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米の薬膳と病の青年

「……熱があるだけだけど、苦しかったら言って。看病くらい、僕にだってできるから」


「ありがとう。でも、少し眠れば良くなるはずだよ」


 修道院のベテランである修道女の診察によれば、この青年は長時間雨に打たれたことによる発熱以外、特に体に悪いところはないらしい。


 『病の原因は己の罪にあり』――そんな教えが風化しつつある現代だが、シスターのすべてを受け止めるような祈りは、患者の心に思いのほか深く効くようだ。

 師匠に言わせれば「病は気から」ということらしいけれど。


 そういえば、師匠は不思議な人だ。

 あの人が信じるのは現実的な理と魔道に関する知識のみ。

 それでいて祈りは欠かさないし、聖典もすべて諳んじることができる。

 けれど、神に感謝を捧げるような敬虔な態度は微塵も見せないのだ。

 時代が時代なら、間違いなく「魔女」として火刑に処されていただろう生き方だと思う。


「……君は、僕の正体を気にしないのかい?」


 青年が、寝台から不意に問いかけてきた。


「ん? 気にしてるから、こうして隣にいるんだけど」


「……そうか。君は、ここの聖職者なのかな?」


「いや。僕はボク――魔導学者だよ」


 魔導学者。

 その名の通り、魔導の深淵を研究する者たちの総称だ。

 起源には諸説あるが、かつては信仰の枠から外れた「異端者」に、便宜上の地位として与えられたのが始まりだと言われている。その正体が失脚した錬金術師だったのか、禁忌の兵器開発者だったのかは、今となっては定かではないけれど。


 最も有名なのは、王命の下で黄金を錬成しようとした錬金術師の系譜だ。

 「金を作る」こと自体は現在、経済混乱を防ぐために厳禁されている。だが、彼らはその知識を転用し、現代の技術では再現不能な磁器の製作など、富裕層を唸らせる贅沢品を生み出すことで、権力者のパトロンを得て研究を続けている。


 もう一方は、軍事の最前線に立つ兵器開発者たちだ。

 隣国セウアズールの「魔道都市」では、魔導の軍事転用が国家規模で進められており、今や竜害に抗うための巨大兵器を開発しているという噂さえ絶えない。彼らは巨大な組合を形成し、組織的な知の探求を行っている。


 そして――ボクや師匠のような、考古学的アプローチから魔導に触れるタイプは、その中でも極めて少数派だ。

 魔術が今よりもずっと「神」や「人」の根源に近かった、失われた時代の残滓を掘り起こし、現代に蘇らせる。

 それは魔導学者という広大な括りの中でも、最も異端で、最も境界線に近い場所に立つ者たちだった。


 「……どうぞ」


 沈黙を破るように、見習いの修道女が控えめに扉を開けた。

 外部の者に慣れていないのか、彼女は盆を置くと、一礼もそこそこに逃げるように部屋を飛び出していった。


「……これは、米か。まさか、こんな場所で目にすることになるとは」


「米を知らない? まあ、確かに珍しいものだけど」


 修道院の庭で採れた薬草の茶と共に供されたのは、白く柔らかに炊かれた米の粥だった。

 この地では、普段は粗食な農民であっても、看病の際だけは精のつく食事を摂るのが通例だ。けれど、今ここで「当たり前」でないのは、この貴重な米が差し出されたことだった。


 アイテリウスにおいて、米は小麦やライ麦とは一線を画す、高級なスパイスや薬に近い扱いを受けている。

 元々は、この大陸に難破した異国の船から流れ着いた「未知の種」だった。そこから気の遠くなるような年月をかけ、失敗を繰り返してようやく一部の地域で定着に成功した、いわば農耕の奇跡なのだ。流通量は極めて少なく、価値は砂糖や胡椒にも匹敵する。


 貴族の食卓では豪華なデザートとして供されることもあるらしいが、僕の周りでそんなものにお目にかかれる機会なんてまずない。

 ……師匠なら、王都の晩餐会か何かで口にしたことがあるかもしれないけれど。あの人は食事に興味がないから、それが美味かったとか珍しかったとか、そんな風に語ることは絶対にないだろう。


「柔らかく煮た米は胃に優しいし、元気が出るんだ。まずは一口食べてみて」


「……この国では、街外れの修道院でさえ米が手に入るのかい?」


 青年は、信じられないものを見るような目で粥を見つめている。


「まあ、自給自足の範囲を出ないとは思うけど。この修道院は、単なる信仰の場というより農耕の研究に長けているんだ。米の栽培も、その研究の一環らしいよ」


「そうか……外の世界は、私が思っているよりもずっと広いのだな。いや、私の見ていた世界が狭すぎたのか」


 青年は自嘲気味に微笑むと、震える手で匙を取った。


 ボクもおこぼれに預かった米粥を口に運ぶ。

 米本来のほのかな甘みと、滋養のために加えられた卵のまろやかな調和。

 安直な例えだとは思うけれど――もし「優しさ」というものに味があるのなら、きっとこんな味がするのだろう。

 

――――


「ちょっと付き合ってよ、アンナ」


「もう。あまり遅くまで起きてないでよね、ベルル」


 ボクは見知った修道女のアンナに、心水の瓶を片手に声をかけた。

 今日の務めを終えた彼女は、修道服の大きな頭巾を外し、くつろいだ格好をしていた。


「ほら、ブドウの心水を貰ってきたよ」


「勝手に持ち出してきたんでしょ? まあ、いいけど」


 普段は隠されているアンナの赤い髪は、密かなお洒落なのか綺麗に編み込まれていた。愛嬌のある大きな瞳に、どこか幼さを残しながらも芯の強さを感じさせる顔立ち。もし聖職者ではなく町娘として生きていたなら、村一番のマドンナとして崇められていただろう。


