王都の来訪者と飛んできた生徒
仰々しい馬車の呼び鈴と、膝の上で丸まっていたキャスパリーグの鳴き声に眠気を覚まされた。
勝手についてきた使い魔を腕に抱え、俺はゆっくりと馬車から降り立つ。
アイテリウスにおいて、馬車は最も一般的な移動手段だ。
とはいえ、王族でもない限りお目にかかれない「四頭立ての箱馬車」となれば話は別だ。
軍事上の重要拠点として整備された街道を、これほどの威容で走れば、いかなる野盗も手出しはすまい。これ以上ないほど安全な、そしてこれ以上ないほど鼻持ちならない移動手段だった。
わざわざこんな代物を寄越してきた相手の意図は明確だ。むしろ嫌がらせに近い。
こんな揺れもしない贅沢な箱に揺られ続けていれば、きっと尻の皮も厚くなって、他人の痛みなど分からなくなるのだろう。
ともあれ――。
かつての故郷、セウロハの王都へと戻ってきた。
まず眼前に立ちはだかるのは、圧倒的な高さを誇る大聖堂だ。
都市のいかなる場所からでも仰ぎ見ることのできる巨大な尖塔は、神の、そして教団の権威を無言で示している。その聖域が王宮と分かちがたく結びついている様は、まさに選民思想の頂点と呼ぶにふさわしい。
対して、それ以外の街並みには一切の統一感がない。
せり出した建物の二階部分が道路を侵食し、路地は陽光を遮るトンネルのように薄暗い。職人街を歩けば、同業の工房が一箇所に固まり、熱気と騒音、そして独特の匂いが入り混じっている。
街の内側から見上げる城壁は、外敵を防ぐというより、中の何かを閉じ込めているようにさえ見えた。
膨れ上がる人口に合わせて、城壁の外に新たな集落ができ、それを囲うようにまた新たな壁が築かれる。幾重にも重なるその壁の内部には、おそらく強力な魔術的行使も含まれているはずだ。
拡大と封じ込めを繰り返すこの歪な揺籃は、数年後、一体どんな姿に変貌しているのだろうか。
水路に架かる小さな石橋を渡り、石畳の道を直進する。ほどなくして、周囲の喧騒を拒絶するように建つ、荘厳な建築物が姿を現した。
セウロハ王立貴族校、その学術棟だ。
王族や高位貴族の嫡子たちが集うこの学び舎は、セウアズールの「魔道学校」、セウ・アマリロの「聖域大聖堂」と並び、アイテリウス三大名門校の一つとしてその名を轟かせている。
一歩足を踏み入れれば、ひんやりとした静謐な空気がアレクシスを出迎えた。
建物は豪華絢爛な装飾を控え、代わりに歴史の重みを感じさせる落ち着きと品位を保っている。
だが、その品位が保たれたのは、わずか数秒のことだった。
高い悲鳴が吹き抜けに響き、ホールの二階から一つの人影が飛び込んできたのだ。
栗色の髪をポニーテールにした少女。清楚な白のワンピースとボレロ――この学園の制服を翻し、彼女は重力に従って落下してくる。
俺は即座に指先で「風のルーン」を刻み、彼女の落下の衝撃を和らげようとした。
「わっ! ぎゃっ!」
それでも勢い余って地面に叩きつけられた少女は、ボールのように数回弾んで転がった。だが、彼女が五体満足で笑っていられるのは、直前に展開した結界の類のおかげだろう。
「あちゃ~、失敗したぁ」
栗毛の彼女は、派手に転んだというのに明るく振る舞っていた。
貴族然とした生徒ばかりのこの学園において、彼女のような異端児は少数派に違いない。
それよりも――彼女を密かに感心していた。
落下する刹那の恐怖の中で、衝撃遮断の結界を編み上げる集中力。
とっさの判断で魔術を行使できるその胆力は、並大抵のものではない。
「おい、大丈夫かメグミ!」
「大丈夫、大丈夫。なんとか間に合ったからさ」
二階から彼女を案じる声がした。
銀髪の少年がゆっくりと階段を降りてくる。その青い瞳は知性を宿し、胸元には身分証代わりとなる高価なアミュレットが光る。年不相応な落ち着きを払った、紛れもない貴族の佇まいだ。
「魔導開発に熱心なのは結構だが、廊下の移動に魔術を使うなと言っているだろう」
「えへへ、つい思いついちゃったんだもん。怒らないでよ、ジンギ」
無邪気に魔術を弄ぶ少女と、それを管理しようとする高貴な少年。
こんな場面を見せられたら貴族も捨てたもんではないと思ってしまう。
魔術が斜陽を迎え技術が凌駕していくこの時代において、彼らのような存在は貴重になるのだろう。
「……っ。あなたは、アレクシス特級騎士閣下……!?」
少年――ジンギはようやくアレクシスの存在に気づき、その青い目を驚愕に大きく見開いた。彼はすぐさま、自らの不敬を呪うかのような深い、深い敬礼を捧げる。
その謝罪に興味を示すことはなかった。
ただ無言のまま、虚空に青白い光の文字を綴る。
『――ステンノ・ボルク・ルイスの所在を』
――――
二人の生徒に無言で謝意を示し、螺旋階段を上がった。
廊下を行き交うのは、その大半が特権階級の貴族の子弟たちだ。中には商家などの裕福な家から、行儀見習いとして送り込まれた子供たちの姿も混じっている。
