地、平和すぎだろ)
杏は作業着の袖をまくりながら、心底どうでもいい感想を抱いた。
人垣の中央、開けたスペースに先輩がのそりと進み出る。
「はぁーい、じゃあ始めるかね。種目はみっつ。アームレスリング、パン食い競争、そしてケンカマッチ。どうする?」
「「ケンカマッチ」」
杏とアオイふたりの声が揃った。
「うおおおおおおお!!」
観衆が沸く。先輩は面倒くさそうに頭を掻いた。
「はいよ。時間制限ナシ。武器ナシ。徒手空拳のみ。噛みつくなよ?あと目・鼻・耳および後頭部への攻撃は禁止。OK?」
二人が頷く。先輩は杏の脇を通り過ぎる、その一瞬だけ声を落とした。
「——小娘ごときに魔法使うんじゃねーぞ?」
杏の背筋をひやりと冷たいものが走ったが、問い返す間はなかった。
「最近イライラしてたのよねえ」
アオイが首をコキコキ鳴らしながら、獲物を見る目で獰猛に笑う。
「憂さ晴らしさせてもらうわ!」
「これは躾。いくぞ——心の増し締め、思い知れや!」
♢
先手は杏、のはずだった。大きく拳を振りかぶる。誘いだ。素人がやりがちなテレフォンパンチを餌に、飛び込んできたところを合わせる算段だった。
アオイは見逃さなかった。振りかぶりの初動。その一瞬に、間合いの外から矢のような飛び込みストレートが伸びてくる。
「速ッ」
杏は反射的に上体を反らす——が、拳は届く寸前でふっと消えた。
(——フェイント!)
アオイの体はすでに沈んでいた。サイドステップで左へ、視界の外へ。回り込みながら背後を取り、襟へ手がかかる。
(絞めッ——!?)
喉元に前腕が食い込む寸前、杏の体が動いた。腰を落とし、背後のアオイの襟と腰を掴む。トラック稼業の荷降ろしで鍛えた背筋が、うなりを上げた。
「おらぁッ!」
アオイの体が宙に浮く。裏投げ——というよりほとんどブレーンバスターの軌道で、少女の体はコンクリートの床へ叩きつけられた。
どんっ、と鈍い音が格納庫に響く。観衆が悲鳴とも歓声ともつかない声を上げた。
「〜〜〜〜ッッ!」
アオイは仰向けのまま、しかし目は死んでいなかった。投げ終わりで覆いかぶさる杏の顔面へ、指先が閃く。目つき。
その手首を、横から伸びた大きな手ががっしりと掴んだ。
「双方そこまで!」
先輩だった。
一瞬の静寂。それから、格納庫が爆発した。
「おいどっちの勝ちだよ!」
「金!俺の金!」
「ジャッジ、ジャッジー!」
「あー」
先輩は掴んだ手首を離し、気だるげに宣言した。
「両者とも反則のためノーコンテスト。はい、おしまーい」
巻き起こる大ブーイング。缶コーヒーの空き缶が一つ二つ飛んでくる。
先輩はゆっくりとメガネの位置を直した。
「ふむ。全員相手してもいいんだぞ?んん?」
蜘蛛の子を散らすように、格納庫には誰もいなくなってしまった。
♢
「ったく……」
杏は服のヨレを直しながら息を吐いた。
悪くない運動だった。あの小娘、想像の数倍は強かった。あれは喧嘩の動きじゃない。仕込まれた人間の動き、伊達にパイロットまで上り詰めてない。
「おい、お前結構やるじゃ——」
顔を向けて、言葉が止まった。
アオイは立ち上がっていた。頬を膨らませ、唇を噛み、零れそうな涙を必死に堪えていた。
「…んだよ?」
「サイッッッテー!」
叫ぶだけ叫んで、アオイは踵を返し、ズンズンと出口へ歩いていく。
(情をかけられた!コロス!許せない!コロス!)
隔壁の向こうへ、足音が消えていく。
「…だから言ったのにさ」
先輩がぼそりと言った。杏はぎこちなく振り返る。
叩きつける瞬間、床とアオイの間。荷台の荷重を打ち消す、いつものアレ。一瞬だけ、誰にも見えないように。見えないように、やったはずだった。
「…先輩は、なんで知ってるんスか」
先輩は答えなかった。代わりに、顎で出口をしゃくる。
「それよりもホラ、いかなくていいの?」
「…」
杏は天井を仰ぎ、深く、深くため息をついてから——出口に向かって駆け出した。