「なに? 恋バナでもしたいの? もしかして、今日連れてきたあのイケメンさんに一目惚れでもしちゃった?」


 いつもすましてるボクをからかいたいのか、彼女はニヤニヤした顔でそんなことを言い出した。


「まさか。ボクが恋してるのは魔導だけだよ。……それよりアンナこそ、僕の師匠のことが大好きだよね」


 アンナがボクの師匠のことを好きなのは正直まる分かりなんだよね。

 師匠を見る目は思いっきり恋する乙女の顔をしてる。

 大きな目だからすっごくわかりやすい。


 そういうアンナはからかおうとして逆にからかわれたから顔を赤くして焦ってる、そういう表情の上が可愛いと思うけど。


「ちょっと! 変なこと言わないでよ」


 この大陸の教団は、聖職者の結婚を禁じてはいない。神は唯一神ではなく「六柱兄弟の末っ子」であると伝えられているため、家族を持つことに教義的な忌避感はないのだ。

 けれど、聖職者の結婚は常にスキャンダルな火種になりやすい。

 特に高位の者は民にとっての「偶像」であり、無垢の象徴だ。

 聖職者が人並みの幸せを得ることに眉をひそめる層も多く、彼らは常に世俗の面倒な視線に晒される役回りでもあった。


「ていうか、あんたも雨に打たれてきたんでしょ? 深酒は厳禁よ」


「心水が体に悪いわけないじゃないか。これは『百薬の長』だよ」


「……アレクさん、この子に何を教えてるのよ」


 生水がまともに飲めない場所で育った身としては、心水の方がよほど信頼できる。

 色町の感染症対策としては、汚染の疑いがある共同の井戸を使うよりも、醸造された心水の方が遥かに衛生的で安全なのだ。師匠も幼い頃から嗜んでいたらしいし、だからこそこの修道院との取引にも心水が使われている。


「で、あの人が何者か聞き出せたの?」


「いや。向こうが名乗らなかったから、僕も名乗らなかった。……けど、だいたいの見当はつくよ」


「分かるの?」


「うん。まず、セウロハの貴族だね。あの道を馬車で通ってきたなら方向は決まっているし、あの服を見れば階級も絞れる」


 ボクは心水を一口含み、窓の外の霧を見つめた。


「爵位は男爵、あるいは街を治める騎士卿。それくらいだろうね」


「爵位まで分かるっていうの?」


「公爵や伯爵級なら、米なんてデザートとして見慣れているはずだからね。それに、彼は『野盗を退治した』と言った。……あれは、自分の手で殺してる」


 あの血の匂い。そして、あれほどの惨状を経験しながら精神に乱れがなかった。

 戦うことへの忌避感がないタイプだ。

 お付きの者に守られるだけの温室育ちじゃなく、自ら剣を執る実戦派の貴族。

 

「明日の朝、熱が引いたら司祭様にこう切り出すはずだよ。『探している人がいる』ってね」


「……ってことは、現在進行形でトラブルの渦中にいる人なの? 巻き込まれたりしないでしょうね」


「これ以上首を突っ込まなければ大丈夫さ。どうせ領地内の揉め事だろうしね」


「なによ、自信満々に……。今のあんた、ちょっと怖いんだけど」


「フフフ。酔って適当なことを言ってるだけかもよ?」


 そんな予言めいたことを口にして、少し酔いが回ってきたボクは、チェイサー代わりのビールを喉に流し込んだ。


 話題は「もしかしたら」の推測から、今世間を騒がせている具体的なニュースへと移る。どうやら最近、セウロハとセウアマリロの国境付近を領地とする貴族の噂が、修道院にまで届いているらしい。


「王都貴族の令嬢が、地方の領主家に嫁ぐっていう話。近々、派手な結婚式が行われるらしくてね。商人たちがその特需を嗅ぎつけて、続々と集まってきているのよ」


「ん? なんで王都貴族がわざわざ地方に輿入れするの? 逆ならまだ分かるけど」


 地方貴族は実務として領土を治める者たちだが、王都貴族は宮廷という閉鎖的な空間で生きる特権階級だ。二つの間には深い溝がある。王都側は地方を「野蛮な田舎者」と見下し、地方側は王都を「実力のない腰抜け」と嫌悪しているのが通例だ。


「浪費で首が回らなくなって身売りするなら、地方貴族より金を持っている商人と縁組するはず。それとも、娘が多すぎて持て余している家柄なのかな?」


「いいえ、むしろ資金を必要としているのは地方の側なのよ。あのファンタリー家が複数の領主と協力して、川を繋いで巨大な運河を作る計画を立てているんですって」


「なるほど……中央の令嬢を迎え入れることで、国家プロジェクトに『王都の威光』という後ろ盾を得ようとしているわけね」


「そう。領主同士の利権争いを仲裁する役目もあるから、お互いにとって利があるのよ。貴族同士の派手な婚礼となれば経済も動くし、一大イベントになるわね」


「へー……。みんな、よくそんなことまで考えるね」


「っていうか、あんた。あんなに本を読み漁って知識だけはあるのに、どうして世情にこれほど疎いのよ。もう少し世間に目を向けたら?」


「……返す言葉もない」


 図星を突かれ、ボクはぐうの音も出ずにビールの最後の一口を飲み干した。

 だって世間はそんな順風満帆に動くかね?と問いかけるように、雨はさらに激しく修道院の窓を打ちつける。


「そういえば王都貴族の方はなんていうんだい? 」


「たしかボルク家だったわね」

 


 

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