ここは学び舎であると同時に、次代の権力者たちが顔を合わせる社交場であり、あるいは当主代理や嫁入りを控えた令嬢たちが過ごす、最後の手遊びの場でもあった。
聖域修道院で泥にまみれ、知を穿ってきた俺にとって、この浮世離れした学園の空気はあまりに遠い世界の出来事のように感じられる。
それが幸福なことなのか。大陸屈指の頭脳を持つ自分でさえ、正解は見出せずにいた。
大理石の床に規則正しい足音を響かせ、俺はさらに奥へと進む。
やがて――小さな、微かな声が耳に届いた。
それは、詞のない歌だった。
長い歴史の果てに、込められていた魔導的な意味は風化し、ただ童話のような旋律だけが残った残骸。
旋律の主が待つ扉を、静かに押し開けた。
途端、鼻を突いたのは、脳を刺激するような甘露な香りだった。
香りの正体は、梨のコンポートだ。
四体液説において、生の果実は「冷」と「湿」の属性を持ち、過剰に摂取すれば病を引き起こすとされる。そこに熱を加え、さらに「熱」と「乾」の属性を持つスパイスを足すことで、薬理的なエネルギー源へと造り替える――それは調理場で行われる、一種の錬金術であった。
ここは本来、魔導の工房のはずだ。
その施設を利用して菓子作りに興じるとは、随分と学園生活を謳歌しているらしい。視線の先には、青い外套を深く被った、まるで妖精のような少女が佇んでいた。
「……アレクさん」
びくりと外套の肩を震わせ、少女――ミクルがこちらを振り返った。
『随分と楽しそうだったな。甘いものが好きだったのか?』
虚空に文字を綴りながら、それなら何か土産でも持ってくるべきだったかと、柄にもないことを考えていた。
「……それが、私の仕事ですから」
遠慮がちにそう言うと、ミクルはテキパキと調理器具を片付け始めた。
そのどこか健気で、意地らしい仕草に、口元からは自然と微かな微笑がこぼれた。
正直なところ、魔導や教団の権謀術数には食傷気味だったのだろう。
完璧主義の弟子ベルルや、人懐っこいアンナとも違う。利害関係もなく、ただそこにいるだけの彼女のような存在は、俺にとって唯一、身構えずに済む安らぎの面白い相手だった。
『さっきの歌は、君の故郷のものか? どこか遠い理想郷を悼む響きがあったが』
「……分かりません。ただ、昔から頭の中にあっただけですから」
彼女の素性を誰かに詳しく尋ねたことはなかった。
過去を掘り返したところで、今の彼女が何者であるかが変わるわけではない。
「過去」とは、考古学の地層に埋もれた、果てのない記録の中にのみ存在するべきものだ。
「アレクさんは……故郷の思い出、ありますか?」
自分に対してそんな私的な問いを投げかけてくる者は、稀だった。
俺に問いを投げる者の多くは、ただ一方的に己の知りたいことを聞き出したいだけだ。あるいは、単なる答え合わせの材料として俺を扱う。
だが、彼女は違う。彼女は、対等な「会話」として言葉を投げかけてくるのだ。
『長く、複雑な話になる。もし本当に知りたいのなら、いずれ何かに書き留めて渡そう』
人生は、常に危うい綱渡りの連続だった。
生まれつき何かが欠落していたから、人と同じように生きる道は見出せなかった。だからこそ、魔導学者として知の深淵に縋るしかなかったのだ。
神の教えに背くこの異端の生態は、大陸の脅威たる竜を屠ってこそ、初めて生存を許される。
今立っているこの場所は、その綱渡りの果てに辿り着いた、ひとつの到達点に過ぎない。
「ステンノさんは、故郷を嫌っているようには見えません。……それが、なんだか不思議です」
ミクルの着眼点に、内心で感心した。
俺は、貴族というシステムに翻弄されてきた身だ。爵位とは本来、国をより良くするための研究環境を整え、人材を確保するための「手段」であったはず。だが現代では、その大前提を忘却し、特権そのものに溺れる者が大半を占めている。
その点、我が妹――ステンノは根っからの貴族だ。
宮廷内の些末な政争や策謀さえ、彼女にとっては肌に合う遊戯なのだろう。幼く都合のいい駒として扱われていた時でさえ、彼女は内心でほくそ笑んでいたに違いない。
「どうしたんですか?」
彼女にとって、ミクルは本当に「いい親友」なのだろう。
フード越しに彼女の頭を撫でると、零れている髪の色に気づく。いつも伏せがちで見えにくいが、彼女はこの大陸では極めて珍しい、黒髪黒目の少女だった。
「あの……これは、ステンノさんが隠していいと言ってくれた……ですから」
悪目立ちを避けるための、妹なりの配慮か。
彼女の特異な色彩を見つめていると、不意に扉が開いた。
「おや、兄様。私がいない間に、随分と仲の良いお友達ができていたのですね」
鈴を転がすような声と共に現れたのは、俺をこの王都へ呼び寄せた張本人だった。
長く艶やかな紫の髪を二つに束ね、幻想の中から抜け出したような美しさを湛えた少女。優雅さと上品さをその身に纏い、小柄で華奢な佇まいは、見る者すべての庇護欲を無条件に掻き立てる。
ステンノ・ボルク・ルイス。
今、社交界を騒がせている婚姻話の当事者であり――そして、俺の実の妹である。




