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雨と血の匂い

 この世界において、修道院とは文化・知識・福祉を司る「中央施設」である。

 そこは単に祈りを捧げるだけの場所ではない。農業、医学、開拓、そして福祉に尽力し、民の生活を根底から支える礎なのだ。

 ある時は学院であり、またある時は膨大な知を眠らせる図書庫であり、研究所であり、ホスピスや診察室としての役割も兼ね備えている。


 指導者の理念によって、修道院が何に重きを置くかは千差万別だ。

 僕たちの館の近くにある修道院は、とりわけ薬草の栽培や農業、新天地の開拓に力を入れている。そこで醸造される「心水しんすい」の評価は極めて高く、師匠も時折、修道女たちから礼として譲り受けては、館へと持ち帰ってくる。


 師匠が書き上げた高度な魔導書が、そんな泥にまみれて働く修道女たちの手によって、開拓地の子供たちの教科書へと姿を変える。

 

 今日は、師匠がセウロハの王都まで公務で出張に出かけている。

 主のいない広大な館に一人で残るよりは、馴染みの修道院で何かと面倒を見てもらう方が都合がいい――。

 師匠のそんな配慮もあり、ボクは師匠が書き上げたばかりの魔導学書を手土産に、修道院へと向かっていた。


 降り続く小雨が、抱えた書物を濡らさないよう外套の中にしっかりと潜り込ませる。

 特級騎士アレクシスの直筆本。市場に出れば家が数軒建つほどの価値がある代物を、近所の修道女たちへの「手土産」にしてしまうあたり、僕たちの生活はいささか浮世離れしているのかもしれない。


 ぬかるむ足元に注意しながら、僕は雨に煙る修道院の尖塔を目指して歩を進めた。

 山間部特有の冷え込みが、霧と共に肌を刺す。

 湿り気を帯びた空気にうんざりしながら歩を進めていると、道の傍らに力なく蹲っている男の姿を見つけた。


 雨に打たれたのか、それとも川に転落したのか。

 泥にまみれ、びしょ濡れになったその服は、お仕着せなどではない。都市の豪商たちがこぞって買い求める、極めて上品な仕立てのものだった。有名な刺繍ギルドのマイスターが心血を注いだであろうその一着は、家が一軒建つほどの金貨を積まなければ手に入らない代物だ。


 断っておくが、ボクは別に洒落っ気に詳しいわけじゃない。

 ただ、色町にいた頃、姐さんたちの気を引こうとしたお大尽たちが、似たような服をよく持ち込んできたのだ。

 

 気に入らない男からの贈り物を、姐さんたちは「あら、素敵ね」と微笑みながらやんわりと突き返していた。あの時の、家が建つほどの金を注ぎ込んだ男たちの気の毒な背中……。色町ではよくある日常の一幕だが、こんな山奥でその「光景」に出くわすのは、どう考えても場違いだった。


 面倒事に巻き込まれる予感はあったが、見捨てて通り過ぎるわけにもいかない。意を決して声をかけると、青年は穏やかにこちらを振り向いた。


 整った顔立ちの、知性を感じさせる青年だった。泥にまみれてなお漂う聡明な雰囲気と、その贅沢な仕立ての衣服。一目で、どこか良家の出であることを確信させる。


 だが、その表情は苦痛に歪んでいた。

 肌は青白く、唇は紫に凍てつき、端麗な顔立ちは死の影に薄く覆われている。


「……どうして、こんな場所で独り立ち尽くしているんですか?」


「……移動の途中で野盗に襲われて……奴らは退治したもだが、馬車が壊れ、この雨の中、立ち往生していた」


 淀みのない、落ち着いた声。だが、そこには語られない複雑な事情が横たわっているはずだ。

 何にせよ、このまま雨に打たれていては、風邪を引く程度では済まないだろう。


「この近くに修道院があります。まずはそこで身体を休めませんか」


「それは……助かる。ありがとう」


 青年は安堵したように、微かに口元を綻ばせた。やはり彼も、己の命が危機に瀕していることを自覚していたのだろう。

 肩を貸すべく彼に近づき、その身体に触れようとした、その時。


 雨と泥の匂いの奥から、鉄錆のような――隠しようのない「血の匂い」が、ボクの鼻腔を掠めた。

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